第11話 紫紺の牡丹は人を騙かす
家に帰って数日が経っていた。正確には、今日が何日で何曜日かも分からないまま、暗い部屋に閉じこもって時間を潰していた。廃人のように、まともな食事も水分も摂らずに布団を被って眠り続ける日々。そんな生活に慣れかけていた時、玄関のチャイムが鳴った。
「炭咲さん、ご自宅にいらっしゃいますか。各務家の者です。お嬢様からの伝言をお伝えするために参りました」
聞き覚えのない声だった。僕は重い体を何とか起こし、ふらつきながら玄関へと向かった。ドアに手をかけたものの、鍵を開ける気力すら残っていなかった。
「お願いします。話だけでも聞いてください。もう最後かもしれません」
ドアの向こうから聞こえる切迫した声に、僕は壁に背中を預けたまま、返答もできずに黙って相手の話に耳を傾けた。
「まだ反応がございませんか。下がっていてください。私が予備キーを所持しております。これで開錠できるはずです」
「あの、失礼ですが、そちらのキーはどちらでお求めになったのでしょう」
「これでございますか?一階の宅配ボックスに入っておりましたので、お預かりしてまいりました」
「それは法に触れる行為ではございませんか。お嬢様のお名前に傷がつくようなことは、どうかお控えください」
「学校の先生からご指導いただいた方法でございます。ご心配には及びません」
すぐ近くでこひなの声が聞こえ、外から鍵穴に鍵を差し込む音が部屋に響いた。しかし僕は、ドア一枚向こうが外の世界だということに心細さを感じて怯えていた。
カチャリと鍵が開く音がした後、ドアが勢いよく開かれた。
「炭咲!」
こひなの声が部屋に響く。半ば意識が朦朧とする中で、夢とも現実ともつかない足音を聞いた。何かに苛立っているらしく、乱暴な歩き方だった。
「牡丹さん、急いで車を用意して出発準備をしてください」
暗闇の中に白く光る人影が現れ、その輪郭はどんどん明瞭になっていく。やがて椿柄の着物を着た女性の顔が網膜に映った。こひなだった。その後、僕はあっさりと気を失った。
◇
朦朧とした意識の中で、周りの声がぼんやりと聞こえてくる。
「——時間がありません。どう考えても、今起こさなければもう間に合いません。体の回復は移動しながらでも大丈夫でしょう」
「無茶を言わないでください。香月さんの話を忘れたのですか?いくら各務先生が緊急だとしても、炭咲は死にかけていますよ。本当に死ぬか死に損なうかの境界線上にいる人に無理をさせるなんて酷すぎます」
「こひな様は少し黙っていただけますか?今は炭咲さんの保護者である香月さんとお話ししています」
「はあ?それ何?気持ち悪い」
こひなが鼻で笑った。
「保護者の資格なら私にもあるから、勝手に部外者扱いするのはやめてもらえます?」
「話になりません。いつからあなたが炭咲の代弁者になったというのですか。ご家族を前にしてわがままが過ぎます」
「いつからって、炭咲が気になってからです!何か文句でもありますか?」
うるさいという漠然とした不快感が、薄れゆく意識の隅に引っかかっていた。何かに対する苛立ちらしきものを感じるが、それが何なのか、なぜなのかも定かではなかった。
「香月さん、ずっと黙っていないで、何か話してください」
こひなの声には、わずかに困惑した様子が滲んでいた。
「そうだな。医師として言わせてもらうと、現状での移動は非常に危険だ。ただ、あくまでもこれは医者としての話で、春くんの判断には何の役にも立たない」
椅子がきしむ音がして、香月が体勢を変えたようだった。少し間を置いてから、いつもとは違う軽い調子で続ける。
「ところでこひなちゃんは、具体的に春くんのどこが好きなんだ?あの子って結構、人に対して厳しいから、中々人から好かれないんだよね」
「香月さん、炭咲があんな状態なのに、恋愛話をするのはどうかと思います」
こひなの声は相変わらず落ち着いていたが、わずかに冷たさが増したように感じられた。
「それとも、医者として患者の知人を安心させるための話術ですか?」
天井のシミが僕を見下ろしていた。それは僕が見慣れたシミではなかった。僕は慌てて上体を起こした。右腕から鈍い痛みと共に痺れが伝わってくる。気がつくと、片腕にはリンゲル液の点滴針が刺さっていて、記憶にない部屋にいた。
カーテンで囲まれて周りが見えないが、向こう側から聞こえる話し声と、空気に漂う独特な匂いで察しがついた。コーヒーの苦い香りと、消毒液とは違うアルコールの匂い、そして薄っすらとタバコの匂いが混じり合っている。間違いなく、香月の執務室にいるのだろう。
「すみません、誰か。ここがどこなのか教えてもらえますか?」
カラカラに乾いた喉から、掠れた声が出た。
水を探そうと体を動かすと、カーテンが開いてこひなが現れた。泣きそうな悲痛な顔をしている。僕は何と言えばいいか迷ったが、泣きながら抱きついてくるこひなを片腕で受け止めた。
「無事でよかった」とこひなが言った。
僕が辺りを見回すと、壁際に立っていた男性と目が合った。まるで古い映画から抜け出してきたような人だった。身長は170センチほどで、痩せた体に白髪が混じった髪をきちんと整えている。その佇まいには、長年主人に仕える者だけが身につけられる、独特の品格があった。
「お初にお目にかかります。各務家に仕える牡丹一華と申します。大変恐れ入りますが、直ちに本家までお越しいただけますでしょうか」
僕は咳払いをして聞いた。
「本家の方が僕に何のご用件ですか?」
「移動しながらご説明いたします。今はとにかく私の言葉を信じて動いていただけませんか?」
横で話を聞いていたこひなが、氷のような視線を牡丹さんに向けて言った。
「炭咲は動かせません。詳細な説明もなしに連れ出すなど、論外です」
強い拒絶反応を示すこひなの声には、普段の冷静さに加えて警戒心が込められていた。確かに筋の通った話だった。僕は何も言わずにいたが、本家にいるステラのことが心配で、牡丹さんの申し出を断る気にはなれなかった。
「分かりました。手短に現状をお伝えします」
牡丹さんは本家で起きている事態について手短に説明してくれた。ステラが危険な状況にあること、一刻も早く向かう必要があることなどを。
その説明が終わると、コーヒーカップをソーサーに置く音がして、香月が口を挟んだ。
「今回は本当に危険だった。その腕に頼り切って体を壊し続けるなら、今度こそ本当に死ぬぞ」
いつものように抑揚なく続けた。
「当面は絶対安静が必要だ。完全に体調が戻るまで、危険な仕事は一切断った方がいい」
苦い笑みがこひなの頬に浮かんだ。
「ね、炭咲?各務家には他の人を送ることもできるから」
彼女はベッドサイドに歩み寄りながら、優しく語りかけた。僕が何か言いかけようとすると、こひなは僕の言葉を遮るように、そっと手を僕の手首のあたりに触れた。感覚は失われているはずなのに、彼女の手の温かさが僕の中の何かに語りかけてくるような気がした。
「本当に、無理しないで」
冷静さの奥に隠れた切実な心配が滲んでいる。僕が倒れた時の恐怖が、まだ瞳に暗い影が残っているのが見えた。
「春くん、君が倒れた時…あたし、本当に怖かった。あんなに大量の血を吐いて、呼吸も止まりそうになって。もしあの時香月さんがいなかったら、炭咲は――」
震える声に僕は彼女の手を軽く握り返してから、「大丈夫です」と言いかけたが、軽く手の甲を叩かれた。
「その『大丈夫』は信用できない」と言いながらも、僕の手を離そうとしないこひなだった。
「春くん、君の体は今、懐炉の中の炭と同じ状態に置いてある。傷口が自然に再生する速度よりも、炭化が進む速度の方が上回っている。子供の頃に移植した巨樹の細胞が焼かれて他の臓器、特に心臓と肺の機能が急速に低下している。いつ限界を迎えてもおかしくない状態だ」
香月が電子タバコを口にくわえ、鼻から煙を吐いた。
「血痕や粘膜の剥がれた跡が残っているのを見る限り、最近また大量の血を吐いたり倒れたりしたことが少なくとも二、三回はあったはずだ。再生のトゲが既に寿命を尽くした現状では、炭化させる頻度が増えるほど体は内側から崩壊していく。今まではそれなりに心臓から遠い部分から炭化が進んでいたが、今後は炎を灯し続け、燃やし尽くすまで炭化を止められないと思う」
僕は天井を見上げた。いつか来ると分かっていた結末を改めて告げられただけのことで、特に何も感じることはなかった。
「ステラを取り戻すまでは、もう少し時間があると思っていたんだけどな」
声に出してみても、やはり何も変わらなかった。
「君の体は巨樹の細胞のおかげで、普通の人間より生命力は強いはずだった。だが今の状態では、その特殊な体質すら維持できなくなっている。医者の俺が言うのも何だが、自分の体の限界は君が一番分かっているだろう」
確かに体の異常には薄々気づいていた。でも今はそれどころではない。僕は腕から針を抜き取った。点滴針を抜いた腕の血管部分にガーゼを押し当て、包帯で固定して止血した。
「申し訳ありません、今日一日だけ正気でいられる薬を処方してください」
「はあ、炎を起こす前にこれを飲みなさい」
香月は薬入りのピルケースを軽く投げてよこした。
「せめて痛みからくる頭痛が酷くなるのを事前に防いだ方が動きやすいだろう。後から飲んでも効かないから、必ず能力を使う前に飲みなさい」
薬を受け取り、こひなの顔を見た。怒ったような、心配するような曖昧な表情をしている。僕は軽く頭を下げて部屋を出た。
「こひなには色々とすみません。会ってからずっと僕の世話をしてくれて、面目次第もありません。帰ったら全部お返ししますので、もう少し待ってください」
「もう待つだけの時間にはうんざりだから、あたしも一緒に行く。問題ないですよね、牡丹さん」
同意を得る前にベッドから体を起こした。
「問題になることは特にありません。先に出て車を用意しますので、病院の地上駐車場でお待ちください」
僕は水を一口含んで喉の奥に飲み込んだ。「香月さん、行ってきます」
香月は挨拶の代わりに手を振ってくれた。
◇
病院を出た僕は、巨樹の北にある桜並濠区域まで車で移動した。牡丹さんの説明通り何かの事情があるようだが、頭がもやもやして途切れ途切れにしか話が聞けなかった。出発前に飲んだ薬の副作用で眠気があるようだ。背筋から冷や汗が流れ続け、焼きごてを押し付けられたような痛みの記憶が両腕を長く苦しめた。ふと意識を向けると、隣席に座っていたこひなの肩に頭を乗せていた。
「要するに、ネネ様をあの家から救出することが最終目的になります。私の説明に不明な点はございますか?」
「ない」と短く答えた僕は、ピルケースの中の薬を一気に飲み込んだ。全部で六個あった。副作用も普段の六倍は強くなると思うが、一時的にでもステラとの再会で血を吐くようなイレギュラーは避けたかった。
ステラの前では何があっても弱い姿は見せない。僕は極限状態まで自分を追い込んで覚悟を決めた。
「炭咲さん、本家に着きましたが、体の具合はいかがでしょうか?」
浅い眠りで眠気の残る目を擦りながら、僕はぼんやりと窓ガラスの外を眺めた。そこには自分がヨーロッパにいると勘違いするほどの、異様な雰囲気を醸し出す光景が広がっていた。
敷地内には池や天然石が配置され、植栽が施された閑静な別荘地に建つ豪邸は、何世代にもわたって住み継がれるような威厳を保つ一軒家だった。木々が生い茂る森の中に格調高いデザインで設計された庭園には、数え切れないほどの植物が配置されていて、圧倒的な風景に言葉を失った。
突然、一発の銃声が豪邸の中から聞こえた。
「お嬢様が動き始めたようです。急ぎましょう。道案内をしますので、私の後についてきてください」
駐車場から豪邸まで階段が続いていて、階段を駆け上がると玄関前にまた小さな庭が現れた。しばらく人の手が入っていないように、枯れた花と木の植栽が形だけ残っている。僕たちは死の影が長く伸びた庭を通り抜け、大理石で建てられた各務家の豪邸に到着した。
牡丹さんは豪邸のドアに耳を傾けて軽くノックした。
「牡丹です。例の保護者と一緒に戻りました」
中の誰かに向かって小さく囁いた。
「中の状況はいかがですか?」
「当主様はまだ三階におられます。君たちは台所の裏門が開いているから、そこから中に入りなさい。ご令嬢様は南の廊下から階段を上がってすぐの部屋に隠れておられます」
「ご協力に感謝します。報酬は仕事が終わった時にお支払いします」
「万が一当主様に気づかれた時には、私は君たちのことを全面的に否定するつもりだ」
謎の声は二度軽くノックしてから話を終えた。
「裏門は反対側にありますので、ここからまた走る必要があります。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
裏門まで走りながら、前方に見える巨樹に目を奪われた。
かつて江戸川区からも遠くに見えた巨樹を、これほど近い距離から見ることは滅多にない。この時期は痩せた枝が地面に網のような影を落としている。
しかし春が過ぎて夏になると、東京都全域を超えて日本列島を覆い隠すほどの勢いで枝を限りなく伸ばす。それが原因で巨樹の下の街には陽が当たらないため、春から夏の季節にはバベルが定期的に日差しを与えに地上近くまで降りてくる。
普通の日差しと何が違うかは写真でも分からない。目には見えなくても確かにそこにある空気のように、巨樹の下にいる人間は、ごく普通に陽の当たる街と変わらない日常を過ごし続ける。
僕は時々こうして巨樹を見上げていると、巨樹の影が濃くなっていく印象を受ける。だが、その黒い影が足元に数滴滴り落ちる街にいる間は、自然に周りと同期している自分がいる。
まるで人が海の中を自由に泳げるように、未知なる存在への恐怖と説明できない自由に包まれ、体は都外にいても魂は巨樹に縛られて生きている感覚が確かにある。
「申し訳ございませんが、こひな様は炭咲さんが戻るまでここでお待ちください。三人が一緒に屋敷内をうろついていては、当主様に発見される恐れがあります」
牡丹さんは懐から鍵を一つ取り出してこひなに渡した。
「これは庭にある倉庫の鍵です。お嬢様がよく使われた新吉原まで通じる扉があります。私と炭咲さんが三十分以内に出てこない時は、この鍵を使って一人で先に逃げてください」
こひなを外で待機させ、僕は牡丹さんと一緒に豪邸の中に潜り込んだ。台所に足を踏み入れた時、温もりは一切感じられないほど空気が冷たく重々しかった。一日二日どころか、一年以上は食事の準備を行っていないように見えた。台所を抜けて正面の階段を上がり、二階に向かった。
あれは一体何だと思い、ちらりと廊下の方を見ると、頭だけが残った獣の標本が列をなして壁際に並んでいた。これほど常識外れの趣味を実現できる時点で、狂気しか感じない。
「先々代の思いを引き継いだ趣味です。ここから廊下の端まで、当主様の叔父様が狩りに出かけて戦利品として持ち帰った動物たちです」
牡丹さんは眉をひそめた。
「今の当主様のものは、あれを含めて二つだけです」
それを聞いた僕の視線は、一か所に留まった。
「当主様が初めて作られたのはあの人形ですか?意外と派手なものがお好きな方のようですね」
人形は全裸の姿で、白い肌が花の色に染まるように、ガラスの棺に収められていた。黄色い髪にエキゾチックな異国情緒あふれる顔立ちが特に印象的である。御伽話に出てくる白雪姫が眠りに落ちた時を再現しているようだった。
よく見れば、こひなが装着している人形とは若干の違いがあるが、清らかで整った顔立ちがアリマのモデルによく似ている。恐らくあれは、各務コーポレーションが最初に造ったプロトタイプかもしれない。
「やはり素人の目にもそう見えますか」
牡丹さんはしばらく間を置いてから、かろうじて話を切り出した。
「あれは……当主様の奥様です。二十年前にお亡くなりになって以来、ずっとあの場所で屋敷を見守っております」
思わぬ真実に息が詰まった。嫌な想像が頭をよぎった時、二度目の銃声が屋敷内に轟いた。僕はあの人形を目の当たりにして、なおさらステラの身の上が心配になった。
「牡丹さん」
胸の底から湧き上がる感情で口が勝手に動いた。
「ステラの母親は誰ですか?」
「ステラ?あ、すみません。確かに末井様のことを『ステラ』と呼んでいましたよね」
泰然とした口調で名前を述べる牡丹さんの顔から、ぎこちない笑みが消えた。
「ああ、これはお嬢様に怒られますね」
「お前たちは人をどこまで馬鹿にする気だった?ふざけるのも大概にしろ。言え、ステラはどこの施設から連れてきた?あの小さな子に何をさせた?」
怒りが体を震わせた。僕は血管に熱いものが流れるのを感じながら、弱くなった腕で牡丹さんの胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。僕は彼らが隠している事実を暴き出すつもりだった。
「落ち着いてください。ここで立ち止まって話をしても、時間が流れるだけで状況は何も変わりません。ステラとおっしゃいましたね?あの子を助けるには今が最適です。急がないと間に合いません」
僕は拳を握りしめながら、目の前の図々しい男に低い声で告げた。
「…ステラは俺が保護者として連れて行く。将来的にも、各務家に関わったすべての人間は、個別にステラへの連絡を禁止する。会いに来ることも一切禁止だ。アリマも例外ではない。俺の話の意味が理解できたか?」
僕の要求を聞いて、牡丹さんは肯定するような表情を浮かべた。この人はだいぶ悪質な大人だと僕は後から思った。こひなや香月の前では見せなかった陰険な目つきだった。余裕のある態度が気に入らなくても、ステラを探すまでは我慢だ。
それにしても、ステラがアリマに抱いた愛情に偽りはつゆほども感じられなかった。特殊な教育や洗脳を受けた可能性はあるが、二人とも目鼻がそっくりだった。血縁関係でなければ、奇跡的な確率でしか存在し得ないドッペルゲンガーを見つけ出し、家族の一員として迎え入れたという、常識では考えられない状況が生まれることになる。
もっと時間があれば良かった。僕は自らの不甲斐なさに苛まれ、この状況の裏に隠された別の真実を見逃しているのではないかという不安に心を掻き乱された。しかしそれもまた、今この場で交わす話ではなかった。
「末井ステラ様は当主の書斎にあるセーフルームに隠れています。ドアのロックは中から解除しないと、外の人間は入れない仕組みになっています」
なるほど、それゆえに僕という存在が求められているのかと理解しつつ、廊下の端にある書斎のドアを開けて中を確認した。床には棚から落ちた本や額縁が散らかっている。人の気配はない。安全を確保してから中に忍び込み、セーフルームと思われる扉の前に立った。
部屋に入ってすぐ、空気中に漂う火薬の匂いで不愉快な気分になった。鼻を押さえながら室内を見渡すと、壁や天井のあちこちに無数の銃痕があった。床には少量の血痕と、十発を超えて使用された薬莢が落ちている。まさに地獄絵図であった。
開かぬ扉に向けて闇雲に銃弾を浴びせかけ、跳弾によって自らの身を傷つけたのであろう。使用された武器は散弾銃に違いない。狭い室内においては、これほど破壊的な威力を発揮する凶器は他にない。かくも凶悪な殺傷道具を幼い子供に向けた各務家の当主に対し、僕は生まれて初めて父以外の人間への殺意を覚えた。ステラを一体何だと思っているのか──そう問い詰めたい怒りが胸中で渦巻いていた。
「弾切れを待ってから脱出するのは難しいですか?」
僕の質問に牡丹さんは素早く答えを返した。
「ありえなくもないですが、当主様は常にアシスタントを同行させて狩りに出かけます。今日も例外ではありません」
僕はため息を飲み込みながら、次の対策を考えた。
「だとしても、相手が銃を持っている間に下手に子供を連れて動くのは非常に危険です。屋敷内に秘密通路はありませんか?」
「その問題についてはお嬢様の方で手を打っております。あまり信用できないと思いますが、末井様が信じるお嬢様を信じてください」
その台詞まわしに、どこか芝居がかった響きを感じる。
僕は時間に追われるような切迫感に急かされ、重厚な扉を叩いた。
「ステラ、僕が来た。扉を開けなさい」
「何をやっているのですか、炭咲さん」
牡丹は厳しい表情で僕を見据えた
「やけに子供が怖がるような言い方はお止めください」
咎められた口調を正し、今度は包み込むような優しい声で扉越しに呼びかけた。
「ステラちゃん、扉を開けてください。僕、炭咲だよ」
「お嬢様からは子供の扱いに長けた方だとお聞きしておりましたが、今拝見した限りでは些か疑問符が付きますね」
呆れ果てたような表情で僕を見据える牡丹が、思い出したように一言付け加えた。
「そう言えば、姉様が好きなあだ名で呼んでみてください、とお嬢様から伝言を預かっています。何か思い浮かぶことはありますか?」
あだ名といっても、特に何も——」そう言いかけて、僕の言葉は宙に消えた。
あだ名などではない、ステラが僕から聞きたがっている特別な呼び方があることを思い出した。普段は照れくさくて口にできずにいたその言葉を、僕は愛情を込めて紡いだ。
「ステラ、遅くなってすまなかった。ステラが愛してやまないパパが迎えに来たよ。もう大丈夫だから、扉を開けてくれるかい?」
扉の向こうでステラが素直に応じてくれた。鋼鉄の扉が開かれると、密室に籠もっていた冷気が溢れ出すと同時に、小さな影が僕の胸に飛び込んできた。僕は突然の衝撃に体勢を崩し、そのまま床に倒れ込んだ。やがて、ステラの嗚咽が静寂を破った。それから、ステラの泣き声が聞こえた。
「パパあァあ、ステラ寂しかったの」
僕は泣きじゃくるステラを胸に抱き寄せ、その小さな背中を優しく撫でながら慰めた。触れた肌は外気に晒されていた僕よりもずっと冷たかったが、熱を持っている様子はなかった。
「ステラ、可愛い写真もいっぱい撮るから!パパが嫌いなことはしないから!前よりずっといい子にするから、ステラを一人にしないで、パパ」
僕は、ステラに何も言葉を返すことができなかった。これほど切実な願いを向けられては、どのような言葉も喉の奥で凍りついてしまう。
「お父さん、一人は寂しいの。僕も一緒に連れて行って。もっと頑張るから、僕を見捨てないで」
施設に預けられることを告げられたあの日のことが蘇った。灼熱のアスファルトの上で父の足に縋りつき、必死に謝罪の言葉を重ねた。しかし許しを得ることはできず、ついには作り話の懺悔まで口にして父の気を引こうとした。実際は、僕の過ちではなく、あの男が元凶だったのに、幼い僕は見捨てられる理由を自らの内に求めようとした。
「もういい、もういいよ。ステラ、君は今でも充分、いい子だ」
疲れと優しさが混じっていた声にステラは一筋の希望に揺れる瞳で答えてくれた。
「本当に?じゃあ、ステラのことを置いて行かないの?」
「もちろんだ。今日は、パパがステラの言う通りにするから、帰り道に何か欲しい物があったら教えてね」
「本当の本当に?もうステラ、ここ来ない?」
小さな手が僕の袖を掴んだ。
「本当の本当だ。ここはもう二度と来ない。パパが約束する」
「やった!ありがとう、パパ。優しいパパが世界で一番好き!」
ステラの顔に満面の笑みが咲いた。そう言った後、ステラ彼女は部屋全体を見渡した。
「ネネも一緒に帰っていい?」
その質問に僕はしばらく躊躇った。理由はどうであれ、世間が偽物だと言っても、ステラにとっては本物の兄弟姉妹関係だった。僕がそれを知った上で、二人の間に真実を打ち明ける資格などない——名残惜しさに濡れたステラの瞳を見て、僕は口を閉じた。
「はい、ロック解除しました。はい、あちらも外に出て身柄を確保しました。どこに連れて行きましょうか、当主様?」
自分の耳を疑って後ろを振り返ると、牡丹さんの片手に携帯電話が握られていた。通話相手は、各務家の当主だった。最初からあの人は、当主との取引のために僕を利用していたのだ。
「今からそちらに向かいます」
牡丹さんは電話を切って僕に手を伸ばした。
「ということで、一緒に来ていただけますか、炭咲さん」
今更気付いたところで、自力で迷路のような豪邸を逃げ出す方法は、事実上皆無に等しいことをよく知っている。だからなのか、あの平然とした顔を見る度に僕の腹が立った。
僕はステラが見えない角度で牡丹さんの腹部を強く殴った。
「ステラに指一本でも触れたら、てめえを灰にしてやる」
「承知いたしました。一旦、私について来てください。当主様が外でお待ちしております」
他に選択肢がなかった僕は、ステラを背負って大人しく各務家の当主がいる場所まで移動した。独りで待っているこひなには申し訳ないことをしたかもしれない、と僕は心の中でお詫びの祈りを捧げた。




