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二十話 『夕凪の刹那に』

 七月十五日――


 海の日で学校は休みだった。海の日という名に恥じない青々と透き通った晴れた空。今なら宇宙まで手が届きそうだ。そうかないっこない夢を抱かせる。


 マンション最寄り駅から約一時間。密々とした車内から吐き出され迎えるは夏の気配。ほのかな潮香と熱。


 鴻崎が行きたいと言っていた海がある場所。駅名に鎌倉。


 そこから標準搭載のマップアプリを頼りに海までの広葉樹並木を、陽炎の向こう遥か彼方に煌めく海を目指し、歩く。


 五分の二ほど進んだあたりで鴻崎が何かを思い出したようにカバンを漁り、卵型の容器を見せる。


「日焼け止め、いる?」


「いや、俺はいいや」


 もともと日焼けしたような肌色だ。


 そしてようやく海の輪郭が明らかになる。水平線は世界の端だというように白幕をさげる、キラキラと輝く沖は遠く深くなるにつれ濃く、碧い。海を逆さにしたように青い空はどこまでも透き通り、蒼い。鴻崎が堪え切れない喜びを纏った幼い声で訊いてくる。


「ねぇ、あれ海かな?」


「どこからどう見てもあれは海だな」


 鼻孔を刺激する海独特の香り。その成分は調べれば夢もなく「悪臭成分」と出てくる。


 けれどこの海の香りが懐かしい。けれど好きではない。鼻を軽く手で覆った。


 もう目的地は目と鼻の先。案内の必要はなくただ電池を食うマップアプリを閉じた。


 キラキラミラーボール顔負けに乱反射する、目の前に広がる大海を前に感嘆と息を吐いた。


 階段を下り、熱の籠った砂を靴裏に感じる。


 一足先に駆け下りた鴻崎はおもむろにサンダルを脱ぎ、その熱せられた砂を踏みしめ、足の指を開いたり閉じたりする。そしてぱぁっと綻ぶ。


「わぁ……」


「楽しいか?」


「不思議」


 未知の体験をその身で楽しむとばかりに、翻し、足の親指が砂地に円を描く。


「そっか。気をつけろよ? ガラス片とか落ちてるから」


 走るには些か怖いものがある。ちょうど足元にあった缶のプルタブとか足を切るに足りる。


「うんっ」


 鴻崎はスカートの裾を持ち上げ、波打ち際に足を遊ばせる。年甲斐もなく楽しそうだ。


 羽知はどこからともなく飛んできて波打ち弄ばれるボールを拾いあげ、それを持ち主の家族連れのほうに持っていき、小学生位だろうか、子どもに渡した。そんな親子連れが多くみられた。もちろん割合的にカップルのほうが目立つ。


 そのまま海岸線を歩いて移動した。


 鴻崎はずっと楽しそうだった。記憶に深い、慈しみを含んだ優しい微笑み。思わず見惚れてしまう、そんな絵になる景色に溶け込む彼女を写真に撮った。すると鴻崎は少し怒ったような、恥ずかしいような顔をする。


「勝手に撮らないで!」


「悪い悪い」


「絶対思ってないでしょ」


 海岸の端にはすぐについた。あと少し歩けば江の島のシーキャンドルが見える。けれど五キロ。この気候の中その距離を歩くのはなかなか大変だ。運動不足気味の羽知の脚が壊れる。


 けれどせっかく来たのなら思い出作りに手を抜きたくない。羽知は覚悟を決めて訊いた。


「江の島のほうまで行くか?」


「行きたい」


「歩きか、電車か、どっちがいい?」


「誠也君は?」


 鴻崎は坂道をよいしょと上がり、段差に腰を下ろした。


「鴻崎が選んでいいよ」


「……歩き?」


「よし、歩くか」


「歩くかー」


 足を洗い、タオルで拭き、サンダルを履く。そして長い夏の道を二人は歩き出す。


 渋滞気味の国道134号線に沿った歩道はまぁまぁ広く、平坦だった。途中坂道があり、その一段下がったところにあるベンチに腰を下ろし、喉を潤し、コンビニで買ったお菓子なんかを荒波を見ながら食んだ。少し肌が灼けたかもしれない。


「海が見えるっていいね。私、こんなところに住みたい」


 海風に靡く髪を手で軽く押さえて、鴻崎はそんなことを言って見せた。


「でも、なんか海くさくなりそうだな」


「そうかな? 海の匂い、きらい?」


「……別に嫌いじゃないけど」


 口に飴を転がしながら崖の間をくぐり、右に線路、住宅街、左に相模湾。押し寄せる濃い海の香りを肺一杯に吸い込む。すこししょっぱい。


 手の甲に舌先をつけた鴻崎が似たような感想を漏らす。


「海だー」


 いきなり声を上げたことに思わず面食らった。


「さっきから海しか見てないだろ」


「まぁね、でもほら、なんか言いたくならない?」


 広場の欄干に身を寄せてまた笑う。


 鴻崎はまるで少年のように、無邪気に屈託なく笑えるのだと、知る。その爽やかさが夏の気配を攫い、不思議と涼しく感じた。


「ま、わからなくもないかも」


「でしょっ? じゃぁさ、一緒に言おうよ――せーのっ――海だー」


「ウミダー」


「もっとちゃんと言わないと」


「恥ずいんだよ!」


 ベンチに腰を下ろしたご老人が微笑み、「わかいなぁ」とか言い出す。


 年頃の男子にとっては穴があったら入りたい大変恥ずかしい状況だった。


 それからまた鴻崎はサンダルを脱ぎ置き、波打ち際を歩いた。意外と自由だ。


 海岸の砂は黒い。ここ稲村ケ崎、七里ヶ浜の砂の粒子の大部分は磁鉄鉱や輝石だという。


 故に五キロ離れた由比ガ浜とは全く違った景色と香り、別の場所に来たという印象。


 鴻崎は迫り出した岩盤の上に立ち、深呼吸。その双眸が見つめる先は遥かな水平線。


「この海の向こうに何があるんだろうね」


 相模湾を捉える。


「アメリカとかじゃない?」


「広いね、海って」


「だな。俺は一生この狭い国で生きていくよ」


 鴻崎は二メートル近い高さからジャンプ、よろけた体が羽知の体に縋る。確り肩を掴んで支えた。


「危ないだろ」


「支えてくれてありがとね」


 そう遊んでいる間にも気が付けば三時間は過ぎた。けれど不思議と疲れはなかった。むしろ晴れた心持ですらあった。これもすべて海の効果だろう。


「おなかすいたね」


 視線の先に海岸の風景に似合った、ハワイにありそうな店があった。


 そこで買ったベーグルは海を見ながら食べる。というなんだか海外ドラマのまねをする。広い駐車場に置かれた車の屋根にはサーフボード。


 笛のような音の原因を探るように上空を見ると奴らが居た。トビだかトンビだかそういうタカ目の猛禽類。同じように鴻崎も上を見る。


「ピーヒョロロロロ――」


「タカ?」


「いや、トビだろう。それ食われないように気をつけろよ?」


「食べるの?」


「まぁ、食べるんじゃないか?」


 テレビで観るのは大抵やらせだろうと、食べやすいようにしているのだろうと、そう思っていた。カラスも食わないというのに。


 それは刹那、バサァッという布団を叩きつけたような強力な双翼の羽音と、鴻崎の悲鳴が混ざり、壮絶。羽知が視線を向けたころには遅く、トンビは空高く舞い上がり、悠々と風に乗り森のほうへと帰っていった。しばらく行方を見届け、視線を鴻崎に戻した。


「大丈夫か! 鴻崎、ケガは?」


「う、うん、一応けがはなかった……はぁ……死ぬかと思ったよ」


 あははと笑ったので多分大丈夫そうだ。間接的に死ぬかと思った。心臓に悪い。


 幸いにも羽知の食べかけは攫われなかった。男の食いかけなど要らないのだろう。トビも選ぶという事だろう。


「食べるか?」


「いいの?」


「今度は俺が見張ってるから」


 さすが警戒心の強い鳥。羽知の覇気を感じ取り上空から去っていった。


 腹が満たされ、二人は再び国道に沿った海岸を歩く。


 見えてきたシーキャンドルに鴻崎は小さく興奮を示す。けれどそれはまだまだ遠く、小さい、照らし合わせた手、人差し指先端から親指の付け根までの大きさ。


「鴻崎、あれ見るのは初めて?」


「うん、初めて」


 太陽が傾き、海の色が変わる。


「足、痛くないか?」


「ちょっと痛いかも、でもだいじょぶ」


「無理はするなよ?」


「無理しちゃうよね、楽しいから」


 鴻崎は波を足で持ち上げる。つま先のしずくが弧を描き、太陽に照らされ七色に瞬く。それが楽しいのか鴻崎は続けて足を振り上げる。濡れた足は宝石のようだった。


 先ほどまで緩く吹いていた風が止む夕凪。


 鴻崎は優しく微笑み手招く、


「こっちきて」


「ん? どうした?」


 と歩み寄り、鴻崎はスッと手を差し伸ばしてきた。


「手、繋ぎたい」


 羽知は辺りを見渡し、人が少ないことを確認し、


「まぁ、いいけど……」


 サンダルを片手に持ち替え、差し出した手を鴻崎が握る。両手で包む。海塩でちょっとペタペタする。些事な問題。


「まぁ、とりあえず歩くか、あと一キロ」


 それから変わらず海岸線を歩き、片瀬橋の入り口。


 夕方。日が落ち、風が少し冷気を孕み、灯台に光がともる。恋人つなぎの手が深く確り絡まる。その力は弱い。


 そんな雰囲気のある景色を前に、握っていないほうの手を欄干に添えた鴻崎が「聞いてくれる?」と断り、口を開く。


「実はさ私、あまり親と仲良くないんだ」


 鴻崎は片親だ。幼いころに妻を喪い、父が男手一つに担っている。ということを鴻崎はニュアンスで伝える。羽知は特に驚くでもなく、その手を確り握る。


「それで時々家を出て、公園に居るのか」


「……うん」


 話を促すように体を寄せる。


「ちょっとキレやすい人で……」


 鴻崎は努めて変な雰囲気にならないようにいたって普通に、日常の会話のように言う。


「時々、暴力的で、殴ってくるような……」


 鴻崎の声は湿りを帯び、わずかに手の力が抜け、再び確り握りなおした。離れそうになれば羽知から握る。


 色素の薄い双眸がシーキャンドルを見つめ眇めた。古い思い出を探る表情。


「でも、それでもお父さんだから」


 羽知は肯いた。今は酷くても、いずれ解消される瞬間が来る。そのわずかな希望にかける。


「でも、逃げたくなったらいつでも逃げればいい、逃げて助けを求めて、そしたら絶対に俺が助けに行く」


 鴻崎は静かに吸い寄せられるように羽知の胸にしがみついた。


 不思議と心音は一定を保っていた。


 小さな背中に腕を回し、そっと寄せる。儚く弱々しくも、確りここに、この世界に存在を刻み、生きているという命の強さを全身に感じる。まるで同じ肉体だというように溶け合いそうだ。鼻孔に満ちる鴻崎の髪の香り、肌の香り、汗の香り、海の香り。そのすべてを記憶に結び付けた。


 しばらくしてどちらからともなく離れ、しばし目を合わせた。唇が動く。


「もう遅いし、帰るか」


 鴻崎はうなずいて言った。


「ねぇ。また来たいって言ったら、行ってくれる? 一緒に」


「もちろん」


 帰りは電車に頼る。さすがに来た道を引き返すのは骨が折れる。物理的に。


 四両の、短くゆったりとした加速の江ノ電に揺られる。住宅街を抜けたその車窓から見える群青の相模湾と先ほどまで歩いていた七里ヶ浜を見る。


 隣で吊革に縋る鴻崎があくびをし、少し肩を寄せてきた。


 さすがに歩き疲れたのだろう。眠そうな雰囲気が色っぽい。次第に口数は減っていく。


「眠いか?」


 鴻崎は力なく健気に微笑み、


「うん、ちょっとね。久しぶりにはしゃいだから」


 羽知もあくびをし、微笑んで言った。


「まぁ、たまにならいいんじゃない、そういうのもさ」


 終点の鎌倉で乗り換え、帰りは座りだった。気を抜くと寝てしまいそうになる。寝てしまうと乗り換え地点を超え旅に出ることになる。それだけは避けたい。


 今日のことを、印象に深い楽しい思い出に結び付け、うっかり瞼を下ろした。



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