京編③
目を覚ますと、見覚えのある場所だった。
まだこの学園に来たばかりの頃、何度もお世話になった場所だ。
「起きたのね」
すぐ横で優しい声がして、如月先生の顔が目の前に見える。
「……せんせ……?」
「倒木の下敷きになってたのよ。たまたま通りかかった人が知らせてくれたの」
「倒木……」
全然覚えてない……。
「どうしてあんなところにいたの?森の中は危ないからダメだって、聞いてるでしょう?」
「……栗……。栗の木があったから……、栗拾いを……」
「もうそんな季節じゃないのよ」
知ってるよ……。でも、怜央くんに会うつもりだった、なんて言えるわけもない。
そういえば、怜央くんは?巻き込まれてないよね?
「頭を打ってるみたいだったから、精密検査をしたの。結果がわかるにはもう少しかかるけど、意識もはっきりしてるみたいだし、大丈夫ね」
「はい」
どこも変わったことは無いし、平気だと思う。
「待って」
え?
「あら……、あなたたち……」
「先生、これを」
突然医務室に入ってきた紅音さんが、何かの紙を如月先生に渡す。
「これは……!」
なに?それ、わたしに関係あるの?精密検査の結果かな?
というか、喉、渇いた。
「京」
紅音さんがわたしの隣に立ってた。わたしの顔を見て、少し眉を寄せると、ポケットからカッターナイフを取り出して、掌を切る。
「……!」
「飲みなさい」
その掌を差し出された。
「……大丈夫、です」
血の匂い……。嫌だ。嗅ぎたくない。
美味しそうなんて……バニラの匂いより美味しそうなんて、思いたくない。
「そうは見えないから言ってるの。飲みなさい」
「いりません」
「京」
顔を背けると、紅音さんの手でまた戻された。
「抵抗したって苦しくなるだけよ。その様子だと、タブレットでは補えないでしょう。早く飲みなさい」
「……嫌です」
「いい加減認めなさい」
「……っ!」
「どんなに避けたって、信じたくなくたって、わたしたちは病気なの。血を飲まなきゃ死ぬのよ。タブレットなんて、何の意味もない。ただ一時的に渇きを癒してくれるだけ」
「……」
「京ちゃん」
雪乃さんが優しく頬を撫でてくれる。
「血を飲むのは怖いわ。その気持ち、わたしたちもわかる。でも、それは命を繋ぐために大切なことなの。京ちゃんはね、もう3日も寝てたのよ」
「みっ、か……?」
「その間輸血と点滴が同時に行われてた。それがあったから、今、京ちゃんは生きてるの」
「紅音の血、美味しいから。飲める機会なんてないんだから、今がチャンスよ」
藍莉さんに体を起こされて、わかった。もう逃げられない。血を飲むしかないんだって。
両手で紅音さんの手を取り、ゆっくり口をつけた。
軽く息を吸った瞬間、口の中に、なにかが一気に広がる。
そしてそれは、初めて感じる幸福感のようなものに繋がった。
おいしい。どんな味って言えるような味じゃないけど、今までで1番美味しい。
どんなに甘いケーキより、大きなハンバーグより。どんなものよりもおいしい。
紅音さんの血をもらったおかげか、意識がはっしりしてきた。
「京、落ち着いて聞いてね」
「はい」
藍莉さんが真面目な顔してる。何を言われるの?
「……悪くなってるの」
「え……?」
「脳に衝撃を受けたことが原因なのか、元々進行するタイプの病気だったのかは、まだわからない。でも、あなたの吸血鬼症候群、悪くなってる」
「……ウソ……」
「こんな大事なこと、嘘なんて言えないわ」
紅音さんが冷たく言う。
「わたし、死ぬの……?」
「落ち着いて。この病気はね、進行することもあるのよ。発症した人間の3割は進行することも、ここ100年の研究でわかりかけてきてる。だから、怖がることじゃないよ」
3割が進行する……。かなりの確率だけど、今まで聞いた事ない。
「それに伴って、京、あなたの階級が1つ上がるの」
「上がるって……」
「“クー”から“アルニラム”になったのよ。変わるのは一つだけ。薬のケースが“アルニラム”用になるわ。今持ってるケースを補充する機械にセットしたら、新しいのに変わるから、部屋に戻る前にするといいよ」
「階級って、病気の重症度って噂、本当だったんですね……」
「……わたしたちも、その真相は知らないの。でも、そうじゃないかとは思ってる」
「藍莉、勝手なこと言わないで」
「事実でしょ、紅音」
「確かな情報じゃないわ。ただの推測よ」
紅音さんは隠したがってる。ってことは、これ、秘密の情報なんだ。
あんまり言わない方がいいってことかな……。
「とにかく、話はそれだけよ。他に異常はないようだから、部屋に戻れるなら戻りなさい。今回のことは、不意の事故として処理する。先生たちにも罰はなしということで同意してもらったわ」
「そりゃ、敷地内の木が勝手に倒れるほど腐ってたんだから、責任問題だもんね」
「藍莉」
「はいはい。京、立てる?」
「……はい」
藍莉さんの手を借りてベッドから立った。
ちょっとフラフラするけど、これくらいなら大丈夫だ。
「京さん、なにかいつもと違うって思ったら、すぐに医務室に来てね」
「はい。ありがとうございました」
如月先生には頭を下げて、医務室を出た。
売店の前で、いつものように薬ケースを機械にセットする。
『ケースを交換します』
機械的な声が聞こえてきて、セットしていたケースは勝手に空いた穴に落ちていった。
そして新しく出てきたのは、掌でようやく側面が覆えるほどの小瓶。
蓋の薔薇の模様が2つになってる。
……わたし、“アルニラム”になったんだ……。悪くなった。今までよりもっと。
治る可能性が減った?元々、治る確率低いのに?じゃあ、治らないの?
これからずっと、この病気と付き合っていかなきゃいけないの?
それとも……、もうすぐ死ぬ?……ううん、ちょっと待って。
わたしが“アルニラム”で、藍莉さんや雪乃さんはそれより上の“スピカ”、紅音さんは“ベガ”。
藍莉さんも雪乃さんも紅音さんも、わたしより悪いってことになる。
……じゃあ、大丈夫だよね?
「みゃーちゃん?!」
「虹香……」
声だけで虹香ってわかって、振り返ると、虹香が追突してきた。
「う……っ!に、虹香、痛い……」
「あ、ご、ごめん!それより、みゃーちゃん、大丈夫?!」
「大丈夫だよ」
「倒れてきた木の下敷きになったんでしょ?」
「あんまり覚えてないけど、そうみたい」
「……よかったぁ……」
虹香はわたしにすがりついたまま、ズルズルとその場に座り込む。
「ずっと意識ないって聞いてて……怖くて……」
「心配させてごめん。もう大丈夫だから」
「みゃーちゃんがいなくなったら、わたし、死んじゃうよ……」
「そんなこと言わないでよ。ほら、立って。部屋に戻りたいの。このまま置いていってもいいの?」
「ダメ!」
「じゃあ早く立ってよ」
虹香には、言わなくてもいいよね……?
次の日ようやく行けた教室に、いつもの本はなかった。
3日も寝てたみたいだし、やっぱり、もうあの手紙のやり取りは終わりかな。
おすすめされた本を読むのもだけど、文通、楽しかったのに。
「……あ」
まただ。喉が渇く。水を飲んでも潤わない。
前に比べて、薬を飲む回数が増えた。やっぱり、悪くなったせいかな。
でも、この薬、前と味が変わったような気がする。悪くなったら味覚も変わったのかな。
なんていうか……紅音さんからもらった血の方が、美味しかった。
あれに比べると、すごく薄味。美味しくない。それでも、飲まなきゃいけないからね。
……今夜、あの栗の木の下、行ってみようかな。
夜7時半。あの日と同じ時間に、寮を出てすぐの森に入り、校舎を目指して歩いた。
寮と校舎の間にある2本の栗の木を通り過ぎ、校舎が見えそうで見えない距離の栗の木に近づく。
その木に、男の人が背中を預けて立ってた。
スポーツマンって感じの、ここでは珍しくしっかりした体つきの男の人。
この人、怜央くん?いや、でも……。なんか、生徒というより、先生な感じ?
太陽の下を歩けない吸血鬼症候群にかかってるとは思えない。
生徒はみんな患者だけど、先生はみんな健康な人たちだもんね。
でも……、暗いからよくわかんないけど、すぐ近くの外灯に照らされてる顔は、青白い。
やっぱり生徒?わかんない。
どうしよう。先生だったら、見つかったらアウト。
今度は2回目だ。もうごまかせないだろうし。このまま声をかけずに帰るべき?
えー……でも、そうすると、怜央くん本人だった場合、もったいない。
「……京ちゃん?」
「え……」
その人が、こっちを見てた。
「京ちゃん、だよね?」
低い声。すごく低くて、優しい。
「……はい」
「よかった……、元気になったんだね」
「え……?」
「あ、オレ、怜央。いつも手紙、ありがとう」
「あ……」
怜央くんなんだ!
「びっくりした……すごく大人で……先生だったらどうしようって、声かけるか迷ってたの」
「そう?それはうれしいな。そうだ。怪我、大丈夫?」
「怪我?」
「ここで倒れてただろう?あれ見つけたの、オレなんだ。こっちじゃ女子寮の話は流れてこないし、先生なら知ってるかなっても考えたけど、聞けないしさ」
「あ、うん。昨日まで意識がなかったの。でも、今は平気。病気の方がちょっと悪化したみたいだけど、怪我はしてないよ」
「悪化って……。ごめん、オレがもっと早く来てれば……」
「怜央くんのせいじゃない。わたしだって、会えるの楽しみにしすぎて早く来ちゃってたし、木が倒れるのに気づかないとか周り見てなかったってことだし」
「いや、京ちゃんこそ悪くないだろ」
「じゃあお互い様ってことで!もうこの話やめよう!それより、楽しい話したい」
お互いに謝りあってるままじゃ、この時間がもったいないからね。
「わたし、いつも想像してたの。怜央くんの手紙読みながら、こんな人かなって」
「予想通りだった?」
「うーん……ちょっと予想外。だって、あんなにたくさんの本を読む人、もっとへにょってしてるヘタレな人かと思ってた。眼鏡で痩せてて青白くて。でも、怜央くんは正反対。眼鏡もかけてないし、すごく強そう」
「肌が白いのは当たりだけどね」
「ね、怜央くんは?怜央くんの想像してたわたしは、予想通り?」
「予想通りだよ。思った通りかわいい子だった」
「か、かわいいって……!」
一気に頬が熱くなった。言われ慣れてないから、照れる……。
「京ちゃん、明日も会いたいって言っていいかな?」
「え?」
「これから毎日……とは言わない。たまにでいい。来れる時に来てくれれば。オレ、毎日ここにいるから。だから、会いたい」
「それは……」
「……ごめん。無理だよな。困らせるつもりじゃなかったんだ」
「無理なんかじゃないよ。わたしも、怜央くんに会いたい」
怜央くんは顔をくしゃっとして笑った。
さっきの大人な怜央くんじゃなくて、すごく子どもみたいなかわいい笑顔。
その瞬間、胸がキュッと縮まるように感じた。
これだ。これが恋なんだ。この気持ちが、誰かを好きになるってことなんだ。
恋は苦しいなんて言うけど、あれはウソだね。
だって、苦しいなんて全くない。ただ幸せって気持ちしかない。
この人を好きになれてよかったって。これが恋なら、悪いことじゃないよ。