あるギフテッドの見た世界
カズオは、ギフテッドだった。
それゆえ、彼が見た世界は、普通の人が見る世界とは異なって特殊だった。
カズオは若い頃、自分がギフテッドであることを知らなかった。
彼は、自分が賢いのだと誤解していた。
彼は、自分から見える世界こそが真理なのだと、誤解していた。
実際には、彼はギフテッドだったから、エリート層が持っている知性をより多く持っているのではなく、全く奇形の知性を持っていたのだった。
彼は、自分が持つ認知を誰か一人でも共有してくれるよう願ったが、現実には、彼の認知を共有できる人など存在しえなかった。
彼は、自分が心地よく生きられる場所を社会に見出すことができずに、悩み苦しんだ。
彼は、偏った知性を持ち、偏った真理を見ていて、そのことが彼を苦しめた。
彼はいつも、生きる理由を探していた。
例えば、飛行機が大好きな子供が、飛行機の美しさにどれほど深い喜びを見ていることだろう?
カズオは、彼の特殊な知性の方向に、神々しいほどの美しさを見ることで、生きる理由にしていた。
カズオは、愛と正義のために死ぬことに、恐怖よりも美しさを見ていた。
カズオには、生まれた家の家族が全員、重度の知的障害者だとしか思えなくて、それがとても嫌だった。
カズオには、通った学校の生徒が全員、重度の知的障害者だとしか思えなくて、それがとても嫌だった。
カズオには、勤めた会社の同僚が全員、重度の知的障害者だとしか思えなくて、それがとても嫌だった。
実際には皆は普通であって、彼こそが重度の知的障害者なのだった。
彼は、愛と正義を深く愛して、同じ分だけ、人並みの利己心を嫌悪した。
彼はとても、普通には生きられなかった。
社会において人並みに生きる力を持たないことにおいて、彼は疑いもなく障害者であった。
普通の人の一言一言が、とても愚かでとても邪悪に聞こえた。
振る舞い一つ一つが、そう見えた。
発想の一つ一つまでが、生理的に受け入れられなかった。
カズオは、自分だけが特別に美しい存在なのだと考えた。
そして自分以外を、倫理的に汚れた存在だと見なした。
それこそが、彼というギフテッドにおける「過度激動」の、「積極的分離」の表れであった。
ギフテッド理論における「過度激動」仮説では、ギフテッドは先天的に、何らかの過敏な神経を有しているとされる。
そしてその過敏な神経が、彼が世界を知覚する方法に特殊性をもたらしており、そのことが、幼児期のみならず生涯を通して彼の人生体験をひどく特殊にする。
一般的ではない特殊な人生を歩む人が、一般的な生き方を離れていく過程は、「否定的分離」と「積極的分離」として説明される。
否定的分離においては、一般的な社会は必ずしも否定されず、自分自身をしばしば敗者と見なして、甚だしければ自殺に至る。
積極的分離においては、一般的な社会に矛盾を見て不満をいだき、精神的苦痛を感じて悩むが、より高い視点を追い求め、より好ましい社会像を願望する。単純な敗者ではない、この「積極的分離」が、ギフテッドと結びつけられる。
例えば、社会を非常に理想的に改革することを願う人は、そう願わずにはいられない人であり、なぜそう願わずにいられないかと言えば、先天的な神経の特殊性が「過度激動」をもたらすからである、とされる。
過度激動には様々な種類があって、退屈嫌い、神経質、空想力、論理的思考、深い共感、などで特徴づけられる。
生きていくためには、適度な鈍感さは不可欠だが、過度激動を持つ人々は過敏である。
しかし、様々な出来事に対して、感情的に深く苦しむのと同様に、深く喜びもする。
普通に見ればどうでもいいことに深く悩み、普通に見れば何でもないことに喜んで嬉しがる。
ギフテッドは、社会生活において様々な精神的ストレスを感じやすい。
それゆえに、孤立しやすく、結果的に、一人でいることを好みやすい。
そのことは、人生の意味の不在に対する失望などを通して、精神的な鬱状態を招きやすい。
それに対する、ギフテッド理論における基本的対策は、興味や能力の近い者同士で関わり合うことである。
すなわち、彼という異端がさほど異端ではない社会を求めることである。
しかし、その仕組みに欠ける社会や、そもそも異端である程度が甚だしい場合には、そのように仲間を得ることも難しいだろう。
カズオもまた、彼の生きた世界において孤独であった。
ギフテッド理論は、教育学における理論であって、より望ましい教育のあり方を模索するものだ。
ギフテッドであることは、そうではない単なる優秀性と対置される。
優秀な子供は、普通の教育でそれなりに問題なく育てることができる。
つまり、最も標準的な知性の尺度を考えて、一つの軸による知的水準を用いて、高度な教育を施せばそれで良い。
ギフテッド理論は、その方法ではすくいきれない才能を救済し、あるいは活用しようというものだ。
知性の多様性に目を向けることで、より豊かな社会を目指す。
制度の画一化が天才を刈り取ってしまうことを避ける。
しかしそのことは、筆記試験による絶対的な客観的公平性の追求に、波乱を起こしもする。
ギフテッド理論は、天才の性質を論じようとする。
そこでは、共通化された価値観に対して、才能がひどく反発することが言及される。
例えば、彼らにおいては、標準的なテストのための標準的な学習について、興味が持てないあまりに大いに苦痛を感じ、興味が持てる問題領域への傾注が、標準的な成績における「低達成」を生む、という構造が言われる。
そして、才能に欠ける者として彼らを切り捨てることが、むしろ、その問題領域に関する真なる才能を切り捨てる結果になると危惧される。
しかし、そんな救済を不足なく行うことは、ずっと将来になって可能かどうかだろう。
カズオが生まれた国ではなおさら、ギフテッド研究なんて進んでいなかった。
彼の祖国は、過去の敗戦の特殊なしがらみによって、先天的能力についても人間の尊厳についても平等主義を徹底させていた。
授業中に授業に集中していないにも関わらず試験では高得点を得るカズオを、教師は褒めるよりも憎んだ。
だから、疲弊したカズオが試験で低い成績を取った時、教師は大喜びで喧伝した。
彼の国にはギフテッド教育なんて存在してなくて、そんな学校に行くことを、カズオはやがてやめた。
二流の脳味噌と同じ空気を吸っていたら二流の脳味噌になってしまうよ、と彼は言った。
カズオは孤独だったけど、孤独が好きなわけではなかった。
親や学校や職場から評価され、友人や恋人に愛されて、子供や孫に慕われる人生を望んだ。
人々と同じようにそれを望んだ彼は、あるいは過度激動によって、人々よりも深くそれらを望んでいたかもしれない。
しかし、彼は、社会の既存のあり方にあまりにも矛盾を見た。
彼は、平凡な社会の中に生きることに、とても満足できなかった。
彼は、愛と正義の理想を望んだ。
しかし、そんな彼の生き方は、評価されること、愛されること、慕われることと、常に鋭く矛盾した。
その時、彼は、愛と正義のために孤独に立ち向かうことを肯定せねばならなかった。
ゆえに彼は、孤独を誇った。
彼は、真に尊い人は必ず孤独である、と考えた。
しかし、義を選んで、愛する人を遠ざけた時、心は引き裂かれたかのように痛んで、その痛みは決して癒えることがなかった。
ギフテッドであったカズオには、自分には簡単にできることが、自分以外には決してできないことが、どうしてもわかりにくかった。
自分には簡単に見てとれることが人々には見てとれないことが、わかりにくかった。
カズオには、社会はあまりにも非効率に見えた。
家族を見ても、集団を見ても、国家を見ても、少し互いを思いやって暮らすことが、人々の日々の幸福を飛躍的に改善するように見えた。
そうであるのみならず、既存の状況を放置することが、人々の幸福の破滅に決着するように見えてならなかった。
つまり、科学技術の飛躍的な進歩に対して、人間精神の発達があまりにも遅いことが、結果的な破滅に至るものと予想されてならなかった。
だから彼は、その事態を改善する方法を考えることに気持ちを奪われて、普通に生きることができなかった。
自分が普通に生きる人生は、生きる価値のない無意味な人生だと思えて、そう思わせる過度激動から逃れられなかった。
しかし、実際に無意味だったのは、カズオが選んだ人生のほうだった。
カズオは自分がとても優秀だと思っていたから、正規分布の裾のほうへと高く登れば、やがては巡り合うべき仲間達が待っているのだと期待していた。
しかし実際には、彼は優秀なのではなくて、全く奇形な異端者だった。
彼は、世界を変えたいと心から思って生きたが、その志を理解する他者が現れることなどありえなかった。
だから、彼が行った努力は、初めから全てが無駄だった。
幼少から絶えることなく心を晒してきた煩悶、過度激動による精神的苦痛は、有益な成果を何一つもたらさなかった。
彼が徹底して自分自身に厳しかったことは、結果として、彼自身を徹底して不幸にしただけであった。
彼はいつも、自分を愛してくれる他者を願望した。
自分を高く評価してくれる親や学校や職場、深く愛してくれる友や妻、慕って離さない子供と孫ら。
愚かで醜悪な現実とは異なる、自分が真にふさわしい場所。
自分を産んだ本当の両親、自分と愛し合う人々が暮らす本当の祖国、自分が帰るべき天の星。
そこに帰りたいという内発的な欲求の強さが、そのような理想郷の実在と、そこに帰りつく運命とを強く示唆している気がした。
そして、そんな理想郷を現実そのものに実現させたくて、諦めきれずに煩悶しつづけた。
カズオは、正直で謙虚であることを愛していた。
そのように生きることが、いつか真に報われると狂信していた。
しかしそのことは、何の評価もされなかった。
社会においては、どこまでも食い物にされて損するだけだった。
いくら損をしても、正直で謙虚であることをやめられなかったカズオは、現実を生き残ることができなかった。
カズオ自身は、自分が賢いと思っていたから、そんな生き方に普遍的な価値があると信じたがった。
しかし、実際には彼はギフテッドであったから、そこにはどうというほどの普遍的な価値も存在していなかった。
正直に接したなら正直にしてくれる人、謙虚に接したなら謙虚にしてくれる人を、カズオは願望したが、日常に適応している人々にそのような柔軟性は存在せず、そんな人は実在しなかった。
彼はただただ、馬鹿にされ、利用された。
老年を迎えたカズオは道端で偶然、若い学生達がギフテッド理論について議論しているのを聞いた。
まるで、自分について話しているようだった。
そうして彼は、自分がギフテッドであったのだろうと気がついた。
彼はすでに年老いてしまっていたが、ただ病名が与えられたことによって、背負った荷物の重さがずっと軽くなったように感じられた。
自分自身をギフテッドだと理解してくれる人がありえないとしても、ギフテッド理論が社会に存在することが、精神的な意味での居場所をくれた気がした。
いつもどこかに生まれ落ちるであろう、自分に似た子供達が、自分よりも幸せに生きる可能性を思うことができた。
人々に反発し人々を否定してきた迷いと悲しみが、努力で選ぶことはできない運命だったとされて、恐れてきた責任から許された気がした。
いつ始めたのかもわからない、たった一人の孤独な戦争が終わった。
その日見上げた空の美しさは、誰もが見上げる空の美しさだった。
カズオはゆっくりと病室に戻り、穏やかに眠りについて、再び目を覚まさなかった。