十話 『乙女の告白』
翌日、日曜日はバイト。
午後一時から、八時まで。求若い人。
昨日バイトという有意義な予定が、唐突、相田に一方的に嬲られる(ゲームで)という無意義なものに変わり、調子が狂った。
バイトが終わるころ、もはや初め数時間の記憶がない。体感は薄いが割と過酷なバイトなのかもしれない。疲れを解消する運動をしながら帰り道。当然のように公園を見るが鴻崎の姿はなかった。
鴻崎と出逢ったあの日から、こうして公園を見ることが日常になった。今まで過ごして一度も見ようとはしなかったというのに。
そんな鴻崎とは一応メールで言葉を交わしていた。毎回、練に練って考えた文章に素気のないかわいくない短い文章が返ってくる。けれど返してくれるだけでうれしいものだ。
――今日何してた?
――勉強。なにいきなり
――よし、楽しく話せたな
――はい? そう、ならよかったけど……
といった具合。(よし、楽しく話せたな)
家に帰ると風呂に直行。湯を沸かすような手間をかける元気もなく、ただ今は汗をシャワーで流し寝たかった。
変な時間に寝ると変な時間に起きてしまう。スマホで時間を確認すると――
01:12――
ド深夜だ。幸い目を閉じればすぐにまた夢の中へ逃げ込むことが許された。
そんな具合で寝たためか朝、少し体の節々が怠かった。愉快的悦痛快な夢を見た気がしたけれどそれも覚えていない。この怠さはもしかしたら風邪かもしれない。けれど風邪の症状はなく、気分を除けばいたって平常。病は気からという言葉がある。元気を出していこう。
06:45――
いつもより遅く起きてしまったが十五分など誤差の範囲。ゾンビのように項垂れながら風呂へと向かった。
シャワーを浴び、汗と負の気分を流す普段通りのルーティン。ご飯は昨日コンビニで買ったものを温めた。朝から麻婆豆腐というのは少し重いのか胃がもたれたような何とも言えない感じがあった。
しばらくトイレに籠ることとなったが羽知は基本的に余裕をもって行動している。故に遅刻するということはない。我ながら真面目だと思う。
番組が変わる午前八時を過ぎたころに家を出る。いつもと変わらぬ通学路。そろそろ梅雨だろうというこの頃。温い風が抜け、空には少し鉛色の雲が多くかかり、亀裂から青空が覗く。雨は降らない。と天気予報士は言う。けれど折り畳み傘の一本か、置き傘の一本はあるべきだ。気まぐれな空は通り雨を降らすかもしれない。
けれど問題はそこになかった。今日の時間割を思い出して額を叩いた。
「あぁ……」
踵を返し、火を消し忘れたときのテンションで羽知はマンションへと急いで帰った。
月曜日――今週の日程では体育がある。
余裕を持っているので体操着を取りに戻っても遅刻はしない。けれど到底心穏やかではない。忘れ物をするということは気が緩んでいるということに他ならない。月曜日という週初めにこの調子だと今週は思いやられる。体育で気を抜けば怪我に直結する。深くため息を吐いた。
08:20――
昇降口に到着すると同時に部活終了を告げるチャイムが響いた。各部活動を終えた生徒が廊下を声と匂いで彩る。部活終わりの有り余る余力が声に、それと制汗剤。
とりあえず安堵に息を吐き、下駄箱に入れ替えに上履きを出す。ローファーを拾い上げようと背を曲げるとその背を肘で押さえつけられた。しかも割と強い力で。
「今日は遅いんだなぁ。寝坊でもしたか? そういう顔してんぜ辛気くせぇな」
「俺は肘掛じゃねぇ。今日からまたお前の顔を見なきゃいけないことに対する不平不満を、この一度きりの溜息と表情で解消してんだよ」
「うわぁー、割と傷ついたぞ、その言葉。俺の顔のどこに落ち込み要素があるってんだ」
「なぁ」と嫌気がさすほどに近くに迫った相田の顔を手の甲で払う。
足が重いと思いつつ(相田が羽知の肩に体重をかけている)階段を上がり、一組の前で暫し足を止めた、「鴻崎か?」と揶揄われ、急ぎ足で通り過ぎ三組の教室へと向く。ちなみに鴻崎はこちらに気付かず、おとなしい子然と座っていた。
一時間目の授業は体育。
朝のホームルームを終えてすぐ更衣室へ向かう。五分ほどしかないためかその足は自然と速い。
女子更衣室は遠く、その足はさらに速い。廊下に先生が叱りつける声が響く。その怒りは理不尽に近い物がある。
全力で走りグラウンドにスライディングイン。あと一分遅れたら体育教師はご機嫌を損ねただろう。ちなみに女子の体育は十分ほど遅れて始まるのが常識らしい。
幸い、遅れた人はなく、滞りなく授業は開始された。もはや流れを知った体操を済ませ、ジャージが汚れるストレッチをして準備体操の一環でトラックを三周。
「いい加減サッカーとかしてぇよ」
「体育倉庫からサッカーボールでも取ってきたらいいんじゃない? 何ってったっけ、ドリブルだっけ。それバスケか?」
知識のない羽知の発言に、サッカー部の爽やかイケメン、佐藤が爽やかに笑う。体育以外で絡むことのないリア充な生徒。大抵右か左に女子がいる。男子友達も多い。別に羨ましくはないが男ばかりに囲まれるよりはいいだろう。絶対に。羨ましい。
「何さぼってんだよっ!」
「あー押すな押すなー、あー楽だ。押せ、そのままずっと押せ」
「喜んでんな⁉」
走るなど怠く、ほとんど歩いているに等しい羽知の背を押し加速させるのは二人の男子生徒。よく鴻崎との関係を揶揄ってくる一組の面子だ。日頃の労りを込めて押してくれるとありがたい。
だが喜んでいると知るとすぐにその手は離された。その反動で足を縺れさせ盛大にクラッシュ。ちょうど体育館の鉄扉の前。羽知は、この歳にもなって転ぶ、というのが大層恥ずかしく、起き上がることを拒んだ。悔しくて歯噛みする。痛くて歯噛みする。
「マジゴメン」
「大丈夫かよ」
「血ィ出てんじゃん」「衛生兵――!」
男子に支えられ立ち上がるとは――これが友情、か。
思わず感涙――痛くて。
「大丈夫⁉ 誠也君――」
そんな変声期を過ぎた男の太い声の中、高いかわいらしい柔らかい声が耳朶を打つ。現れたのは鴻崎だった。彼女の姿が今、男の面と体躯をした天使に支えられている状況ではマジ物の天使――女神にすら見えた。
鉄ドアから半身覗かせ、とても心配ですという感情がその細い眉を寄せた顔からすぐに見て取ることができた。手を胸の前で握るのは癖なのだろうか。
「お、彼女」「彼女」「彼女参上か」と似たようなことがつぶやかれる。その言葉を耳に入れたのか鴻崎が、あ、と唇を指一本分開け、少し頬を染めながら体育館前の階段を下りてくる。男子の視線が集中するのは仕方のない事。鴻崎は視線を同じ高さに膝を突く。
「酷い怪我……保健室、行かなくていいの? 私が、連れて行こうか……」
「いや、そっちだって授業中でしょ……それに、それくらいひとりで行けるし――ッた!」
後頭部をげんこつが襲った。誰の仕業だと顔を痛みにゆがめて振り向くと、イケメンがいた。
「鴻崎さん、こいつ頼んだぞ。頭にもコブあるし――なッ」(キリッ)
お前が殴ったからだろ。と言いたげに恨めしく視線を送るが意図は伝わらず、サムズアップ。
膝、肘、手、顎、喧嘩でもしたのかな? と思われる酷い怪我だった。羽知が歩く後には血痕。軽くホラー。あとで掃除しなくては。
授業を抜け出した鴻崎は羽知の肩に手を添えて介抱。授業中ということもあり廊下に生徒の姿はない。気兼ねなくその手を借りる事にした。
そんな静かな廊下も休み時間になれば賑わう。
妙な鼓動がうるさい。体が密着しているから。あと、ちょっぴり熱まであるかも。体が密着しているから。
柔軟剤が香るジャージ姿の鴻崎。上下長ジャージという野暮ったい格好に隠蔽された体格。少し見えるのは手首からほんの少し上だけ。密着した距離は体温まで伝わる。計四着の、下着も含めたら五着くらいの隔たりがあるが体温とかそういうのは感じてしまう。その永遠とも感じる時間を少しでも紛らわせようかと口を開く。視線を道先に向けて。
「いいのかよ、授業抜け出して」
「大丈夫、いてもすることないから」
鴻崎は基本見学らしい。汗の一つもかいていない。
「体育、苦手なのか?」
「まぁ、得意ではないわ。でも、見るのは好き」
「そうなのか。スポーツ観戦とか?」
「そういうのじゃないわ。授業風景」
「ま、わからなくもないな。ちなみに俺も体育は得意じゃない」
「そういう顔してる」
鴻崎はクスリと小さく笑う。そしてまた距離が近づいた。
そうしている間に目的地に到着。保健室前で足を止め、お互いは顔を合わせ、肩を下げた。
引き戸の曇りガラスにかけられた小さなホワイトボードに『出張』と書かれていた。
「出張で不在らしいな」
言わなくてもわかることをわざわざ言うと鴻崎が取っ手に手をかける。
「とりあえず中、入りましょうか」
「いや、ダメでしょ。とりあえず先生に――」
「大丈夫ですよ、後で事情を話せば」
くいくいと袖を引かれ、憚られながらも保健室のパイプ椅子に腰を下ろした。ギシィという音が重なる後ろめたさに拍車をかける。軽く水道で流した傷口から目を逸らし、保健室内を見渡し、スンスンと鼻を鳴らすと保健室独特の、病院と似たような冷たい香りを感じる。気分悪く思わず喉が呻く。
鴻崎は優しい表情を湛えながら勝手に棚から綿と消毒液を取り出した。それらを持ち、羽知の対面に同じくパイプ椅子に浅く腰を下ろした。
「ちょっと沁みるかもしれないけど……大丈夫?」
と優しく言いながら綿に消毒液をしみこませる。
「まぁな。できれば、優しく」
「わかっていますよ」
幸い沁みることはなく、すぐに消毒は終わった。割と単価の高い大判の絆創膏を貼ってくれた。
「これでとりあえずは大丈夫でしょ」
「ありがとう、助かったよ……怒られないか心配だけど」
「言われたら事情を話せばいいでしょ」
「ま、そうだな。よし、そろそろ戻るか」
学校、保健室、二人きり。この状況がそういうシチュエーションを加速させる。
羽知は生理反応で加速する鼓動を宥め、パイプ椅子から立ち上がる。鴻崎を促し、戸に手をかけた。ただその戸を引かなかったのは少し強く袖を引かれたから。そして背中にぬくもりが寄せた。
「まだもう少し、休んでいきません? どうせ、その足では走るのは大変でしょう……」
一声一声発するたびにその手は羽知の体を這う。そしてその毒をもったような手は胸の中心、心臓の上に這う。羽知は息苦しさを感じながら、
「……わかってると思うが、ここは学校だぞ……いつだれが来るか……」
「来ませんよ」
羽知の弱気な言葉に鴻崎は強くそう言い切る。
養護教諭がいない今の保健室にケガの状態が相当ひどくない限り普通面倒で来やしない。
とは言うもの、今はただでさえ怪我のしやすい体育の時間帯。突き指とか捻挫とか、そういう我慢できない怪我をしたら絶対にここに訪れる。そういう危険性が伴うというのに、鴻崎の手はなおも羽知の胸辺りを這う。毒蛇。
「怪しまれるぞ……男女が二人、保健室で抱き合っていたら……」
「いいですよ、私は。誠也君は、嫌ですか?」
「付き合ってもない女子と噂を立てられるのは困る……お互い、困るだろ」
「だってこの前……、……だから、私は困りません。だって、私は誠也君が――」
手が胸を引き、ぎゅむと体がさらに強く密接し、細い腕が深く絡みつく。白く、細く、しなやかな指が羽知の心臓を抉るように。愛おしそうに顔を心臓の裏に埋め鼓動を聴く。そして放った鴻崎の告白は砲声のように確り響いた。
――好きだから。




