二十三話 『水着』
それから数日が過ぎ、指折り数えて三日後に海、という七月終わり。
ここから夏が始まると言わんばかりにセミは鳴き、そういう効果音が空から降りそうという日照り、青空。その下、マンションから出て十分と経っていないのに背中が湿っていくのを感じる。
珍しく鴻崎が『会いたい』と言ってきた。
待ち合わせ場所はいつも通り公園。
鴻崎は白いサマーセーターを羽織る。安定の露出の少なさ。暑くないのだろうかと、誠也は思った。鴻崎はくるぶし辺りまである黒いスカートを風になびかせた。
「珍しいな、鴻崎が俺のこと呼び出すなんて」
「うん、時間。大丈夫だった? ちょっと、見てもらいたくて、誠也君に」
見てもらいたいものは何だろうか、頬を染める鴻崎を見て考えた。浮かぶ一つの答えに思わずにやけてしまう。そんな顔を悟られることはなく、住まいへと向かった。
エアコンを基本的に二十四時間つけているこの部屋は快適空間。おそらく三十時間分のバイト代が消えるだろう。
「ちょっと、恥ずかしいから……後ろ、向いて…………」
「おう……わかった、準備できたら……」
リビングに入るなり窓を見る。しばし反射して鴻崎の姿が見えないでもない。
羽知の善い心が瞼を下ろさせた。
視覚が奪われれば聴覚が発達する。背後の鴻崎が織りなす衣擦れの音が、想像力に拍車をかけた。頭に血が上る。
それから二分ほどが経ち、合図が出た。
「……驚かないでね……」
瞼を開き、鏡のように反射する窓には、鴻崎が水着姿でそこに立っていた。
翻り、羽知の視界には少しばかり異質にそれは映った。夏など感じない部屋に少女が、ビキニ姿で立っているのだから。それはもう、非日常だった。
それはグラビアには似つかわしくない華奢。肉付きの少ない体。それでありながら胸はあり。この年頃であればそこそこ灼けが残る肌が普通。けれど鴻崎の肌はその手同様に月明かりのように白かった。だからこそ、その皮膚に刻まれた黴のような、花を散らしたような色鮮やかな斑紋。痣は目立ち、一際目をひいた。まさに特徴的だったのはその胸の樹形のケロイド。
しばらく無言で、羽知は鴻崎の体を見ていた。どんな顔をしていただろうか、おそらくどんな感情も出していないだろう。
まじまじと見たのは初めてだった。
無言で、見ている姿を見て、鴻崎は視線を右から左と動かし、窺うような弱い口調で言った。
「私、やっぱり、海行くの、やめようかな……」
羽知はようやく視線を胸から引き剥がし、鴻崎の悲愴な顔を見る。視線が一時かぶさる。
そして逸らし、いつものように鴻崎は、握った手を胸の傷に当てた。けれどその小さな拳では隠し切れない。気が付けばその手の甲に羽知は同じように手を被せていた。すると鴻崎は言葉を待つようにゆっくり目を合わせた。目の力は弱い。その目が首を絞めるようだった。
羽知は絞り出し、強めに言った。
「……俺は気にしない」
そう返すと鴻崎は少し眉根を寄せた。
「私は気にしてるんだけど」
「…………まぁ、だよな」
気にしないわけがない、特に女子ならなおさら。
体の傷はいつか消える。けれど多分、この傷は皮膚の一部で一生、薄れることはあったとしても消えることはない。見えない場所、心に刻まれた傷は真新しい物と変わらない、褪せることのない鮮烈な痛みを伴う。知らない人が見ればおそらく、それを本能的に「怖い」とかそれに類似する感情を抱く。人によってはそれを直接、本人に言うかもしれない。
「嫌でしょ、こんな体じゃ……怖いでしょ」
「そんなわけあるか。見たらなおさら、離せないだろ」
庇護欲、そういう本能をそそり立てる雰囲気を醸し出す、鴻崎の表情。
羽知は柔らかく、鴻崎を抱き寄せた。細い身体を見れば、男の力で抱きしめてしまえば折れてしまうと、そう思わせた。けれど冷たそうな肌からは思わせない温もり。
羽知は鴻崎の後頭部を優しく撫でながら言った。
「鴻崎、付き合わないか……俺たち」
「こんな私でも、いいの?」
鴻崎も同じように、羽知の背に手をまわした。
「いいわけがない、だから、俺が、守るよ。誓って」
「…………うん、付き合おう……誠也君。誠也」
しばらく抱き合ったままでいた。鴻崎は強く、お互いの体の輪郭を確かめ合うように、身を寄せ合った。それが妙に心地よい。凹凸の少ない、さらさらとした肌質を手のひらに感じる。
二十分が過ぎ、どちらからともなく肌を放した。改めてその傷を間近に見る。
「痛くないのか?」
「ちょっと痛い。けど慣れてるから」
「海はどうする?」
「とりあえずラッシュガードでも羽織れば傷跡は隠せるから」
「そうか、じゃぁ来るんだな」
「うん、だって誠也が居るから、ほかの女子と知らないところで仲良くなったりしたら嫌だから」
「俺が浮気するとでも?」
鴻崎は真面目な顔で顎に指を添えて言った。
「しない……と思いたい」
と言い、クスリと笑う。羽知は真面目な顔と声で言った。
「しない、絶対に。そもそも浮気できるほど容姿に恵まれてない」
「かっこいいよ、誠也は。きっと他の人は見る目がないんだね」
鴻崎の言葉に思わず口元が緩む。
鴻崎のしなやかな指が伸び、羽知の頬に触れる。そして少し距離が近くなる。
「俺は母親似なんだよ」
鴻崎は少し首を傾け、背を伸ばした。
羽知は視線を少し下げ、背を屈めた。
微かに鼻息を感じるという距離で、突然、スマホが揺れた、バイブがテーブルを揺らし、変な音が響いた。
「くっそ……ふざけてる。相田だ……」
鴻崎が拍子抜けだとこちらを見てくる。その視線に心の底から申し訳ないと思い、背を向けた。会話内容は海について、集合場所、集合時間、目的地の詳細。世間話が広げられそうになりすぐさま電話を切った。
そして視線を鴻崎に向け、改めてこの異質さに気付く。羽知は後頭部に手を当てて言った。
「その格好、恥ずかしくない?」
「――っ。別に、恥ずかしくなんてない……だって、水着ってそういうものでしょう? それに、海に行ったらみんなこんな格好だし…………恥ずかしい」
鴻崎は身を捩り、両手を火照った頬に添えた。
ビキニの生地色は水色。正直下着とそう見栄えは変わらない。何が違うのかと言われたらスマホ片手に検索するしかない。
「まぁ、確かに、みんなと同じなら……恥ずかしくないかもな……」
とりあえず鴻崎は着替えた。それでようやく羽知は平静を保てるというもの。
けれど計り知れない焦燥が羽知の胸を灼いた。思わず水着姿になろうとズボンを脱ごうとしたら鴻崎に止められた。




