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十四話 『両親の行方』

 羽知は夢を見ていた。夢というのは脳が起きようと覚醒した数分間に見るという。そうして薄く曖昧という程度に記憶に残るという。けれど羽知が見た夢は無意識の、まだ脳が覚醒していない間に見たものだろう。思い出そうとしても思い出せない。固く閉ざされた空間。けれど落ち着いた鼓動がその夢は良い物だったと曖昧に告げた。


 羽知はそれを漠然と、記憶の断片、という再現映像だと決めつけた。


 息を吸うと感情が加速した、思わずベッドに眠る彼女に抱き着いてしまいたくなるほどに。母親を求める甘え盛りの子どもみたいに。


 けれどそんな働きは、背骨の剥がされたような痛みに阻害された。羽知は眉を寄せた。そしてようやく正気を取り戻した。


 スマホを手探りに求めるが側になかった。仕方なく肩越しに机の上の据え置きデジタル時計を見る。首が痛い。寝違えたのかもしれない。羽知の霞んだ視界はそれを曖昧にする。


 06:00――


 静謐な部屋に響く数多の雨音。それは小さく、弱く、けれど多く。


 雨が降る日を日常に変えた。非日常である晴れを心の底から求めた。二日酔いの頭のように、低気圧に打ちのめされた頭がキリキリ痛む。ぼやけた曖昧な目線が手元に落ちた。


 いつの間にか固く結ばれ、離れることはないだろうと思っていた指がどちらからともなく離れていた。不覚にも目元が濡れた。あくび。


 鴻崎は羽知に背を向け、左側を下にして壁と向かい合っていた。「そっちに僕はいないよ?」そう思う。けれど壁を前に寝るというのはなんだか落ち着く、という気持ちがわからないでもない。


 羽知はよいしょと口に漏らし立ち上がる。熱は下がったのだろうか、とそう思いながら小さな額に手を当てる。羽知の掌で十分に覆えてしまう小さい顔。


 シートは干物のイカみたいに落ち、ベッドの隅にあった。


「ま、大丈夫そうだな」


 顔色よし、平熱位には戻っている。そう確認して羽知は音を立てず部屋を出て行った。


 07:00――


 朝食の支度を済ませ、鴻崎を起こしに行く。他人の香り、鴻崎の匂いが漂う自室はなんだか不思議な気分にさせる。そう嗅覚に感じながらベッドに歩み、肩を軽くつかみ揺する。


 すると鴻崎は「んぅ」と呻いた。相当心地よく眠っているご様子。邪魔するのは憚られるが今日は学校。気分は母親だ。どちらかというと兄妹だろうか。


「今日は学校休みか? 朝食出来てるぞ……こりゃダメだな」


 返事は呻きのみ。おそらくブローカ失語だろう。いつか治療してやるからな、と約束して鴻崎の下を離れ、さっさと朝食をとった。


「んうぅ……んぬぅ」


「なんて? 可哀想にな、いつか治してやるからな」


 学校に行く前、一応自室に顔をのぞかせた。未だ変わらずぐっすりと眠っていた。一つ変わっていたことと言えば体勢、仰向けになっていた。顎先ほどに持ち上げられた掛布団。


 ベッドの縁に手を置き、


「俺、先行くから、スペアキー、ここ置いとくからな……って、聞いてねぇよな」


 直筆置手紙を枕元に置いた。しばし鴻崎の健やかな寝顔を見て居ると仄かに陰りが生まれる。心に邪が差す。魔が差した。


 人差し指と中指をくっつけ、生暖かい息を吐く、薄く開いた唇に軽く押し付けた。その瞬間二人の呼吸は止まった。


 ほんの悪戯心だ。けれど底知れない背徳感が圧し掛かった。羽知は思わず馬鹿らしく苦笑する。その指を自分の唇へと当てた。


 羽知は仄かに紅を差した鴻崎の頬に手を添え、


「行ってきます」


 傘を差そうか差さないか迷う弱い小雨の中、目を凝らすと案外降っていることに気が付く。傘を差し、学校へと向かう。その足取りはいつもより狭まる。


 ぽつぽつ雨の中、背後から強烈な衝撃を受ける。刺された――


 思わずそう錯覚する。けれど事実は違い、背後でケラケラと嘲笑の声が聞こえた。


 羽知は形相を凄め、


「いってぇなぁ、鈍器だろ、それ」


「別になんも入ってねぇぜ? それにしても今日も今日とて冴えない顔してんなぁ、陰気くせぇ」


「朝から暴力されたら誰でもこんな顔なるわ! 狂ってんだろお前」


 鈍器の正体は革張りのカバン。その重量は約二キロを超える。中身がその頭同様に空と言え硬く重たく、男子高生が乱暴に使っても耐える剛性。女子生徒にとってはある意味心強い護身用具となる。助走をつけた一撃となればそれはもう途轍もないというもの。


 故に羽知はカバンをフルスイングし、相田のこめかみに食らわせてやろうと企てたがやめた。おそらく脳震盪で倒れる。数少ない友人を喪うのは惜しまれる。合掌。


 そうなれば必然的に羽知まで消えてしまう。


「そういや今日お前日直だよな。急がなくていいのか?」


 本当にフルスイングしようかと考えた。


 羽知はこめかみを挟むように目を覆った。


「……だから、そういうのもっと早く言ってほしいんだけど」


 仮に朝、メールで『今日日直だよ♪』などと相田から送られてきたら即ブロ対象。


「いや、知ってるだろ。普通」


「俺が普通じゃねぇってか。はっ。ま、相方がやってくれてんだろうな。あとで礼でもいうか」


「誠也……」


 急に相田が声を潜め、悲し気に見てきた。それが気味悪く、無意識に身構える。


「なんだよ……シリアスに」


「お前案外クズだな⁉」


 日直は大抵男女、あるいは男男、女女の二名組で行われる。仕事内容はそう多くはない。授業開始の挨拶、授業終了の挨拶、学校終了(笑)の挨拶。あとは掃除と日誌くらい。


 男子の多いクラス故、後ろ番号になると男子ペア。そうなると高確率で翌日の日直が昨日の日直の仕事を引き継ぐことになる。サボってペナルティがあるわけでもない。けれど禍根を残すこととなる。見えないところで私刑が発生する。そういう空気が抑止力となりサボる生徒のほうが少ない。誰かに押し付ける、ということは絶対良しとされない。そう知っているからこそ言葉とは裏腹に羽知の歩幅は広く、学校へ行きたくて仕方ない。


 恐る恐るという具合で教室に入り、その女生徒の背に声をかける。普段とあまり変わりない語調に「忘れていたんです」と陳謝の意を纏わせる。


「おはよう……ごめん完全に仕事あんの忘れてた……えと、松本さん、だっけ? 何か仕事残ってますかね?」


 羽知は語調柔らかく言ったはず、けれど女生徒はビクッと肩を上げた。そして向けてきた目は戦慄と僅かな敵意を孕んでいた。羽知は仕事に遅刻したわけだ、致し方ない。


「う……うん、おはよう、羽知君。えっと、残ってる仕事は、ゴミ捨てが……」


「わかった、じゃぁゴミ捨て行ってくる」


 遠回しに「お前、ゴミ」と言われたなどという事実はないだろうが考えてしまう。


 黒板の掃除をしていた彼女、松本まつもと里桜りお。彼女は羽知のことをまるで性の権化であると戦慄し侮蔑するよう見ては肩を抱き捩った。なぜそんな目で見られていたのか不明だ。羽知は気になり、自分なりに考えた。けれど出てきた要因は「仕事を忘れていた」それだけだった。


 ――埋め合わせに放課後の掃除は俺がやろう。


 ちなみにゴミ袋が重たいのは昨日の日直が捨て忘れたから。昨日の日直許さん。


 という怨嗟も然る事ながら視線は地下体育館で走る陸上部女子を横目に見る。


 綺麗なフォームで走る。この目に邪念はない。ただ純粋に男性コーチと同じ気持ちで見ているのだ。引き締まったふくらはぎ――


 羽知は頭を激しく振り、


「ダメだ、仕事だ。仕事」


 と言い聞かせ、視線を廊下の先に向け歩き出した。


 さっさとゴミ捨て場に放り投げ、教室へと帰ろうと急ぎ足になる。


 難所を超え、階段二段目に足を置いたところで脚にバイブレーションを感じた。


 スマホの着信。


 鴻崎からの電話だった、ということもあり躊躇うことなくすぐに出た。これが親戚とかであれば顔を顰めスマホの電源を落としただろう。けれどこの電話にかかってくることはない。


 咳払いして、


「おはよう、鴻崎。今起きたのか? 体調はどうだ?」


『おかげさまでもう熱はない…………で、誠也君、今どこ?』


 途中なぜか狂おしい呻きを叫んだが取り直した鴻崎が羽知の所在を問う。ゴソゴソと毛布がこすれる音がこしょばい。羽知は思わず微笑みを浮かべ、


「俺は学校。テーブルに朝食あるから、温めて食って。もし家出るんならカギしめてな」


『それは分かってるけど…………うん、ありがとう……それじゃぁ……』


「お大事に、じゃ――あそうだ……って、切れちゃったか」


 学校に来るか来ないのか、それと「ほかの部屋は漁るな」と伝えようとしたが切られた。


 スマホをポケットに仕舞うと同時に肩が掴まれた。肩越しに見ると思わずため息を吐きたくなった。


「誰と電話だ? あー言わなくていい。当てて見せる――……彼女だろ」


 何千何万といわれたその単語にもはやときめきはなく、嫌悪すら見せそうだ。


 彼の手には楽器ケース。吹奏楽部が終わり、ぞろぞろと湧いて出てくる。彼、清水しみずあゆむはトランペット奏者。幼少期から親の影響でなんとなくやっているというが腕前は確かだと聞く。彼と羽知は別に親しい間柄ではないのだが。


 話は変わるが、こういうたぐいの「うまい? いやぁそんなことないよ」は当てにならない。


「はい、ハズレ」


「ま、知ってっけど」


「あっそう……で、なに」


「いや、有名人が階段で電話してたら話しかけるのは常識だろ?」


 真面目に演奏している清水の隣でマウスピースだけを無意味に鳴らしたらどんな反応を示すのだろうか。きっと割とマジに怒られる。そんなくだらないことを考えた。


「あぁ、そういうもんか。とりあえず彼女じゃねぇよ」


「そういやいつだか保健室でヤったんだろ? 見かけによらず案外やるな」


 清水は感心気に言い、肘で横腹を突き、去り際にサムズアップ。「みんな知ってるぞッ」と、そして否定を聞かず背中をバンバンと叩いて階段を上がっていった。


「噂流したやつ、マジで覚悟しろよ……」


 噂が独り歩き、独自に変化していく様はもはやウイルスの類。


 ここ最近女子の視線が冷ややかなのはそういう根も葉もない噂のせいだろうか。松本さんがちょっと胡乱だったのも合点がいく。


 そして教室に戻り、透明なゴミ袋をセットする。教室奥のほうで男子友達とわちゃわちゃ愉快にお話ししていた相田が羽知を見つけては寄って来た。


 来なくていい、そう心の中で追い払う。けれど最初に口を開いたのは羽知だった。


「なぁ、俺って保健室でヤった男になってんの? いま」


「だな」


 相田はまるで、「何をいまさら」という顔をする。


「いや、だな。じゃなくて……」


「まぁ、女子に手も出せない根暗な臆病者、って思われるよりはいいだろ?」


「どっちもどっちだよ。人畜無害って誹られるほうが何百倍もマシだ」


「んま、人の噂も七十五日――だぜ」


「つまり、あと最低でも四十日は……」


「ま、そのころにはお前の存在も忘れられてらぁ」


「存在は忘れんな」


 それからホームルームが始まり――終わり、一日が始まった。


 一時間目終わりの休み時間。大体十分あるこの自由時間に仮眠をとるもよし、彼女と愛を紡ぐもよし、トラックを走るのもよし、時間と法律さえ守れば基本的になんでもいい。人が多く歩く廊下、窓際に立つ鴻崎がこちらを窺っていた。目が合うと少し頬を染めた。なぜだろうか。噂の渦中の人間だからだろうか。噂には疎そうだけれど。


 廊下に出ると視線が集まる。みんな見てないふり、けれど確り視線を感じた。


 羽知は後頭部に手を当て、小さい声で言う。


「来て大丈夫か? 体調、どうだ?」


「あ、これカギ」と鴻崎が先にカギを手渡した。


「体調は万全だよ、ちゃんと誠也君が診てくれたから……」


 と言い、鴻崎は顔を染め、よじよじ。「同棲か」という噂が流れそうだ。


 そんな視線に嫌気が差す。人目に付くところで言葉を交わせば自ら話題を提供し、火に油を注ぐようなもの。羽知は鴻崎を促し屋上へと続く階段を上った。


 アルミドアを開け、屋上へと出る。上を見ると出っ張った屋根が雨から守ってくれる。


 鴻崎は制服姿。ということは一度家に帰り、わざわざ着替えて来たのだろう。羽知には到底真似できそうにない、治ったとしても大事をとって二日は多く休む。


 羽知の視線はガーゼを貼った手の甲に。


「火傷、大丈夫か? 痕とかなってないか?」


「うん、大丈夫、そんな、油とか浴びた訳じゃないから痕にはならないよ」


「油浴びたらのんきに雨に打たれるんじゃなくて病院行きだな」


 鴻崎は気まずそうに唇を結び、瞳はいつもより元気ではない。何か言いたそうにしている。けれどそれを口にするのは憚られるのだろう。言えない自分に苛立つのか唇を柔く噛んだ。


 そんな仕草を羽知は横目に見る。望んでいたようで、望んでいないようで。知ってもらいたいようで、知ってほしくないようで。けれど相田は見た。


 羽知はゆっくり瞬き、肺に満たすように湿った空気を吸う。肺が水っ気を拒むように吐き出そうと抵抗するのを感じる。むせそうになるのを抑え、最大まで吸う。ゆっくり吐き出した息に雨の香りが含まれる。


「鴻崎、どうかしたか? さっきからモヤモヤして」


 そう聞かれ、鴻崎は一瞬たじろぎ、頭を小さく右左に振った。心に安堵と危惧が渦を巻いた。


「そろそろ授業始まる、行こうか」


「う、うん……だね」


 ガチャリと引き開け、校舎に続く階段を下りる中段。鴻崎の足音が消滅し、羽知の足音が響く。踊り場で足を止め、振り向く。中段に足を止め、定かではない視線を下の階に向ける鴻崎が、無感情な声で言った。


「……誠也君ってさ……本当に…………誠也君のご両親って……いるの?」


 きっと、おそらく、鴻崎は別のことを聞こうとした。けれど言い換えた。


 そのことも、微かにうれしく感じた。羽知は鴻崎と同じ顔をしていった。


「いるよ」


 鴻崎の喉が動く。そして薄い笑みを浮かべ、うつむき加減に、


「そうだよね、ごめん、変な事聞いて」


 予鈴が響き、急ぎで戻らなくてはいけない。けれどどちらも動こうとしなかった。


 羽知は再び階段を上り、手を伸ばした。それは掴めない、どれだけ変わろうとも得られない飛行機雲ではない、鴻崎の手だ。手を伸ばせば確り触れることのできる温かい手。


 握っている間、心の底から落ち着ける。羽知は恥ずかしく思う、けれどそれは鴻崎も同じ。


 喉まで込み上げた言葉を確実に押し戻した。

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