第32話~ドジ猫~
~神楽坂・神楽坂~
~海鮮居酒屋「こでまり」 神楽坂店~
「「いらっしゃいませー!」」
17時の開店と共に入ってくるお客さんを、ホールスタッフの元気な挨拶が出迎える。
神楽坂は新宿区の中でも落ち着いた風合いを残す町並みが多いせいか、裕福そうな人々が多いようだ。この時間からも結構な人数が入店してくる。
平泉とサレオスが、それぞれ四名ずつのお客さんをテーブル席へと案内していく。カウンターに立つ山本がそれを確認すると、僕の方へと身体を向けてきた。
「早速8名か。今日もいいスタートだ。マウロ君、お通しの用意をお願い。12個ね」
「12個……?あれ、でもお客さん8人ですよね?」
「そうなんだけど、一応ね」
なんともはっきりしない山本の口ぶりに僕は首を捻りながらも、冷蔵庫の中から小鉢に入れられた豆腐を取り出す。
今日のお通しはあんかけ冷奴だ。エノキダケを加えたショウガ風味のあんかけをおたまで掬い、豆腐を崩さないようにそうっと、かつたっぷりとかける。これを12人分。
お店の風合いが違うから、陽羽南のお通しよりも手が込んで上品な質感だ。このあたりのカラーの違いも、店ごとに打ち出しているのだろう。
手元に小鉢を4つ残し、お盆に8つのお通しを乗せる。そして厨房入り口の台に置いて声を張った。
「えっと……21番さん23番さん、お通し4出ます!」
「はいよー!」
陽羽南の時とはテーブルの呼び方も声かけの仕方もまるで違う。事前に教わってはいたが、やはり脳味噌がすぐには付いてきてくれなかった。
十文字がお盆を取ると、平泉が席に通した23番テーブルに、まず4つのお通しを置く。次いでサレオスが席に通した21番テーブルに向かった、その時である。
何かがぶつかるドスンという鈍い音と、ガチャンという音がした。
「わわっ、お客様も十文字さんも、し、失礼しました!」
何事かと21番テーブルの方に目をやると、床に這いつくばっているサレオスと尻もちをついた十文字、そしてお盆の上でぐちゃぐちゃになったお通しのあんかけ冷奴が見えた。
お客様のテーブルの傍で、サレオスが転んだか何かして、十文字にぶつかりでもしたのだろうか。
一部始終を見ていた山本が、小さく肩をすくめた。
「あー、やっぱりね。そうなるだろうと思った。マウロ君、残りのお通し4、21番さんに持っていって」
「は、はい」
山本は全く意に介さないまま、僕に指示を出す。後ろでビールをジョッキに注いでいる能代も、全く動じない。まるでいつもの光景であるかのようだ。
僕は首を傾げながらお通しの小鉢をお盆に乗せて厨房を出る。それと入れ替わりに、汚れたお盆と駄目になったお通しを持って、サレオスが厨房に戻ってきた。
意気消沈した様子のサレオスの表情をちらと見つつ、僕は21番テーブルへとお通しを運んでいく。事前に聞いていた通り、軽く頭を下げてから小鉢をテーブルに置いた。
「お待たせいたしました、お通しのあんかけ冷奴でございます。先程は、失礼をいたしました」
「ん?あぁ大丈夫大丈夫、さっきのサレオス君のあれならいつものことだから。気にしなくていいよ」
「……?かしこまりました、ありがとうございます」
お客さんの側も笑って済ませてくださった。その様子を見るに、本当にいつもの風景なのだろう、あのドジぶりは。
僕はもう一度お客さんに頭を下げると、厨房へと戻る。その背後で21番テーブルから談笑する声が聞こえた。
「あのドジ猫ぶりも可愛いもんなぁ、サレオス君は」
「瑕疵が無いのが理想だけど、ああいう瑕疵なら可愛いものだしなぁ」
なるほど、お客さんの側もサレオスのドジは織り込み済みなようだ。しかしそれほどまでにお客さんに認知されるほどのドジとは、一体。
パスティータもうっかりやでドジだけれど、それを超えるのか、と思いながら厨房に戻ると、厨房からガシャンと大きな音がした。
何事かと駆け寄ると、サレオスがシンクの前で涙目になっている。シンクの中にはパックリ真っ二つに割れた、お通しを入れていた小鉢。どうやら洗っている最中に落として割ったらしい。
能代がビニール袋を片手にサレオスに近づく。
「サレオス、危ないから手を洗ったら下がって。そのまま生ビール運んでくれる?」
「は、はいぃ……すみません……」
至極淡々と片付けにかかる能代の後ろで、サレオスは手を抑えて涙を目に一杯溜めている。
抑えられた黒い毛皮の隙間から、血が滲んでいるのが見えた。僕は彼の傍に寄ると、その手の上から自分の手を重ねた。
「サレオスさん、指怪我してますよね?ビールは僕が運んでくるので、絆創膏とか巻いてきてください。23番さんですよね?」
「あ……すみません、マウロさん。ありがとうございます」
頭を下げるサレオスに、僕は微笑みを返してサーバー前に置かれたビールジョッキを掴んだ。厨房を出てバックヤードに戻っていくサレオスの後からホールに出て、ビールを運ぶ僕。
バックヤードに向かうサレオスの背中で、尻尾がゆらりと揺れた。
その後もサレオスのドジは留まるところを知らなかった。
焼いていたアジの干物を焦がしてしまったり、あら汁を運ぶ時にこぼしてしまったり、刺身に盛り付けるワサビを盛りすぎてしまったり、カード決済をするお客さんのカードをなかなかリーダーで読み込めなかったり、などなど。
パスティータのドジが「間違える」類のドジだとしたら、サレオスのドジは「失敗する」類のドジだ。カバーが出来なくもないけれど痛いドジである。
その度に慣れた手つきで、高清水や山本や十文字がフォローに回る。この一日の営業時間内で、何度も見た流れだ。
何と言うか、この店で働き続けていけるのだろうか、と不安になるくらいのドジっぷりだ。よく受け入れられているものである。
「はぁ……」
営業時間を終えて片付けを済ませた後、そんなサレオスがバックヤードの椅子に座ってがっくりと項垂れていた。
あれだけ失敗を重ねていてピンシャンしていたらそれはそれで不安になるものだが、こうあからさまにがっくりしているのも不安を掻き立てられる。
僕は着替えを済ませてから、後ろからサレオスの肩をぽんと叩いた。
「お疲れ様です、サレオスさん。大丈夫ですか?」
「あ、マウロさん……すみません、ありがとうございます。僕は大丈夫です」
肩を叩いた僕の顔を、椅子に座ったサレオスが見上げてくる。
僕は椅子の背もたれに手をかけながら、ずっと気になっていた質問を投げかけた。
「サレオスさん、いつもああなんですか?」
僕の質問に目を伏せたサレオスだが、こくりと頷いた。
視線を足元に落としたまま、ゆっくり口を開く。
「お恥ずかしいことに……僕、日常的に失敗を繰り返してしまっていて。仕事中はお客さんも社員の皆さんもフォローしてくれていますけれど、やっぱり申し訳なくて。
社長に料理の腕を買われて正社員雇用してもらいましたけれど、こうまで失敗が日常的に繰り返されると、つらいなと……」
サレオスの言葉に、僕は深く頷いた。
パスティータも常々言っているが、ドジや失敗をして周りにフォローされても、そのフォローされる事実が辛かったりする。
本人もそのつらさ、失敗することの損害はよく分かっているから、改善しようと努力するわけだが、その努力の過程でまた失敗するので、堂々巡りになってしまうのだ。
そして、彼を慰めようと口を開こうとした時、サレオスが再び口を開く。
「やっぱり、魔力が欠乏していると思う様に身体が動かせなくて……本来の力も失ってしまいましたし……
早く魔界に帰りたいです……」
サレオスの独白に、僕は口から出そうになった言葉をぐっと飲みこんだ。
魔界。悪魔と魔神が跋扈する、魔力と混沌と狂気が支配する世界。少なくとも僕はそう聞いている。
彼は、サレオスはそこに帰りたいと言った。つまり彼の正体は。
「……サレオスさん、悪魔だったんです?」
「はい、まぁ……一応は」
申し訳なさげに頭を掻くサレオスに対し、僕は瞠目した。
眼前にいる彼からは魔力の要素は感じられない。悪魔らしい傍若無人ぶりも無く、紫色の瞳には力が無い。
呆気に取られる僕をそのままに椅子から立ち上がったサレオスは、立ち上がっても僕より頭一つ分くらい低い位置から僕の顔を見上げて口を開いた。
「マウロさん、ソロモンの悪魔って聞いたことあります?」
そう告げるサレオスの大きな垂れ目に、ゆらりと怪しい光が灯るのを、僕はじっと見つめていた。
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