六話 『お好み焼き』
透明なビニール部分に、骨組みの橙の錆が色付く年季の入った傘。
それは小さな彼女が使うには些か大きいビニール傘。その傘を少し傾け、待ちくたびれた鴻崎がびしょぬれになった羽知を見上げた。その、メガネの向こうの目が心配というように細められる。
「風邪、ひいちゃう」
そう言い、手を伸ばし、歩みより、傘に入れる。
ポケットから出したハンカチが羽知の濡れた頬に押し付けられる。
「待ってたのか?」
「見てわかりません?」
どちらからともなく歩きだした。とても申し訳ないと思いつつ甘んじて受け入れる。
「ご飯はちゃんと食べてるのか?」
傘の柄に添えられた華奢な手を見て言う。ちなみに傘は羽知が持っている。
幸い同じ学校の生徒の姿は後ろにも前にもない。
「心配? それなら大丈夫よ。水さえあれば飢え死にすることはないわ」
「まぁちゃんと食えてんならいいけど……鴻崎って体育とか苦手? ほら、いつも見学してんだろ?」
「なんでそんなこと知ってんの……まさか、覗き?」
突き付ける軽蔑を孕んだ視線を手で遮り、
「見なくたってそういうことはうわさで聞く。断じて覗きなんてしてない」
しばらく疑いの眼差しを向けていた鴻崎は「まぁ別にみられても困らないけど」とつぶやく。
五分とかからずマンション前に到着した。
「じゃ、私はここで」
「あれ、帰るのか?」
「帰る以外にないでしょ」
「上がってくか?」
眉根を寄せた警戒心全開の表情。
「なんで……」
「いや、せっかくだし、お礼もかねて夕飯でもご馳走しようかと。ま、無理にとは言わないし」
どうする? と首をかしげてみせる。鴻崎はしばらくうつむき考え、傘を畳んだ。
「それなら、私にも手伝わせて? 一応、私も料理はできるから。簡単なものだけど」
「マジか、意外だな。料理とかできない人かと思ってた」
「あなたの中での私って随分と印象ひどいのね」
「見たまんまの評価だよ」
「喧嘩売ってる?」
そんなことをエレベーター内で話した。
「お風呂、入ったら? 濡れたままじゃ風邪ひくよ、バカは風邪ひかないっていうけれど」
「一言余計な気がするが。まぁ、確かにな。じゃぁそうするよ。鴻崎はまぁ、好きに過ごしてていいよ」
羽知はびしょ濡れになった衣類を洗濯機に放り、シャワーを済ませる。邪な気持ちがわかないでもないが、そんな獣じみた本性はない。
つけっぱなしだったテレビを見る。大して面白くもないニュースを横目に、キッチン。
「なぁ、夕飯何がいい?」
「え、私が決めるの……何があるの?」
冷蔵庫にあるものを片っ端から言おうとしたところで鴻崎が隣に立って冷蔵庫を見る。ちょっと近かったので羽知は半歩下がる。
「何もない、あなたこそちゃんと食べてるわけ?」
「まぁ、昨日はバイトで、コンビニ弁当で飯済ませて、朝で全食材を使ってしまったようだ。さて、鴻崎。どうしようか」
「どうしようかって……そりゃ、買い出ししかないでしょ。インスタント麺とか? 私はコンビニ弁当でも構わないけど……」
「せっかくだしなんか作りたいよな」
「なんのせっかくなの」
「ほら、家庭科の調理実習とか楽しいじゃん。あれみたいなもんだな」
「…………」
鴻崎は苦虫を噛み潰したように顔に影を落とす。
「その様子だとあまりいい思い出がなさそうで」
「……別に」
とりあえずカバンから財布を出し、買い出しに行くことにした。
「いいよ、俺一人で行くから。鴻崎は俺の課題でも進めて待ってて」
「それは嫌だけど、分かったわ」
財布を持ち、傘を持ち、家を出た。徒歩十分。駅前のスーパー。
店内の客層は主婦。同世代などなかなか見ない。
「お好み焼きでも作るかな」
そんなことを思いながらスマホで材料のチェック。
適当にカゴに入れていく。ズシリ重たくなった袋を片手にマンションへと帰宅した。
「あ、最悪か。カギ忘れたよ」
オートロックの前に立ち、室番号を押して聞こえた声は鴻崎。
「悪い、カギ忘れたんだ。開けてくれ……」
『……はぁ。案外抜けてるのね、あなたって』
「そのほうが可愛げあるだろ」
『馬鹿なこと言ってないで』
上がり框に買ってきた荷物を下ろす。迎えに出てくれた鴻崎が膨らんだ袋を漁る。
鴻崎は手に「お好み焼き粉」と書かれた紫の袋を取り上げ、意外そうな顔をする。
「お好み焼き粉……お好み焼き作るの?」
「嫌いか? お好み焼き」
「うんう、嫌いじゃない」
「ならよかった」
しっかり手を洗い、まな板にキャベツを置き、鴻崎には千切りを頼んだ。承った鴻崎の手際はよく、割とハイペースに刻まれていった。
それらを揚げ玉やらなんやら適当に好きな具を溶いた粉に混ぜ入れる。
「まぁ指示通りに作ってるから不味いわけもないだろう」
「もうそろそろいいんじゃない?」
「そうか?」
形の違うフライ返しを二本握り、お好み焼きのそれっぽく返そうと考えた。多分フライパンを揺すって裏返すほうが簡単だ。
「じゃ、裏っ返すぞ」
「落とさないようにね」
「――ッと!」
崩れることはなく、しっかり裏返ってくれた。焼き加減もよさそうだ。
二人は思わず感嘆の息を吐いた。
両面焼けたことを確認して、皿に置く。かつお節、青のり、ソース、マヨネーズそんなものをかけたら完成。
「「いただきます」」
まぁ不味いわけがない。アツアツふっくらお好み焼きの湯気で曇るメガネがなんだかおもしろい。
「鴻崎が切ったキャベツが隠し味だな」
「何言ってんの?」
「ま、雰囲気が大事だってことよ。もう一枚焼いたら食べるか?」
羽知の言葉にしばらく鴻崎は手を止め、考えるように視線を巡らせ、
「……あの……ダメだったらそれで引きます。半分、持ち帰ってもいいですか」
「別に構わないよ。一応使い捨てのパックあるからそれを使えばいい」
「……ありがとう」
羽知はほんのわずかに緩んだ鴻崎の表情を見て、
「いえいえ。キャベツを切ったのは鴻崎だから」
それから帰り際。雨は予報を外れすっかり晴れていた。空に雲はなく、都会の明かりに負けんと光る星が少なくきらめく。月はどこを探しても見えない。その代わりをするように等間隔に街灯が照らす。
不意に鴻崎が小さな声で言った。
「……あなたのこと、なんて呼べばいい? その……友達として……」
「別に好きに呼べばいいんじゃ? そのまま『あなた』でも構わないし。無難なら苗字とか」
「羽知さん? 羽知くん?」
「まぁ、お好きに」
「じゃぁ、羽知さん、で」
「あ、そっちなんだ。まぁいいけど」
「じゃ、私はここで。またお世話になるとは思ってもいなかったです。また明日、学校で」
「また明日」