十二話 『あの高い空の向こうへ』
それからというもの、鴻崎と羽知の友好関係は平行線を歩いていた。
バイト中、あの日、保健室でのことが頭を過った。寝る前も。いつの時もそんな具合だった。唐突に迂闊に出没する煩悩。それを紛らわせるように勉強に身を入れた結果。前期末試験ではそこそこいい点が取れた。相田に勝ったなこれ。そう結果すら見ずに思っていた。結果だけを言えば羽知が負けた。
「ま、自己採点ではね」
「名前、ちゃんと書いたか?」
「当たり前だろ。そっちは?」
「ま、赤点は回避したな」
ブイサイン。けれどもこう見えて相田は勉強ができる。羽知と同じか、それ以上か。事実、悔しいという気持ちがないわけでもない、がこんなバカそうに見えても裏ではしっかり勉強をしているのだな、と解釈すると気が晴れた。
「それにしても眠い」
「なんだ? やっぱり一夜漬けか?」
「まぁな、再試なんて面倒なことしたくもないし」
「あー――っ、これで夏休みは平穏に訪れるわけだ」
相田はカバンを机に置き、両手をグッと天井に向ける。
「んー明日は振替休日だー! 明日遊ぼうぜー」
「何言ってんの、明日明後日、しっかりバイト入れてんじゃん、俺たち」
「実質遊んでんな」
「仕事だ」
「じゃ、休むか」
「いい加減クビになるぞ?」
「というか近々つぶれるな経営不振で」
羽知は店長を労る様に深くため息を吐き、カバンを持ち一足先に教室を出る。けれどすぐに捕まり、とりあえずコンビニのほうまで帰り道は同じく、連れ立って歩く。
「いいのかよ」
「ん、なにが」
「鴻崎さんに話しかけないで」
「いや、なんで」
「最近なんか距離あんじゃん、お前ら。失恋してなんとなく元の距離を保とうとしてるみたいな」
「嫌な喩えすんなよ……」
言い得て妙。とは言わないが似たようなものだろう。羽知の返事だけを切り取れば断ったようなものだ。
鴻崎はこちらを一瞥し、ローファーのつま先を叩いてしっかり履いた。そして帰宅道を捉えた。
「ほら、いっちゃったぜ?」
「…………」
校門を出て見慣れた帰路を捉えるが鴻崎の背中はなかった。
安心に似たような妙な感情を抱いた。
帰り道、沈黙が奇妙で羽知は別にどうでもいいことを聞いた。
「そういや、相田って好きなやつとかいんの? ずっと俺ばかり聞かれて、少しは明かしたらどうなんだ? 恋愛事情をさ」
「ん? いねぇよ」
「は? 隠すつもりか? 人が隠してるものを勝手に漁るくせに。ズルくね?」
「いや、マジ、大マジ」
しらじらしい顔で、手を顔の前でないないと振る。
「本気で?」
「本気。いやぁ俺、恋人とかお互いを拘束しあう関係より、友達くらいの軽い関係がいいんだよ」
相田は羽知の首に腕を回す。
「暑苦しい! むさい! やめろ!」
相田はケラケラと笑い、道で分かれた。その背中が消えるより前に家路を進んだ。
公園にその姿を見つけ、後頭部に手を当てた。こうして二人きりになるのはおよそ一週間ぶりだった。公園の入り口で考えていると鴻崎が気付いた。目が合ったからには無視という選択はない。
「よう……何してんの」
片手をあげ、ベンチに歩み寄る。そして当たり前のように隣に腰を下ろした。
いやだったら避けられるだろう。けれど鴻崎は離れない。
「誠也君は? 公園、好きになっちゃった?」
「鴻崎が居なければこんなところにこねぇよ」
「じゃ、私に会いに来てくれたようなものだね」
「んまぁ、否定はしない。そんな鬱屈とした顔でもしてたら一言かけないと気が済まないんだよ。テストの点でも悪かったか?」
鴻崎は勉強が得意。そのことを羽知は知っている。
鴻崎は嫌な顔をするでもなく、むしろ珍しく自信を孕んだ微笑みを浮かべた。
「自己採点の結果だけで言うなら九割は余裕。私、意外と勉強できるんだから。誠也君こそ、どうだったの? 赤点?」
「バカ言え、俺はまぁ、七割くらいかな。赤点さえ取らなければ何点でも変わんないって」
「意外と勉強してるんだぁ」
「意外と、とは失礼だな。ちゃんとしてるんだよ」
「そっか、ごめん」
鴻崎はメガネの位置を直し、空を見上げた。
「で、鴻崎は公園で何してたんだ?」
「……訊く? …………誠也君に会いたくて、待ってた」
空を見たまま鴻崎の横顔は微笑む。羽知も同じように真似をして空を見た。
「飛行機雲だな」
「飛行機雲、だね」
手を伸ばし、それを掴もうとするが握ることはできない。長く留まる飛行機雲。それについて陰謀論を唱えるが世界に満遍なく広がるのなら理不尽な物ではないように思えた。
鴻崎は水色の空に手をかざし言った。
「私、卒業したらどこか行きたい」
期待をはじめとした複数の感情が入り混じった透き通った声。羽知は空に向けていた手を膝の上に落とし、しばし言葉に詰まった。けれどすぐに気を取り直した。
「どこか? あー、自分探しとでも? インドでも行くのか?」
と薄く馬鹿にしたような口調で言う。羽知はあまり飛行機が好きではない。落ちたら怖いし。死ぬし。海上に墜ちてフカのエサになるのは望むところではない。
鴻崎は夢を見るように話す。
「そんな大それたものじゃないよ。国内で十分。隣の県でも、はたまたもっと近くても。誠也君はどこか行きたいって思ったことない?」
「そうだな……北海道とか、ま、食いもんが目当てだな」
北海道だったら新幹線でも行ける。鴻崎は楽しそうに口角を上げて、
「それもいいねぇ。私は海が見えるとこに行きたい。鎌倉とか」
羽知は同意を示し頷き、
「鎌倉なら、こっから一時間で行けるな」
「中学の時、校外学習で鎌倉行く予定だったんだけど……風邪ひいちゃって行けなかったの」
少し悲しそうに鴻崎は言う。確かに遠足に参加したいのに体調不良で参加できない、というのは一生の話になるだろうが、不幸だ。
「いるよなぁーそういうの。修学旅行とか、そういう時に限って風邪ひくんだ。ちなみにうちの中学も鎌倉行ったな」
と羽知が言うと鴻崎は唐突に食い気味に言ってくる。
「あのさ……誠也君⁉ 明日暇だったりする?」
羽知は後頭部に手を当て、「あー」と口に漏らし、
「残念。暇じゃない。明日明後日、朝から晩まで確りバイト」
鴻崎はあからさまに気を落とし、視線を落とした。
「……そう」
とてつもない申し訳なさの罪悪感に駆られ、
「明日、シフト表出すから。予定、開けておくけど?」
「そんな、悪いよ」
「別に悪くねぇよ。いきなり予定言われるほうが困るんだよ」
「…………うん、じゃぁ――」
それから一時間ほど、ベンチに座っていた。
「うち、来るか?」
「うんう、今日はこのまま帰る」
鴻崎は少し眠たそうに深呼吸。
「もしかして鴻崎、徹夜で勉強でもしてたのか?」
「まさか、ちゃんと寝たよ。二時間」
「それはちゃんとって言わねぇよ。最低でも五時間は寝とけ」
じゃ、と軽く手を振り、公園で別れた。羽知は一人公園に残り、緊張をほぐすように息を吐いた。
「どこか行きたい。ねぇ」




