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二十一話 『主を亡くした部屋には魔が宿る』

 22:00――


 海から帰り、マンション五階。羽知は住いに帰った。鴻崎とは「また明日」と言い交し、別れた。乾いた喉を潤すように、駅で買ったお茶を一気に半分呷った。深く呼吸を継いだ。玄関先。


 羽知は靴を脱ぎ、廊下を数歩歩いた。そして足を止めたのは自分の心が閉ざした両親の私室。


 ドアにカギはなく、ノブを下げ、押せば開く。そういう風にできている。けれどそれはつっかえがあるように重たく進まない。気丈に激励し、羽知はドアを押し開けた。


 黒い靄が細かいハエのように押し寄せる。羽知の心音は大型エンジンそのもの。歩。


 明かりの射さない、深い洞窟のような場所。言わば探しているものは宝。たった十歩にも満たない、その距離を詰めた頃には息が上がっていた。極度の興奮状態。見下ろした。


 開かれた机の引き出し。それはおそらく鴻崎が開いたのだろう。


 彼女にとってそれは見ざるを得ないものだから。


 引き出しから奪われ、机に放られたそれは、保存状態のいい、けれど角が折れたり、折り目が付いていたり、古びた印象を受けさせた。ついこの前撮ったとは思えない写真だった。


『遼太郎と、結菜の』プリクラ写真。


 羽知は胸に抱き、蛮行を恥じた。


「もう、やめよう……」


 06:00――


 朝、体が非常に痛かった。


 起きた瞬間体の痛みに思わず顰めた。特に脚。足首、ふくらはぎ、太もも。


 起き上がり、床を地に立ち上がった瞬間、ネジを締めすぎた機械の軋みが神経に響く。


 けれどその程度の痛みに足止めを食らうほど弱くない。壁を這いながら洗面所に向かい身支度を済ませる。


「今日の体育は休もう」


 そんなことを考えながら朝食を済ませて家を出た。


「それでも男か!」


 耳を聾する悪声に羽知は顔をゆがめた。


「いや、なんで一喝されてんの。それとうるさい」


 一瞬クラスの姦しさが止んだほどだ。


 なぜか相田は拳を作り、声の具合を体育教諭に似せた。無性に腹立たしく熱い。


「歩いた程度で筋肉痛……そんな軟弱なこと言うのはこの脚かッ! うりゃぁッ!」


 相田の両手が羽知の両脚――太腿を鷲掴み、強力に圧した。


 その瞬間電流のような痺れが神経を奔った。走馬灯を見せられた。


 普通に太腿を突かれるだけでくすぐったい、それを何百倍にもしたような感覚。思わず絶頂とも違わぬ声を上げてしまったのは一生の恥じ。


「痴れ者がアァァァァッ――!」


 思わず繰り出た左ストレートが相田の顔を深く抉り、突き飛ばした。


 その渾身の一撃は羽知の羞恥心からくる保身の一矢。その一撃で許すのだから優しい。


 椅子ごと転がった相田は手を上げ白旗を上げた。


「二度と触んな。遺伝子レベルで拒絶する!」


「ったく、殴るこたぁねだろ」


 相田は頬を摩りながら椅子を立て直し、腰を浅く落ち着かせた。


「仕方ないだろ。反射だ反射。正当防衛を主張する」


「普通に傷害罪だろ、それ」


 そうしている間にホームルームが始まり、クラスの空気は『夏休み前』という独特の浮つきを感じるものとなっていた。


 相田がいきなり太腿付け根をもみもみしてきたのもこの空気に当てられてだろう。


 今週の、今日を含め三日後が終業式。


 念願――という訳でもないが夏休みというのは楽しみではある――が日数にして半分はバイト。その原因は相田にある。相田はほぼ毎日シフトを入れていた。さすがに真似は出来ない。


 夏休みの予定。とりあえず相田や適当な男子友達を連れて海に行くことは決まっていた。別に男子だけという訳じゃない、女子も誘ってはあるらしい。紅一点、となるとなんだか夏の暑さにやられて友達以上恋人未満の関係にされてしまいかねない。そうくだらないことを気にしていると、シャーペンの頭が頬を突いてきた。


「で? 鴻崎さんには聞いたのかよ?」


「あぁ、聞いてない」


「まぁそこはいいや。で、昨日海行ったんだろ? お前ら。なんか進展あったのかよ~、あっただろ~一つくらいは」


「あのな、俺は別に獣じゃない『疲れたね、ご休憩しよう』なんて言わねぇよ」


「じゃぁ……なんもなかったってのかよ……信じらんねぇ。それでも男かよッ――」


 再び太腿を刺激され反応を示した羽知。


 突き出した左手は空振り、躱した相田はしたり顔。空振った拳を振り下げ肩を叩いた。


「人の体に触んな! ただでさえ暑いってのに!」


「まぁまぁそうカリカリすんなよ――ッ!」


 仏の顔も三度まで。このことは今生忘れることはないだろう。


 弱い空調。新設されたエアコンの制御盤は職員室にあるらしい。生徒に弄る権限はない。無根拠の28度を未だに掲げている。


「でもまぁ、手繋いだり、抱きしめたりくらいは……まぁしたな」


 あくまでも同級生の、そこそこいい関係の男女として。


 相田は呆れたとばかりに首を振り、偉そうに言った。


「中学生かよ、今時中学生でもゴールすっぞ」


「なんだよゴールって、妊娠か?」


「は?」


「は?」


 しばらくして、浮ついた空気の中で授業が始まった。


 授業といっても範囲は先週に終わっている。寝ていても問題はない。ただ内申に響くくらいだ。それをどう取るかは個々の思想に基づく。


 ちなみに羽知は寝ていた。けれど先生が起こしに来る前に相田が起こしてくれたので多分大丈夫。目の前に先生が立っていたが。おかげさまで驚き素っ頓狂な声を漏らした。


「一番前で寝るとかすげぇな、お前」


「よく言う、お前だって寝るときあるだろ」


「記憶にございません」


「ま、寝てるしな」


「そういうことだ」


 気が付けば四限目が終わり、お昼休み。


 鴻崎は教室におらず、中庭を見下ろすとその姿があった。晴れている、ということもあり屋外に生徒の姿は多い。羽知は中庭へと向かい、鴻崎の姿を見つけた。


 その手にはサンドイッチがあり、昼食中。


 二人掛け用のベンチの隣は空いている。そこに腰を下ろすとようやく気付いたようにこちらを向いた。


「誠也君」


「よっ、天気がいいから外でご飯か?」


「うん、外の風が気持ちよくて」


「なぁ、鴻崎って、外好きなのか?」


 仕方なく外に出ても公園で時間をつぶそうとはなかなか思わない。それこそ電車に揺られ街に出る。補導されかねないがバイトとか言えば怪しまれはしない。


「んー、別に好きってわけじゃないよ。ただ落ち着くから」


「好きとは違うのか」


「違うよ」


「ちなみに俺の家は?」


「好きだよ」


 鴻崎はノータイムでそんな言葉を打った。


「そっか、ならよかった。いつでも来てくれよ」


「迷惑にならない程度に」


「むしろ来てくれるとありがたいよ」


 鴻崎は「はいはい」と受け流し、サンドイッチをちまちまと食み、


「あと少しで夏休みだけど、誠也君はどこか行くの?」


「そうだ、男友達もいるけど……それでもよかったらなんだけどさ、海行くか? この前とは別の場所。たぶんそっちのほうが海は綺麗……どうだ」


 鴻崎はしばらく悩み、気が進まないというのが顔に出ていた。本人は無自覚なのだろうが。


「泳ぐの?」


「まぁ、泳ぐんじゃない?」


「水着、着ないとダメ?」


「まぁ、別に着ないとダメってことはないだろうけど、あった方が何かといいような。けどまぁ、鴻崎露出嫌いだもんな」


「うん、でも、みんな着てる中、着てなかったら変だよね」


 鴻崎はうつむく、悩みが渦巻く表情を見る。


「……来たいか来たくないか」


「……行きたいよ、誠也君が居るなら……」


「なら来たらいいんじゃないの?」


「……私、水着きれない……」


「上になんか羽織ればいいんじゃないか?」


 羽知のおしに鴻崎はしばし悩む。


「……わかった、じゃぁ、私も行こうかな……せっかく、誠也君が誘ってくれてるんだから」


 鴻崎は少し恥じたように頬を染めた。


「決まりだな、日程とか詳しく決めさせるから、決まったら俺が連絡するよ」


「うん、ありがとう」



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