第3話〜言い表せない感情
…………。
狭い洗面所、二層式の洗濯機、タオルの置かれた棚。
曇り窓の外はすっかり日は落ちて、虫の鳴き声なんかが聴こえてくる。
鏡に写っているのは薄らとくまの残った精気の感じられない、冴えない男の姿。
入院と実家での睡眠だけでは、塗り込まれたようなくまの存在感が消えることはなかった。
それでもきちんとした食事と休養のおかげか、顔色そのものは悪くない。
ただ疲れきったような目元とつまらなそうな表情が、二十代の若さを感じさせてくれなかった。
「はぁ、辛気臭いな…」
自分の顔なのに、どこか他人みたいだった。
じっと鏡の中の自分を見ていると、後ろめたさとか恨みがましさのようなものを感じてしまう。
また少し、胃のあたりがきゅっとするような、不快感が走った。
エナドリやらの飲み過ぎで弱った臓器が、今更苦情を言っているようだ。
いや、前々から体の至るところから不調の兆しは出ていたか。
無視して、気付かないふりを続けてたツケが来た、それだけだ。
鏡に写った自分から目を逸らして服を脱ぐ。
曇りガラスの扉を開けて、風呂場へ。
色褪せた桶でお湯をすくって、何度か頭からかぶる。
長い前髪がお湯で解けて目の前にかかる。
「……そろそろ髪を切らないとな」
休みもまともになくて、髪を切りにいくのも時間がもったいなくて、自分で切ろうとしたことがあった。
けれど見えてる範囲すらイメージ通りにはいかず、結局いつもの理髪店に行ったのは今となっては笑える話、だろうか。
「近所に店、あったっけ…?」
そういえば、子供の頃はどうしてたんだったか。
頭と体を洗って、湯船に浸かった。
「……はぁ」
少しぬるま湯の、けれど温かい湯に浸かって、思わず声が出る。
前は風呂を沸かす時間も、水道代がもったいなくてシャワーだけだった。
働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりし、なんて。
多少の金は貯まったが、それで身体を壊してたら元も子もない。
温かいご飯、ゆったりできる風呂、干されてふんわりした布団。
一人暮らしの時には、手に入らなくもなさそうなのに、手に入らなかったものだ。
時間をうまく使って、やる気を出せばなんとかなったかもしれない。
けれど人間、忙しいと段々楽な方へ、手間の少ない方へと流れていくもの。
手軽なコンビニ弁当、手早いシャワー、すぐ横になれる敷いたままの布団。
一人で何もかも完璧になんてできやしない。
けれど、一人でもなんとかはなってしまう。
たとえ大切な何かを少しずつ擦り減らしながらなのだとしても。
いずれ限界がやってくると薄々分かっていても。
…………。
なんてことを考えてぼーっと湯に浸かっていたら、脱衣所の方で音がして、曇りガラス越しに誰かが入ってくるのが見えた。
母が洗濯物を洗いにきたのか。
なんて思っていたら…
ーーーガララ!
「にーちゃ!」
「うわちょ!?なんだ!?」
浴室の扉を開けて、素っ裸のケイが入ってきた。
よく日に焼けた部分と、そうでない真っ白な肌色のコントラスト。
健康的な日焼けと、服の下にある白い皮膚の色の対比が目に焼き付く。
一糸まとまない姿のケイは、にかっと楽しそうに笑った。
「一緒に風呂入ろ!」
満面の笑み、細い肩、平らな胸、へそ、そして…
思わず視線が下に下がっていき…
ついてた…!
男の子の証拠を直接見れたことで、ようやくほっとした。
ナニがとは言わないが。
「あー、まぁいいか。ほらほら、かけ湯して、体洗いな」
「分かった!体洗うから、代わりに頭洗って!」
「どういう理屈だよ…。しゃーねぇな」
なぜかケイの頭を洗ってやることになっていた蓮。
とりあえず湯船から出るために立ち上がった。
「にーちゃのでっけー!」
「んぉ!?やめろ!引っ張るな!」
ケイは、きちんと男の子だった。
…………。
縁側に座って、冷えたスイカをかじる。
ケイは両手でスイカを持って、機嫌良さげに足をぶらつかせていた。
今日はえりぐりの伸びたランニングシャツに短パン。
胸元が丸見えだ。
少し視線を向ける先に迷う。
いや、こいつは男だし、ラフな格好で胸元がチラチラ見えていても全く問題はない。
そう蓮は自身に言い聞かせる。
先程風呂場できちんと男の子だってことは確認した。
妙に意識する方がおかしい。
というか小学生相手にドギマギするのは変態じゃなかろうか。
しかもそれが先程男だと確信したばかりなのに。
一気に冷静になった。
よく見てみればケイが着ているのは、蓮が昔着ていた服だった。
裕福ではなかったし、着れなくなるまでずっと同じ服を着回してたから、こんなよれよれなのか。
お古とはいえ、こんなのを着させてしまって申し訳なくなってくる。
「悪いな、その服俺のお古だろ?今度新しい服買ってやるよ」
クビになったとはいえ、文無しになったわけじゃない。
むしろ使う時間がなかった分、そこそこ金は貯まってたりするから、子供服の二着、三着くらいなら全然気にならない。
しかしケイは、
「え?いいよ、この服で」
不思議そうな顔をしてそう言った。
「なんだよ、いらないのか?そんなお古じゃなくて普通のやつ買ってやるって」
「だってお金、にーちゃが頑張って働いて、もらったお金でしょ?かあちゃんが、にーちゃは都会でお仕事頑張ってくれてるから暮らしに余裕があるんだって言ってたよ。帰ってこれないのはそれだけ頑張ってるからだって。それにお金は大事だから、無駄遣いはダメなんだよ」
ズキン
胸が痛んだ。
心が軋んだ。
胃が締め付けられる。
緊張で、風邪を引いた時みたいに腰のあたりに寒気が走る。
確かに、どんなに忙しくても仕送りは欠かさずにやってきた。
家を出て、一人だけ残してきた母に、電話も手紙も出さなかったけれど、その代わりに仕送りだけは送ってきた。
けれど貯金は多少できたとはいえ暮らしはそんなに余裕はなかったし、毎月送れる額なんて微々たるものだった。
日々の暮らしぶりに、後ろめたさがあった。
だからこそ、仕送りだけはやめられなかった。
自分はこっちでもちゃんとできてる。
大変なことなんて何もないんだ、なんて虚勢を張るように…。
「……服は、無駄じゃないだろ。次の休みにでも買いに行くから忘れんなよ」
どう表現したらいいか分からない感情に蓋をして、そう言った。




