十三話 『一緒に寝る?』
少しずつ温かいと感じる季節。日の沈みが遅くなる季節。月が替わり、いつまでも晴れる気配のない鉛色の空が暗い色の雨を降らせた。梅雨入りだと、テレビがそんな音を出す。
梅雨となると締め切った部屋にはカビという魔の手が迫る。
けれどこのどんよりした月を過ぎれば晴れて夏。夏休みだ。
教室前廊下、雨に染まる景色を見つめているところ、相田だけが夏を先取りしたような笑みを浮かべ接近してきた。暑苦しくて少し離れるが無駄。つくづく羽知とは正反対だ。
「夏休み、男子友達全員連れて、海いかねー? 来るよな?」
「想像しただけでむさ苦しいな。もう少し湿気を飛ばすような爽やかになれる話題をくれよ。ただでさえジメジメ鬱々してんだから」
「お前だって一介の男だろ。男に爽やかな話題なんてあるか!」
「……いやあるだろ、一つくらい。たぶん」
「ねぇだろ、少なくともここには」
「…………。だな」
「んで? 誘ったら来るだろ?」
「まぁ、暇だったら」
「遊び盛りの癖に詰まらん奴だぜ。こんなんが息子だったら最悪だな」
「こんなむさ苦しいのが父親だったらそれこそ最悪だ」
そういうと相田は背を叩き笑う。
ジメジメとした空間で受ける授業はとても怠いものだった。バイトで倦み疲れた精神が癒されることはない。食後、午後の授業で満腹故に迫る眠気の後押しに雨音。
隣でうとうとし始めた相田が眠り、先生が叩いたのを見て笑っていたが、次の時間では逆転。
早く過ぎてほしいと願うばかりの気候に、傘を内側から叩く。
洗濯物。外で干したいが止むを得ず乾燥機を使う。
そんな気候状態でバイト。いつも以上に覇気がなく、サービス業に致命的な態度を頻発。店長も怒るではなく休憩を促した。今時の高校生は一蹴されたら次の日から顔を出さなくなる、店長も安易に強い口調を遣わない。
とりあえず今、レジに並んでいる人を捌こう。そしたら休憩入れよう。
「四千円になります……」
ウイスキー瓶三本。それと夕食にでもするのかチルド蕎麦が二つ。
こちらも倦み気を孕んだ暗い声色。聞いているだけでこちらの気力まで下がりそうだった。
「温めはいかがいたしますか」
「あぁ、結構です」
それから午後十時になり、バイトを上がる。雨の空に傘を差し、等間隔の街灯の下を歩く。車通りの少ない道とはいえ、道路の真ん中を歩くような行為はしない。
白色の街灯はぽつぽつと大粒の雨を綺麗に照らしていた。それは銀吹雪と共に壇上を照らす照明。
その下、メガネのレンズが落雷の如く反射した。
急いでその手を引き、傘の下にその華奢な体を入れた。
「雨に打たれる趣味なんて聞いてない」
「私は、雨に打たれるの、嫌いじゃないよ――ッしゅん。うそ、あまり雨に打たれるは好きじゃない」
「問答無用、家、こい」
掴んだ手首は指が回るほど細く、下手したら折ってしまいかねない。そういう華奢。けれど構わず手を引いた。血が通っているとは思えない冷たさ。そんなずぶ濡れでいたら風邪をひく。
小さなくしゃみを見せた。そんな弱った鴻崎を前に、口の中に強い苦汁が広がった。
小さな足跡が刻まれる。
濡れた廊下は後で拭けばいい。それより先に鴻崎を風呂へと押し込んだ。そして自室の棚を前に鴻崎が着られそうな服を探す。掴み上げる灰色のスウェット。かわいげない地味なもの。
「着替え……まぁ、俺のだけど……ちゃんと洗ってあるから。タオルも置いとくから。ドライヤーとかも好きに使っていいから」
と風呂のドア越しに伝えた。視線は憚られながらも洗濯物へと向いてしまう。
「ありがとう……ごめんね」
「謝んな。いいから、別に……」
――むしろ俺が謝るべきでは。
それから三十分ほどして、風呂の戸が開いた音がした。それから衣擦れの音。
大体計四十分ほどして湯上り鴻崎が出てきた。
「ありがとう、助かった……」
袖の長いスウェットを着て、もぞもぞと足を合わせ、二の腕あたりをさする。
すこし広い首回りから覗く鎖骨。その布の下にあるべき下着がない。何せ洗濯中だ。鴻崎の顔がほんのりと赤いのは多分湯上りとかではなく、そういうことが原因している。彼女はさしずめ恥ずかしいのだろう。などと羽知は冷静に評価したが逆に恥ずかしくなった。
鴻崎は屈辱的だと唇を震わせながら、
「……し、下着……ない、これ、とても恥ずかしいのだけど……」
「あと十分もしないで洗濯が終わる。乾燥機かけるから、それまでの辛抱だ、耐えてくれ」
羽知は顔を背け、背後の鴻崎にそう伝えた。
――耐えてくれ――理性。
「私は……別に、これでも構わない……――ッくしゅ……ごめん、ちょっと、ティッシュちょうだい」
「鴻崎、まさか、風邪ひいたか」
迅速に棚から体温計を見つけ出し、それを鴻崎に渡した。近くに行き過ぎると妙に刺激されてしまう。その身長差が思わず危ない領域を俯瞰させる。こればかりは俺ではなく、遺伝子を恨め。女子特有のキメの細かい肌質だった。立ちすくむ鴻崎の横を過ぎ、洗面所へと向かう。
「とりあえず座ってろよ、乾燥機かけてくるから」
「うん、ありがとう」
鴻崎の体温は、37.5℃――風邪だ。流行り病ではなく、ただの風邪である。
とりあえず下着を身につけさせ一安心。羽知は暗くて気が付かなかった、その手の腫れに視線を向けた。酷い腫れにはなっていないが赤々と痛々しい。塗り薬はあったかと探しながら、
「そんな体調で帰るのは大変だろ、泊まったらどうだ? 親が何か言う、とかなら帰ったほうがいいんだろうけどさ」
火傷用の塗り薬を見つけ、鴻崎に座る様に促す。それに従い鴻崎はソファに腰を下ろした。
「でも、迷惑じゃない……そんなの」
あまり痛みはないのか指先でなぞっても声は上がらなかった。ただ我慢しているだけかもしれない。包帯はなく、ガーゼをテープで固定した。
「迷惑なんて、思わねぇっての。どうすんの? 寝るならまぁ、俺の部屋になるけどな」
「え、」
「え、ってなんだよ。安心しろ、俺はソファで寝るから」
「いいよ! 私がソファで寝るから」
「そんなことさせるわけないだろ」
スマホのポップアップ通知の乾いた音が響き、鴻崎はスマホに視線を落とした。
わずかに鴻崎の顔が変わり、羽知は問う。
「親か?」
「……うん。やっぱり、帰るよ」
「迎えは?」
「一人で、帰れるよ、子どもじゃないんだから」
立ち上がった鴻崎の行く手を阻むように羽知は廊下に続くドアの前に立った。そしていたって真面目な顔で言った。
「子どもじゃないなら、そんな体調で帰るのが危険だってことくらいわかるだろ。泊まっていけ」
羽知は強く鴻崎を見つめ、熱い、吸い付くような頬に手を添えた。逸らそうとしても逸らさせない。鴻崎は口を強く結び、わずかに目を潤わせた。
「…………ごめんね。甘えさせてもらおうかな……」
それからしばらくして、羽知は鴻崎を自室に案内した。もぞもぞと普段自分が寝ているベッドに他人、異性が寝るという光景は視覚を刺激する。
掛布団を口元まで持ち上げた鴻崎がこちらを窺う。そのしぐさが妙にかわいらしい。
「ねぇ、誠也君、一緒に寝ない?」
「寝ない。治り、遅くなるぞ」
本当は寝たい。いろいろとしちゃいたくなるから理性でかろうじて煩悩を抑えつけた。
「じゃぁ、寝るまでそばにいてよ」
「まぁ。そのくらいなら構わないけど」
鴻崎は布団から手を出した。暑いから、という訳ではなさそうだ。広げた五指が閉じたり開いたり。求めていた。
「握って」
「……わかったよ」
うれしいけれど渋々といった具合にその小さな手を握った。その手は長時間使用しているスマホみたいに温かい。火傷しそうだ。少し強く確かめるように鴻崎は握り返す。
「大きいねぇ」
「鴻崎の手が小さいんだろ」
「硬い」
「柔らかい」
「冷たい」「温かい」としばらくお互いの手の感触を確かめ会う。
「「おやすみ」」
いつの間にか指は絡みあい、鴻崎が寝てしまったら離れないものとなった。
照明の消えた夜の部屋は暗い。共用廊下側から差す僅かな光だけが淡く照らす。けれど足りない、鴻崎の寝顔を見るには足りない。
目を瞑ると似た光景がフラッシュバックした。それが何かを悟らないように瞼を開いた。
「まぁ、いいか」
羽知はベッドの縁に突っ伏す姿勢で寝入った。




