呼び名だけで恋人感増々
何とか加納を着替えさせ、バイトに向かう事ができた。
電車で行くには、ちょっとばかり遅刻しそうだから、タクシーを呼んだ。
緊張する加納、空気を変えようと下の名前を聞いた。
「美しい幸で美幸って言うけど。」
「美幸か、周りはなんて呼ぶんだ?」
「加納って呼ぶよ。」
「そうか、俺だけの呼び名が良かったんだけど、そうだな、ミユキってどうだ?女みたいで嫌か?」
俺だけの呼び方ってのが嬉しかったのか、嬉しそうに、
「そんな事ない!」
と、食いついてきた。
ミユキが嬉しそうでなによりだ。
いい感じで緊張もほぐれたみたいだ。
少し過ぎたぐらいの時間に店の前につけらたので、急いで裏口に回る。
「すみません、遅くなりました。直ぐに着替えてきます。」
俺の後ろで申し訳なさに俯くミユキを連れ、控え室に入った。
「お疲れ、遅かったな?一仕事でもしてきたか?」
「ごめんなさい。僕が色々と・・・。」
色々とやらかしたミユキは、言葉尻が消えていった。
「すまん、ゆっくり夕飯を食べてたら遅くなった。」
俺は、気にするなと、一海の前の席に座らせ、頭を撫ぜた。
一海は、「何があったの?後でこっそり教えてよ。」と、囁いている。
先に着替えた龍也が扉を出ていったのを見て、ミユキがごめんなさい。と俺にまた、謝る。
何度、気にするなと言ってもダメなんだろう。
ミユキの気にし過ぎや自信のなさは仕方がないと今は諦めてる。少しづつ変わっていけばいい。
「一海、後は頼むな。」
「ミユキ、ゆっくりしてろ。一海の勉強頼むな。」
頭のてっぺんにキスを落とし部屋を出る。
後ろで、一海のピンクな悲鳴が聞こえたが聞こえないフリをした。
「控え室で凄い声がしたが、何したんだ?」
一海の声が聞こえたのか、龍也が訝しんで聞いてきた。
「何もない。」
「そうですか。了解。」
と掃除を再開したが、「後で一海に聞いてやる。」と呟くのが聞こえてる。
アキラさんまでが興味津々の表情なのが、不安しかない。
龍也はボーイとして、俺はいつも通りカウンターの中で仕事をしていた。
静かに流れるBGMのジャズの調べ、櫻井さん、と亮さんが常連さんに話題とカクテルを提供する心地よい声とシェーカーの音、マドラーと氷が立てる軽やかな音がカウンターを満たす。
俺の好きな空間、過ぎてゆく時間、どれもが俺の心の安らぎを生み、知識をも与えてくれる。
客層も入れ替わる時間、遅番の翔さんが控え室からカウンターに入ってくる。
「ヒロ、もう一人の可愛い子、誰の?」
と、控え室を指差しながら尋ねてくる。
「俺です。手を出したら許しませんよ。」
「了解です。誰のかだけ聞いただけじゃん。そんな怖い顔しないでね。」
翔さんが入った事で、亮さんがカウンターから俺たちに指示が飛ぶ。
「ヒロ、龍也、休憩に入れ。」
片手を上げるだけで了解の意を示す。
俺と龍也が控え室に入ると、すかさず、一海が「お疲れ様」と声をかける。
ミユキが慌てて同じように「お疲れ様」と俺を眺めながら頬を染め言う。
可愛いくて思わず顔を逸らしてしまった。
そんな俺の態度にミユキが悲しそうになったのを、一海が猛然と抗議してくる。
「ヒロさん、その態度は無いんじゃないですか?」
「いや、すまん。」
謝った俺が柄にもなく赤い顔をしているのを目敏く龍也は見つける。
「一海、怒るな。ヒロは照れてるだけだから。ミユキだっけ、可愛いもんな。」
「あっ、そうですよ、いつの間に名前。」
自分達はなんて呼びましょうとキラキラと目を輝かせるから。
ミユキは、お好きな様にと言うしかなかった。
内心、俺だけの呼び名が・・・と少し落ち込んだ。
ミユキも同じだったのか、少し残念そうではあった。
休憩に入った俺たちは、机の上に置かれた、シュークリームに手が伸びる。
「翔さんから?」
「うん、姉さんが持って行けって言われたんだって。」
「これ、中々買えないと噂のじゃないか?」
俺が珍しく甘い物を食べながら嬉しそうにしてるのが不思議だったみたいだ。
ミユキがポカンと俺の食べる様子を見てるのを龍也が気づき説明をしている。
「珍しいだろ、ヒロはカスタードクリームが大好きなんだよ。だから、スタンダードなシュークリームが好物。」
隣で一海も頷いてる。
「ミユキも食べるといい。甘いのは好き?」
シュークリーム以外にテーブルには、二人が数学をしていたみたいで、教科書とノートが置かれていた。
「僕たちも休憩!」
と、一海が二つシュークリームを取り、一つをミユキに渡している。
「捗ってるか?」
俺が、シュークリームを頬張るミユキに勉強の状況を聞くと、嬉しそうに頷いてる。
「一海さん、覚え早いですよ。」
そんな事ないと一海は照れているが、多分本当だろう。
解き方さえ解れば、応用も何なくこなしているみたいだ。
「ミユキさんの教え方が上手いんですよ。」
何故か、一海が自慢げに言うから、龍也が「一海がバカでなくて良かった。」
と、いらぬ事を言うから拗ねて龍也を困らせている。
そんな二人を見て、ミユキに笑顔が戻っていて安堵し、嬉しい。
何を隠しているのか解らないが、時々悲しそうな表情を浮かべるミユキ。
いつか、話してくれると嬉しいのだけど、もっと一緒の時間が増えたらきっと、そんな事を考えながら、龍也の言い訳が終わり、一海と楽しそうに話すミユキを眺めていた。
「笑顔が見れて良かったな。」
隣に来ていた龍也も気にしてくれていたのかと、俺も嬉しく笑顔で「あぁ、ありがと。」と答えた。