八話 『刹那のすれ違い』
結局お昼、パンを食べ損ねた羽知。放課後、バイトに行くまでの間にパンを腹に入れた。
対面で暇そうにしていた相田が唐突に言ってくる。
「なぁ、あっち向いてホイしねぇ? 俺が先攻な」
「ま、別にいいけど」
相田が指を左に向け、釣られるように羽知は右を向く。そこには胸の前に握った手を添える鴻崎がいた。勝敗――羽知の負け。
そのまま羽知は相田に向くことなく、鴻崎のほうに体を向けた。
「あれ、鴻崎。何してんの」
鴻崎は驚き、唾が気道に入ったのか咽返り、
「――あ! い、いや、別に用はなくてー……あ、そう、あ……なんでもない、です」
尻すぼみに鴻崎の声は小さくなり「お邪魔しました」と、するする教室前入り口から姿を消した。
「おい、追わなくていいのかよ?」
「いや、別に追わなくていいだろ」
「ありゃ恋してる乙女の目だぜ?」
「はぁ……は?」
「意識しすぎて簡単な会話も出来んのだろうな」
相田はうんうんと腕を組み頷く。
羽知は方眉上げて、
「誰に恋してんの?」
「お前に、だろ」
「マジかよ、俺、いつからそんなモテキャラになったんだ」
「いや、別にモテてねぇから、今すぐトイレ行って鏡覗け?」
「鏡ならいつも見てる」
そんな冗談を交わしつつバイトが始まる十分前に学校を出た。ただ確かに心のどこかではそうではないかなと思わないこともなかった。
――もしかして鴻崎は本当に俺のことが好きなんじゃ。
そう柄にもなく考えては惚気そうになり頭を振った。
仮に本当に鴻崎が俺のことを好きでも、俺は受け止められるのだろうか。正直付き合ってそれからを考えるなんて重い。学生の恋愛なんて目的などなく、もっと素直で良い。手に余る欲望を互いで発散するため、そんな下心が主でも構わない。けれどなんとなく、鴻崎とはそういうテキトウな付き合い方は出来ない。そんな気配があった。そう思慮深い羽知の心が言う。
羽知は下駄箱で、わずかに早まる鼓動に手を当てた。
19:00――
バイトが始まり、時計を見るとすでに二時間ほどが経っていた。今日は午後十時までのシフト。羽知の手際はマニュアルに沿った所作。カウンターに置かれたウイスキーの瓶三本と冷凍お好み焼き二つを受け取る。
「ICカードで……」
「あぁ、はい」
どこかで聞き覚えのある、枯草を踏んだ時のような声に、羽知は面を下に向けながら目だけを向けた。黒縁の度数の高い眼鏡。痩せこけた、やつれた哀愁漂う見覚えのない顔。けれど声はどこかで聞き覚えのある色。疲れた頭は思い出すのを諦めた。ただ前に客として知っただけかもしれない。ひたすら眠く、あくびを殺しつつ会計を済ませた。
「ありしゃしたー…………あと三時間」
比較的暇な店内。スマホは禁止だし、やることと言えば特にない。あるのだがそちらはこの前入ったマダムなバイトがやっている。あまりにも暇なときは店内を散歩がてらほかのバイトの手伝い。あるいは掃除。時間をつぶすのに最適なのは脳内カラオケ。好きな歌をずっと歌う。
そんな退屈を過ごしているとあっという間に上がり。適当にコンビニ弁当を買った。
蕎麦を買った。
帰り道に公園を見る。そして眉根を寄せた。その顔は少し怒りに近い。
「おい、何してんだよ鴻崎」
一瞬向けられた怯え眼が見えざる手のように羽知の喉を絞めた。けれどそれはすぐに顔見知りだと知り落ち着きを取り戻した。
「あ、こんばんは。誠也くん……バイトお疲れ様……」
「また家出か? いや、別に言わなくてもいい…………腹、減ってないか?」
「うんう、大丈夫」
「そうか。ならよかった。家、来るか?」
「…………え? そんな、悪いよ、こんな時間に……」
「いや、公園に居るほうが悪いわ。別に鴻崎が嫌だっていうんならそうすればいいけど」
「そんな、嫌なんかじゃない。でも、迷惑じゃない? 学校でも変な噂立てられて」
「別に気にしねぇよそんなこと。そりゃ、『気もない奴と噂を立てられたらいやだけど』で、どうする? 来るか?」
鴻崎はしばらく何かを含むように口を小さく開き、わずかに微笑み、肩の力を抜いた。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
それから歩幅は鴻崎に合わせゆっくりとマンションへ向かった。その間会話という会話はなかった。
「本当に腹減ってないか?」
対面、テーブルに置かれた蕎麦を見つめる鴻崎にそう言う。その視線の成分は蕎麦を一人で食べることを憚るもの。もしかして本当は空腹なのではないだろうか。
「いえ、本当に。七時ごろに食べたばかりなので」
「まぁ、半分食べるか?」
「お気になさらず」
割り箸を割き、ツユに浸して食べようとして目が合う。羽知はいったん箸を置き。キッチンに小走りで向かう。シンクのラックに置かれた平たい器を手に取り、それに蕎麦を取り分けた。
「小腹くらいは空いてるだろ? 別に太るとかそういうこと気にしてるなら話は別だけど」
ダイエットするとなるとその体躯は脆すぎる。着やせとか多分そういうのではないのだろうと、伸びた指と、少しあらわになる腕を見て思う。
「ありがとうございます……でも、それで誠也くんは満足しますか?」
羽知は後頭部を掻いて、なんだか気持ち悪いなと思いながら、
「満足するから、食えよ」
「……うん。ありがとう」
半分になった晩飯。当然育ち盛りの体には辛いものがあった。ただでさえ腹の膨れない蕎麦だというのに。お昼のパンを取っておけばよかったと、唸る腹部に手を当て後悔。
23:00――
気が付けばそんな時間だった。
鴻崎はスマホを見つめ、唇を結んだ。わずかに、無意識に吐き出されたため息を逃すことはない。
なぜ今ため息を吐いたのか、そんなことを聞くような事はしない。少なくともため息を吐きたくなってしまうことがあったのだろうから。鴻崎はスマホをポケットに仕舞い、
「ごめんなさい、こんな遅くまで居座って……私、そろそろ帰ります」
羽知のあくびを見て気を遣ったのか、本当に帰りたいのか定かではない。
羽知は軽く息を吐き、わずかに恥ずかしく、視線を低いテーブルの上に向け、
「あのさ。これは異性だからとかじゃなくて、友達として言うけど……何か、困ってんなら話せよ。相談、乗るから」
「…………言葉だけでもうれしい。ありがとう、誠也くん」
薄いレンズの向こうの瞳が仄かに反射する。
「近くまで送ってくよ」
傘立てから傘を取り、公園のそばで別れた。
多分、鴻崎は相談しない。そうなんとなく反応を見て思った。
同時に悲しくもあった。