十五話 『深淵の悪魔』
放課後。学生にとっての一日の終わりとその後。九割の生徒が教室から出た頃。残る生徒は相当暇、あるいは学校大好きっ子。耳を澄ませ盗み聞くが「先生がー」「男子がー」「バイトがー」大したことは話していない。早く帰ればいいのにな、と机の上に腰を下ろし、嫌に魅惑的に組まれる女子生徒の脚を見て思う。掃除すらもはかどらない。気が付けば体は勝手にその生徒の近く、一列程離れた場所を何往復もしていた。
「じゃぁな、ちゃんと掃除しとけよー」
と相田がケラケラと笑いながら言っていた。その声を思い出すと無性に腹立たしく思う。勝手に盛り上がる下半身が次第に緩んでいくのを感じた。助かった。
柄の長いフロアホウキ。そのブラシ部分は圧し広げられガバガバ。早めに買い替えてほしいなと思う。適当に隅に集め、塵取りに集めた。
そんな具合に掃除を手短にこなし、掃除用具をロッカーに仕舞い、一日の出来事を日誌に纏めて教卓にブーメランの要領で投げ入れた。ゴミ箱もそんなに溜まっていない。これにて日直の仕事を終える。思わず感涙――するわけもなく、残っていた生徒に「絶対電気消せよ」と女子生徒にではなく男子生徒に言い伝え、同意を得る。カバンを持って前方口から出た。
そしてビックリ。羽知の鼓動は一時止まる。けれど見知った女子生徒であり鼓動は再び回り始めた。
「あれ、鴻崎……何してんの?」
掲示物が貼られる壁に背をもたれ、退屈そうにつま先を床に立てていた。誰かを待っていたのだろうかとその佇まいを見て思う。けれど鴻崎が待つような人物が思い浮かばない、居るとしたら俺だろうと羽知は察し、
「もしかして俺を待ってた?」
「うん」
鴻崎は壁から背を話し、カバンを前に握って二歩ほど離れた対面に立った。
「それならもっと早く声かけてくれたらよかったのに」
用事があったとか言って日直をサボろうかと――いう訳ではない。
「なんか、緊張しちゃって」
「緊張? なんだそりゃ。まぁいいや、とりあえず帰るか」
羽知が歩き出すと少し遅れて鴻崎が隣を歩いてくる。歩幅の広い羽知のペースに合わせるには鴻崎の歩幅は少し狭い。そのせいで鴻崎は小走り気味になる。
羽知は歩幅を狭めた。ようやく鴻崎の歩調は一定した。
羽知は不意に訊く。
「今日、家寄っていくか?」
訊かれた鴻崎はしばし考えるように首を傾げ、すぐに首を小さく左右に振った。
「……う、ううん。でもさすがに二日間は遠慮するかな」
「別に遠慮なんていらない、あのマンションは鴻崎が居てもいい場所、好きな時に好きなだけいていい」
鴻崎はしばらく沈黙し、「うん、ありがとう」とだけ言った。もしかしたら引かれているのかもしれない。けれど羽知は本当に構わない。もしかしたら寂しいのかもしれないなと自嘲気味に笑う。一人で暮らす、というのは案外人肌恋しい。
泣きたい夜、一人寂しく枕を濡らすよりも信頼しあった彼女の腕に抱かれて泣きたい。ふいにそんなことを考え、鴻崎を見た。けれどその目が合うことはなかった。
「寄っていくか?」
指さすのは羽知がバイトしているコンビニ。けれど鴻崎は少し嫌そうに苦笑。頭を振った。
羽知は「そっか」と少し残念そうにつぶやき、鴻崎と別れる公園に歩いた。
「誠也君……私、私さ、もっと頑張ってみるよ」
唐突に言ってきた鴻崎に驚かされ、羽知は後頭部に手を当て、
「おう、頑張れよ?」
「うん。頑張るよ。じゃ、また明日」
微笑んだ鴻崎は少し逞しく見えた。弱弱しく見えながらもしっかりと芯を通した構え。
その背を見送り、羽知は今晩の食材がない事を思い出し、コンビニで総菜を買って帰った。
玄関ドアを開けるとふっと鴻崎の匂いが漂ってきた。それを思わず鼻でしっかりと吸った。急激に食道を駆けずる流動に堪えかね吐き出しそうになる。視界が涙に滲む、暗転、そして歪む。回る。甲高い耳鳴り、平衡感覚が失せた。
たまらず無様に転倒しそうになる体はかろうじて壁にぶつかり、それに縋る様にゆっくりと床らしき場所にお尻をつけた。ここは地球、上に向かって落ちることはない。
手探りで何度も壁を叩きようやくスイッチを押した。廊下天井の照明がつく。
跳ね上がり、紙を勢いよく引き破る、そんな擬音の鼓動が雨音の如く、全身の細い血管、太い血管、足の先から頭の先まで、すべてに異常を認める鼓動の慟哭。
強く心臓を掴むようにシャツを握った。数個白いボタンが床に散った。
数十回も深呼吸を繰り返せば異常は落ち着く。酸素の薄い頭が熱を吐き、冷えていく。
灼熱は打って変わり極寒が押し寄せた。
散った目を努めて、暖色の照明に照らされた、リビングに続く廊下に見据える。
ゆっくりと眼球を動かし、右側のドアが開き、左側のドアが開き、どれもほんの指二本とない隙間を見る。その隙間からこちらを睨むは数多の眼球。ぎょろぎょろと蠢く様は異形。
羽知の部屋のドアだけは確り閉じられていた。違った香りに酔いながら雑に靴を脱ぎ払う。亡者のように廊下を歩く。カバンを落とし、袋を落とし、自分の足首を見ながら、無数の手が這い出てきそうな空間を、肩で閉めた、そして最後のドアを閉じ、壁伝いに膝を突いた。
不思議な感覚が体を駆けずり回る。本来の許容を超えた大幅な電力が末端から奔る。
痛いでもなく、気持ちがいいでもなく、奇妙。時空がこの異端を排除しようと働く。
しばらく瞑目し、深呼吸、永遠ともとれる十分が過去であり未来に流れ、廊下にさっきまで濃く滞在していた鴻崎の気配が消え去った。そしてようやく万全の体調を取り戻し、乾いた口が言った。
「やっぱり、開けたんだな」
羽知の口は薄く笑っていた。『仕事の都合で帰ってこない親』の部屋の前で。
「自分は詮索されるの嫌いなくせに」
拳を床にたたきつけ、立ち上がる。体の節々が久しぶりに起動したような軋みを啼いた。
体調万全、今なら嫌いな英語の勉強でも、数学の勉強でも朝までできそうだった。けれど「できそう」というだけでやる気はない。今は真っ先に体を纏わる汗を流したい。
手早く風呂を済ませ、部屋着に着替え、朝炊いたご飯を温めなおし、総菜と併せ食べた。
――鴻崎、俺たち付き合わないか。
まだ鴻崎は、俺は何も知らない。ここで付き合えば、何か変わるのだろうか、そう考えた。けれどおそらく、変わらないだろう。そう漠然と、根拠もなく弱気に思った。
せっかくの機会だというのに踏み込めず、羽知は天井の照明を見つめた。白い太陽。
そう刻んだ告白のメッセージを全選択で取り消した。臆病者だ。
気が付けば羽知は無意識にベッドに倒れていた。
耳朶に響く豪雨の絶叫。大粒の雨が頻りに傘を叩く音。耳を塞いだとしてもそれは確り体に響く。怖い。
廊下窓を開けると湿気が体に纏わりつき、手先なんかがべとつく。うんざりだと深くため息を吐いた。そんな羽知の心境を推し量るでもなく、相田は呑気に言った。
「いいよなー二年、修学旅行ワイハーだってさ」
「ワイバーン? あーハワイね、俺飛行機無理だから、京都とか大阪とかがいい。新幹線で行けるし」
相田は羽知が飛行機嫌いな理由を知っているにも関わらず、深いため息を二度吐き、ちっちっちと指を振り、
「これだからちっちゃい男は。羽ばたくんだよ! 世界に!」
「お前、大学いったら『自分探し』とか言ってインドに行きそうだよな」
「よくわかったな、未来視か?」
「あ、知りたくなかった。ま、なんだその、見つかるといいな、自分……」
自分なんて見つからねぇよ、と心の中で嘲笑った。
「いいよなー俺もついていきてぇな、ワイハ」
「仲のいい先輩に頼めよ。んでトランクケース中に詰めてもらえよ」
「妙案だな、それ。でも税関とかなんかで止められねぇかな」
「真面目に考えないでくれる? たとえ捕まっても俺の名は出すなよ?」
壁にピン止めされた時間割を見ながら、
「そういや今日の体育、何やんの?」
「雨だから保健らしいぜ? 視聴覚室」
「ということは楽なやつだ」
「なんのビデオ観んだろうな。やっぱりあれか」
相田が薄ら笑みを浮かべながら妙なハンドサイン。
「何それ」
「知らねぇのかよ」
「いや、教えてくれなくていいから」
相田の口からそんなもの聞きたくもない。
それから短い朝のホームルームが終わり、授業の準備を始める。
「移動教室?」
「うん、生物」
「時間、大丈夫? 急いだほうがいいと思うけど」
「あ、そうだね、うん。じゃ」
鴻崎は何か言おうと口を鯉のように動かし、結局言えず、あいまいな笑みを浮かべた。羽知も似たように微笑みを湛えた。鴻崎は特別教室へと向かう。その背中をしばし見て、お手洗いへと向かう。
女子トイレではよく密談が交わされるという。けれどそれは女子だけにあらず男子も同様だったりする。ちなみに男子トイレのほうが綺麗らしい、と相田が言っていた。
「実際のところ、鴻崎とどうなん? 割と一緒にいるとこ見るけど、少しくらいなんかこうあんだろ?」
「本当に飽きないね? そんなに気になんの?」
「そりゃそうだろ、鴻崎ってったら学年の不思議ちゃんの筆頭だからな。そんな鴻崎と仲のいい男子。気になるだろ普通。みんな言わないだけで見てんだぜ?」
用を足しているところ、横から話しかけられるのはとても気分のいいものではない。
同じように用を足し連なっている男子もすでに用は済んでいるだろうに盗み聞きときた。
「友達だよ。それ以上の関係はないと断言するよ。お前らが面白がって広めるようなことも何もない」
「マジかよ、お前男か? 鴻崎ってメガネかけてて地味だけど割と顔はいいだろ。そんなのと一緒にいて何も感じねぇて? いやいや、嘘だろ」
別に何も感じないという訳ではない。距離が迫ったらそれなりの生理反応を示す。そういう欲求に駆られてしまうし、しっかり異性として見ている。言ってしまえば勢いで「付き合おう」なんて言おうとしてしまうほどに好意はある。それも両想い。
「けど保健室で――」
「断じてしてねぇよ!」
ヘッドロックしてそのまま便器に押し込んでやろうかと思ってしまった。がそれをしてしまえばキリがない。多分全男子生徒にしなくてはいけない。
もうこの手のうわさには慣れてきた。慣れてはいけないのだろうが仕方ない。感情が摩耗しきった。もううんざりだ。けれどまんざらではないのでは? とここ最近思い始めた。
「まぁ……確かに、好きなのかもしれないな」
「は?」×4回。
己が何をつぶやいたのか、とっさに口を押えて思い出す。そして前後から向けられる、恋する乙女然とした男の乾いた目が物語る失言という失態。
厠で話しかけてきた男子、川原・拓馬。彼は羽知の肩に手をポンと置き、
「俺たちは応援してるからな」(キリッ)
なんだか男子に背中やら肩やら頭やら叩かれ叱咤激励。
「せめて手洗ってからにしてくれ――!」
羽知は顔を赤くして叫んだ。憤慨した。衛生面しっかりしてほしい。
正直、それが本心からの応援なのか、裏であざ笑っている冷やかしなのか定かではない。けれどいい方だと良いな、と前者だと捉えることにした。
いつも通りバイト。今日は午後九時上がりだった。いつもより一時間も早く帰ることができるのだ。とてもうれしい限り。
またウイスキー瓶――ではなく、炭酸ジュースのボトルが一本、珍しく洋菓子ケーキが二つ添えられていた。なんかの記念日だろうか、だとしたら物寂しいことこの上ないが。顔からしてケーキ屋でわざわざ予約するような風には見えない。コンビニスイーツはおいしい。聞くのも煩わしくフォークを三本――二本、手拭きを二枚つけた。
そしてふと羽知は今日の日付を思い出し、歯噛みする。七月三日。
その帰り道、いつも通り公園を見る。鴻崎は居ない。幸い雨はやみ、ベンチの水滴を手で払い、腰を下ろし、ピザまんを食んだ。
鴻崎がいつもそうしているように、羽知は空を仰いだ。けれど今宵の夜空模様は心許ない。分厚く低い雲が住まう街を覆い隠す。その先にあるはずの、燦然と希望を与える星々は存在しない。月すら存在しない。それはまるで自分の未来のように。
けれどそれでも心が落ち着くような気がする。奇妙だ。
魔の囁きに耳を傾け、気が付けば意識は雲間に落ちていた。




