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猫男爵  作者: 楓
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真夜中の星空

 寝る前に小説の続きを読もうと思い、リュックから取り出そうとしたとき、しまった、と思った。

 一応中身を確認してみるが、やはりそこに目当ての小説は無く溜め息が漏れた。学校に置いてきてしまったのだ。朝に学校で読んだ後、机の中にしまったきりで今は教科書と共に学校へ置いてきぼりである。

 また明日でいいか、と思ったが明日は土曜日で学校は休みだ。ということは明日も明後日も僕は小説の続きが読めないことになる。仕方ないと諦めれば済むのだが、これから始まる休日のことを思うとこのままなにもせずに眠る気にはなれなかった。

 窓の外へと目をやった。冬の夜だ。暗闇のなかに街の白い明かりが点々と見える。雨や雪でも降っていれば諦めがついたのに。

 仕方なく僕は学校へ本を取りに行くことにした。僕の休日のためだ。たまには夜に一人で出掛けるのも悪くはない。帰りにコンビニに寄ってなにか甘いものでも買おう。

 財布をポケットに入れ込み、黒くて分厚いダウンジャケットを着て外に出た。目指すは学校である。普段は自転車で学校まで向かうが今はなんとなく歩きたい気分だ。たいした距離ではないから二十分くらいで着くだろう。

 さっきまであった微かな眠気が今はどこにもない。冷たい北風が高い悲鳴のような音を鳴らしながら吹き付けてくる。だんだん手先が悴んできたが体の芯は温かい。心地いい寒さだ。

 ぎゅっと詰め込んで建てられたような住宅街をしばらく歩いているうちに、公園や空き地が増えてきて人の気配が一段と薄れる。道沿いに延々と並ぶ街灯の白い光が、先に進むに連れてだんだん暗くなっているように見えた。

 道を線路が両断している。目の前には踏切があるが、動く気配がなくなんだか死んでいるみたいだ。この踏切を渡ると辺り一面を畑が覆う田舎の風景が広がる。ずっと続いていた街灯は踏切のところで途切れていて、この道の先に明かりはどこにも見当たらない。唯一あるのはぼんやりとした頼りない月明かりだけである。

 悠然とそびえ立つ大きな鉄塔が畑の中に等間隔に並び、鉄塔と鉄塔の間を電線がだるそうに繋いでいる。

 奥の方に砦のような灰色の大きな建物が見える。僕の通う学校だ。暗い夜でもこの学校の存在ははっきりと分かる。月明かりに照らされた学校は、砦というより教会のような神聖な場所に見える。

 畑が広がるこの道では北風がかなり強まり、体が一気に冷え込んでお風呂が恋しくなる。しかし、今僕が向かっているのは風呂のある我が家でもなければ温泉のある宿でもないし銭湯でもない。

 そのうち自分がどうして夜中にこんなところを歩いているのか分からなくなってきた。学校に着いたところでこの時間だと門は閉まっているだろうし、少なくとも校舎には入れないはずだ。もう小説とかどうでもよくなってきた。どうして僕は本を取りに行こうと思えたのか。

 それでも僕は意味もなく歩みを進める。ここで引き返すのは勿体ない気が確かにするのだ。しかし、よく考えてみればここまでの行動が無駄で勿体ないのであって、さらに学校へと歩を進める僕の行動は勿体ないを軽くするどころか勿体ないに勿体ないを足しているだけの非常に勿体ない行動なのだ。

 僕が延々、勿体ない勿体ないと呟き始めた頃、ようやく学校に着いた。三十分程度しか歩いていないくせにまるで雪山を登りきったような気分になる。

 そして案の定、門は閉まっていて鍵も掛かっている。学校に着いたって風の強さは変わらないし体は冷える一方だ。

 帰ろう。早くコンビニに行って熱々のおでんを買って頬張りたい。勿体ないとかそういうことは考えないことにした。

 僕がおでんのために震える体を再び動かすことを決心し、来た道を帰ろうと後ろを振り向くと、一人の若い女が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。

 おそらくうちの学校の生徒だ。学校の制服にグレーのパーカーを羽織り、スカートの下には紺のジャージを履いているがきっとそれでは寒すぎるのではないだろうか。長い黒髪が大袈裟に揺れている。

 なぜこの女は僕に向かって走ってくるのか。僕に女子の友達は居ない。

 正直、今すぐに走って逃げ出したい思っている。夜中に知らない女が僕に向かって走って来るのだ。下手したら殺されるかもしれない。絶対に逃げた方がいい。

 しかし、どういうわけか体が一歩も動かない。まるで女があの鋭い目付きで僕を金縛りにかけたようである。女は立ち止まることなくどんどん近づいてくる。

 しかし、女は僕のすぐ横を颯爽と通り過ぎて、学校の黒くて頑丈そうな門をそのまま軽快に飛び越えた。

 え、そっち? 僕に何か用があるわけではなかったのか。勘違い。遠くで知人が僕に向けて手を振ってきたから手を振り返したら実は僕に向けて手を振っていた訳ではなかった時のような、周りをきょろきょろと窺いたくなる気持ちになる。

 「君、学校に用があるのではないのか」

 門の向こうで女がこちらを真っ直ぐに見て、はきはきとした声で言った。暗くて顔がよく見えない。

「はいっ、そう、なんですけど」

 まさか話しかけられるとは。思わず敬語を使ったがこれで正解だったろうか。

「ならばさっさと入ればよいではないか」

 なんだか変な喋り方だなと思いながらも、この女の言葉に僕は決心がついた。女は躊躇い無く門を飛び越えていった。その行為は許されないものだと思っていたが、そこまでたいした行為ではないのかもしれない。

「先に行っているぞ」

 女はそう言って門の向こうの闇の中へと歩いていった。別に一緒に行動してるわけではないが、なぜか追い付かなくてはと思い慌てて門を越えて女を追った。

「私と少し、付き合ってもらう」

 女は走ってきた僕を見てそう言った。少し笑っているように見える。なんにせよ言葉の意味が理解できない。

「いや、僕は教室に用があるんですけど」

 女は僕の言葉を最後まで聞くことなく勢いよく走り出した。どうすればいいのか分からず、とりあえず跡を追うことにした。

「君は教室に用があるらしいな」

 走りながらも、落ち着いた声で女は僕に話しかけてきた。

「昇降口は開いていない、私が唯一鍵が掛かっていない場所へ案内しよう」

「あっ、ありがとうございます」

 いや、ありがたいけども、どうして走る必要があるんだ。とはなかなか言い出せない。

「用が済んだら私に付き合ってもらうからな」

「はあ」

 この女、完全に楽しんでいる。何が楽しいのか分からないが声のトーンが明らかに高くなった。昂る気持ちを抑えきれない無邪気な子供のようだ。

 僕はこの女を頼れる先輩だとイメージしていたがそうではないみたいだ。あの独特な喋り方によくわからない行動、そしてどうしてこんな夜中に学校にいて唯一鍵の掛かってない場所を知っているのか。確実に変人だこの女は。このままついていって大丈夫なのだろうか。

 そもそもどうしてこうなったんだ。僕は学校に忘れてきてしまった小説を取りに来た。しかし学校に入れずに諦めて帰ろうとしていたのだ。そして今、初対面の女と夜中に学校内を走り回っている。あまり現実味が無い。

 とりあえずさっさと用事を済ませて帰らなければ。先生にバレたらと思うと、気分が重くなる。頼むからそんなに堂々と自信満々に走り回らないでほしい。

 女と僕は金属で作られた螺旋状の階段をガンガンとうるさい音をたてながら勢いよく登っていった。この階段は校舎の外壁に取り付けられていて、二階の数学準備室と直接繋がっている。つまり、この階段は数学科の教師専用の階段であって決して生徒がこんな夜中に利用していいものではない。もう帰りたくて仕方がなかった。

「ここの教師はいつも戸締りをサボるのさ」

 女は得意気に呟いて、数字準備室に繋がる扉を遠慮なく開いた。僕はこの女の行動にいちいち心臓をびくつかせている。まだ先生が中にいたら大変なことになるということが分からないのだろうか。

「私は職員室に寄るが君は教室に行くだろう」

「そうします」

「ではまたあとで合流しよう」

 女は薄暗い階段を落ちるようにすらすらと降りていった。職員室になんの用があるのだろうか。

 さて、一人になった。黙って帰ってしまおうかと思ったがここまで来て小説を取りに行かない訳にもいかない。

 誰も居ない廊下は暗い青に染まっている。物音が全くしない。時が止まっているみたいに静かだ。

 どうしてもこういう状況になると妙な事を考える。夜の学校に一人。できればなりたくない状況であったが、もともと一人で教室まで行くつもりだったのだ。まさか、怖いだなんて思ったりはしないが、さっきからそこらじゅうに誰かの気配を感じるのが、少し、少しだけ不気味に思う。廊下の窓に自分の不安そうな顔が映りこんだ。あの女は、一人になろうと無邪気に走っていることだろう。こんな顔は、していないのだろう。

 僕が自分の教室にたどり着いて目当ての小説を机から取り出したとき、女が教室の扉を勢いよく開けて入ってきた。声が出そうになるほど驚いたが普通の顔を心がける。

「君は本を忘れたのか。大切な本なのか?」

 女が僕の持っている小説を見て尋ねてきた。

「いや、続きが気になっちゃって」

 なんだか恥ずかしい気分になる。休日に本を読むために夜の学校に忍び込むなんて相当な暇人だと思われていないだろうか。

「そうか、では行くぞ」

 女はそう言ってまた廊下に出て走り出した。どうして走るんだか。本のことは聞いておいてさほど興味は無いらしい。もう帰りたいとは言い出せずに仕方なく跡を追う。

 そういえば、女はなぜ僕のいる教室まで来れたのだろうか。女に僕のクラスを伝えた覚えはない。

 静かな廊下にバタバタと忙しい足音が響く。女がやたら走るのは静けさを掻き消すためなのかとふと思った。

 どうやら屋上に忍び込むらしい。いくつもの階段を駆け足で登っていき、屋上の扉の前に着く頃にはすっかり息が上がってしまった。部活かこれは。

「屋上はだめじゃないですか。鍵も掛かってるだろうし」

 僕は息を整え、女に不安な気持ちをのせて言った。女はなんともない涼しい顔をしている。

「鍵ならさっき持ってきたぞ」

 職員室から盗んできたらしい。女は扉の鍵を開けながら続ける。

「それに屋上に行ってはいけないと言われた覚えはない」

 屋上は鍵が掛かっていて行けるはずがないのだから、いちいち屋上に行くなと言っておく必要が無いのだ。

「盗みは、まずくないですか」

「鍵か? 返しておけば問題ない」

 正論を言ったつもりなのだがこの女には通用しない。正論は常識のある人同士でなければなんの意味も持たないらしい。僕は疲れてしまっていて、自分が怒られなければ正直どうでもよかった。

 女は待ちきれないという様子で、重たそうな扉を思い切り押し開けた。キィと高い音が響き、冷たい空気が辺りを颯爽と通り抜けていく。

 なにかに導かれているかのような気分だった。さっきまであった大きな不安と小さな反感が冷たい風にあっさりと持っていかれてしまったようだ。今あるのは小躍りしたくなるような高揚感だけである。

「どうだい君! 綺麗だろうこれは」

 女が屋上の柵に手をかけて身を乗り出して笑っている。

「綺麗な星空です」

「そうだろう! そうなのだよ!」

 女は空のあちこちを指差して大声で叫んでいる。

 僕の頭上を覆っているのは綺麗な星空だ。僕の中の綺麗な星空という風景のイメージをこの光景が一瞬で塗り替えた。それは風景というにはあまりに目立ちすぎていて、あまりに遠すぎるように思えた。

 僕の中から、噴火のように勢いよく吹き出してくるものがあるのを感じた。この気持ちはなんだろうか。今ならこの勢いよく吹き出す感情と共に、あの星の奥までロケットみたいに飛んでいける気がする。

 自然と笑顔になっていたが、それだけでは溢れだす感情を発散しきれず、かといって心の中に留めておくことができるわけもなく大きな声で笑ってしまった。まるで面白いコントを見て笑うかのように爆笑してしまった。

「変わったやつだな君は! 星を見て爆笑はないだろう!」

 女が爆笑しながらこちらを見る。

 月明かりにはっきりと照らされたその顔はどこか見覚えがある気がした。

  






 あの夜は夢だったのではないかと今では思う。夢の記憶なんて一日ももたずに忘れてしまうのに、どうしてもあの夜の夢だけはいつまでも忘れることができない。




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