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二十六話 『修正後の世界』

 マイクロバス車内。


 鴻崎は静かに瞼を開いた。何かに寄りかかっていた。固くて冷たくて、エンジンの振動がハッキリと伝わるもの。鴻崎はぼんやりとみる。どうやら窓に寄りかかっていたらしい。


 何とも言えない、疲れ切った顔が反射していた。


 今日、何をしていたか、瞼を下ろし、うっすらと思い出す。確か、五組の安富に服を剥がされそうになった。そういう事を経てバスの車内に戻ってきてそれから――一人で寝てしまった。


 絶対に誘われてもこないような場所だった。海。好きだけど、誰かと、こんな大人数で来るわけがない。親しい人なんて、いなかった。けれど、私をかばってくれた男子が一人、相田。あれは庇ったといってもいいのか、鴻崎には分りかねるが、少なくとも鴻崎はそう感じた。守ってくれた、と。


 結んだ髪を解き、嗅ぐ。少し海の香りがした。薄い照明が照らす車内。二人掛け席、隣の席は空。けれどそこに誰かが居たような、そんな熱を感じる。


 恐る恐る、座面に手を置いた。けれどそこに熱はなく、冷たい。なのに、鼻の奥が沁みた。


「……誠也?」


 頭に一瞬過った、それを再現して口に出した。けれど悩んだ。それが誰か、鴻崎には分らなかった。


 姦しい先頭組とは違い、後尾は静かだった、大体の人は眠っていた。その声はよく聞こえた。


「お隣いい?」


 そう不意に声が掛けられた。鴻崎は視線を上げた。けれど不思議と滲んでいた。メガネはかけていた。度が合わなくなったのか、そうじゃない。鴻崎は頬に指を這わせ言った。


「私、泣いてる……」


 相田が不安そうな表情をし、後頭部に手を当て、隣に腰を下ろした。


「目に髪でも入ったんじゃないか?」


 鴻崎は「そうかもしれない」と呟き、目元を拭う。洗ったはず、けれども少し手の甲が塩辛い。目が沁みた。そんな様子から気を取り直すように相田が言った。


「今日、楽しかったか?」


「うん、久しぶりにはしゃいだ……あの」


 鴻崎は酷い頭痛を抱く。絞り出すようにそれを声に出した。


「今日、『誠也』っていう人、居たりした?」


 そう問うと相田は腕を組み、「んー」と考える。けれど考える時点で答えは出ている。そう多くない面々の名前と顔は把握済みだろう。彼はみんなと仲がいい。


 そんな彼が首を振ったのだ。


「何か夢でも見てたんじゃねぇの? そんな奴、知らねぇな。悪いけど……んで、そいつがどうかしたか?」


 鴻崎は残念ながらも微笑み頭を振った。


「うんう、大丈夫。多分そう。夢でも見てたんだと思う……、……あの、そういえばさっき、というかお昼なんだけど……ありがとう、助かった」


 そう短く言うと相田はなんのことだろうかと考え、「あぁ」と相槌を打った。


「いや、別に大したことじゃねぇよ。誠也の野郎がちゃんと見てねぇのが悪いんだ」


 そう言い終え、相田は眉根を寄せ、険しい顔をした。そして苦笑する。


「誰だよ、誠也って……俺まで夢見てたのかもしれねぇな」


 と相田は微かに目元を濡らして言い、頭を抱えてうつむいた。そんな相田の背に、鴻崎はなんとなく手を添えた。そうしなければならないような気がした。そうしたかった。


 彼も、その名を知っていたから。


 それから車は最寄り駅へと到着した。下車した鴻崎は深く深呼吸を継ぐ。


 多少の酔いが残るもの、脳内麻薬に緩和された。


 帰り道、一人街灯の下を歩き、不意に公園に寄りたくなった。嫌なことがあればよく逃げるように訪れる公園だった。昔はもっと遊具があった、そう寂れた公園を見渡しながら、誰かを求めるようにベンチに腰を下ろした。見上げる空、明るい星がちらちらと瞬く。街灯がなければもう少し綺麗に見えたはずだ。


 浮かぶ星を掴むように手を伸ばした。広げた指は光芒のように鋭く。


 足音が近づく、鴻崎はまるで期待して、足音のほうを見る。その弱い、靴底を引きずるようなつっかけの音は父のものだった。


「お父さん……」


「もう、帰っていたのか。駅まで迎えに行こうと思ったんだけど……」


 コンビニの袋にはおそらくお酒の瓶が数本、それと晩御飯あるいはつまみが入っているはずだ。鴻崎は別に父を嫌ってはいない。けれど酒に呑まれた父は嫌いだ。


「……帰ろうか」


「うん」


 父の言葉に同意と頷き、薄明かりに照らされた帰り道を歩く。父が訊くのは本当に少ない。「楽しかったか?」ただそれだけ。「楽しかったよ」と答えると父は弱々しくも心の底からといった具合で微笑んだ。父は荷物を持ってくれた。


 住まうアパートへと到着した。鴻崎は部屋着に着替え、簡単に晩御飯を作る。食べ終わり、風呂も入り、出てくるころに父は酒に呑まれていた。顔を赤く憤りを吐露、娘だけが楽しんでいて許せない、そういう旨。


「ごめんなさい」なだめようと焦りながらも、慄きながらも、「強く生きる」と決めた、故にその一撃を食らうまで何とか説得した。水を汲んだコップを手渡すも無意味。父はついに手を上げた。衣類を着ていれば、目立つことのない腹部。


 気が付けば鴻崎は公園、ベンチに座っていた。ここはそういう時に来る場所だ。けれどここに居れば誰かが助けてくれる。そんな気が、いつからかしていた。俯いた。


「こんばんは。こんな時間に女の子が一人なんて、何してるんです?」


 音もなくそばまで詰めていた少女がゆったりとした口調で声をかけてきた。鴻崎は弾かれたように顔を上げ、向けた。一瞬、女性警官かと疑った、けれどその姿を見れば違うということはすぐにわかった。見慣れない学校の制服に身を包んだ物腰柔らかそうな雰囲気の美人な人だった。綺麗な瞳が、街灯の白い光を宿す。妖艶な気配。


 少なくとも彼女を求めていたわけではない、そう鴻崎は感じ、頭を小さく振り、何でもない風な表情で言った。


「ちょっと、夜風を浴びたくて……」


「もう夜も遅いですからね、気を付けて帰った方がいいですよ?」


「あの……あなたは? 見たところ高校生? ですよね……人の事言えないんじゃ」


「私ですか? 私は三浦・帆夏と言います。私立萩陽学園高校一年二組」


 鴻崎でも名前くらいは知っているようなお嬢様高だった。自己紹介されれば自己紹介をせねばと鴻崎は自分の名を告げた。すると三浦は微笑み、隣に腰を下ろした。


「誠也、彼の名をまだ、覚えていますか?」


 そういわれ、ギクリと心が痛んだ。聞くその名が誰のものか、三浦は知っているのかもしれない。そう思い、頷く。


「そうですか……、では、忘れてくださいね。その名を――」


 鴻崎は口を覆われた。そして迅速に背後から首後ろに強烈な刺激を与えられた。そう理解する前に鴻崎は意識を失い、隣の三浦へと倒れた。


 その体を確り肩で支えた三浦に、背後に立った彼女は言った。


「あんた、まだしばらくこっちに残んの?」


 安富は滑り落ちたリュックを拾い上げ、一番広いチャックを開き、まさぐり、羽知と鴻崎が写るプリクラ写真を取り出した。この世界に存在してはいけない。そういうように握り、上着のポケットへと押し込んだ。


「そういう聡子ちゃんは?」


「私は今すぐにでも帰るつもりよ、こんな何にもない場所で生きるには勿体ないしね」


 そう言いながら、コンビニの袋からペットボトルを出し、三浦に投げた。


「向こうでやりたいことは見つかった? 別に言わなくてもいいわ。私はまだ、コンビニでバイトする。彼の分、空きが出来ちゃってるから」


 しばらく無言が続き、ボトルの半分が無くなったころ。安富は深く息を吐き、歩いた。


「じゃ、私帰るから、後の面倒ごとの処理は任せたから」


「その面倒の元凶たるあなたが居なくなるのだから処理も何もないよ、聡子ちゃん」


 安富の消えた後を見て、お茶を呷った。鴻崎が目を醒ますまでベンチで用心棒を承った。


 それから三十分ほどして、鴻崎は目を覚ました。長い夢を見せられていたような、そんな歯の浮く感覚が未だに残る。けれど覚えてはいない。何も覚えていない。


 ただわかったことはここが夜の公園で、頭を預けているのが枕や腕ではなく、膝だという事。


 しばらくニコニコお人よしな面立ちをした膝の主と顔を合わせる。


「お目覚めですか? 鴻崎さん」


 見知らぬ彼女は、そう私の苗字を呼び、微笑んだ。

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