忘我とは
それは狂気か。
目を覚ますと男は、くるぶしほどの背の高さの硬い草が茂った大地に倒れていた。
直ぐ近くには見覚えのないひとびと。いや、おぼろげだが記憶にある顔、姿が幾人かあった。だがそれもいまや完全に忘れた。
男は言葉さえ忘れた。というより男だけでなく皆一様に言葉が通じていないように見えた。口を利くものもなく唸るばかりだ。
こいつらは、何のために生きているのか。
ひゅうひゅうと寂しい風が黒い大地を叩き、頼りなさげな炎がボロをまとった連中の目線の先で揺れている。
普通、火にあたるのだから円になって囲めばいいのに皆まばらで、随分と遠くに寝転がって、手足をばたばたさせながらうめいている非道い状態の連中が5,6人あった。
炎は悪魔の舌のように休みなく上にかかった鍋の底を懸命にチロチロなめている。
中身はなんだろう。男が鍋に近づくと食欲をそそる匂いがした。何もかも分からなくなった男だが、この鍋だけが生き生きとした人間性を保っていることが分かった。
男が誰にも断りをいれず勝手に鍋の中身を取り出し、皿に注いでも誰も咎めない。皆、食欲がないのか、あるいはもう何もする気力がないのか無関心に寝転がっている。
やがて火が尽き、次に鍋の中身のスープが冷め、カラスが喚き出すころ、男はひとり立ち上がって記憶の端を掴んで歩き始めた。
あれが合図だ。カラスの鳴き声だ。ここを離れなくては。それひとつだけようやく思い出した。
風が強まり、ごうごうと音を立てて男の耳を叩いた。
しばらく男がひとりで歩いていると後ろから、やにわに誰かの悲鳴が上がった。
男は、騒がしい世界を、ただ歩く。
人のいない世界というものは、断じて静謐な場所ではない。虫の鳴き声、獣の気配、風の音。都会のビルの中よりよほどうるさいのだ。
この荒野もそうだ。そこここから何かの気配がじっとしている。だが、男は立ち止まらずに歩き続けた。
その乾いた音の狭間に、男は人間の声を聞いた。何人か連れ立って歩く一団が、男のすぐ後ろに姿を現した。
もう会話という行為の意味すらおぼろげな男だったが、先の一団に比べ、彼らが正常な人間なのだとなんとなしに理解した。
しばらく男とその集団は、一緒に歩き続けた。
次第に景色は変わり、今度は果てなく鳥の骨がうず高く並ぶ奇妙な場所に辿り着いた。
一歩踏み出すと骨が砕け、よろよろと体勢が崩れた。男も一緒に歩き続ける一団も何度も倒れ、何度も声を上げた。
さて男には分からないが、時刻は夕暮れ。だんだんとあたりが暗くなり、あの一団は、これ以上の歩みを止めるつもりらしい。
最初、男は構わずに歩き続けようとしていたが、彼に追いついた人たちが何度も止めるので彼らに加わって夜を明かすことにした。
男の右手は親指のみ、両脚の指は腐り切っていた。満足なのは左手きり。耳や鼻などの顔から高くつき出した部分は、酷く痛めつけられている。
他にも全身に傷が膿んでいる箇所が幾らかあった。おそらく痛みを正常に感じていれば歩くこともままならないだろうに。
その膿や毒が脳に回ったのか、疲れ果てて心が弾力を失って扉を閉じたのか、あるは両方が原因なのか今となっては、分からない。
とにかく手の施しようがないまでに男は疲れ切り、徐々に人間らしい部分を失いつつあるぞということだった。
男と合流した人々の中には、医術を心得ている者がいたらしく、男をはじめ、皆を治療する。
しかし男の身体は、なまなかな処置ではどうにもならない。そんな中でも男が痛みを忘れていることは、幸いだ。
押さえつける手間もかからず医師らしい男は、この忘我者の傷を洗い、新しい布を割いて傷を丁寧に覆った。
意識もおぼろげな、この忘我者は、あんぐりと口を開けて呆けたまま、じっと皆を見ていた。
まず男の身体を一団はあちこち調べた。そして口々に男の処分についてや、どうやって男がここまで一人で来たのかなど話し合っているようだった。
次にやがて話し合っている連中の間を割って、医者が男の身体を治療し始めると皆、議論を切り上げて散ってしまった。
その次は、最初の連中のように鍋を取り出し、水を沸かして器に移すと各々、それに口をつけた。
忘我者も器が与えられ、湯気の立つ液体を口にしたが、期待していた味がない。周りを見ると、どうも自分が味を感じないのではなく、正真、ただの沸かした水であるらしい。
やれやれ口も利けず、頭も満足に回らない状態なのに食い物の味だけは、文句をつけようとしているらしい。
さて、最初の訪問者が現れた。
気が付くとうっすらと青みを帯びた白い丸が闇にぽつんと浮かんでいた。これがまず目玉である。そいつの頭部には大きな目玉が、これひとつあるきり。
そこから気味の悪いねじくれた肢が何本か生えている。地面に向かって車輪のようなモノが着いた肢が生えていて、そいつを回転させて進んでくる。
上に向かっては、やはり先端に車輪のようなモノがついた腕が曲がりくねって伸びている。
後に続く連中も大きさが形に違いはあれど、基本的には目玉に車輪の着いた化物という点で共通している。
そんな奴らが続々と姿を見せると男たちを取り囲んでガサガサとしばらく様子を見ていた。
明らかに連中は、こちらに敵意を持っている。注意深く、こちらに逃げ出す隙を与えないように包囲を固めているのである。
逆にこちらは、青ざめて弱々しく肩を寄せ合うばかりで、いよいよ包囲が狭まろうとしているのに縮み上がっていた。
そんな中、忘我者は急に立ち上がると不気味な目玉の怪物に一人で突進した!
それは狂気か。
目を覚ますと男は、倒木と枯草が泥水に腐り混ざった沼地の端に倒れていた。
辺りには見覚えのないひとびと。いや、おぼろげだが記憶にある顔、姿が幾人かあった。だがそれもいまや完全に忘れた。
男は言葉さえ忘れた。というより男だけでなく皆一様に言葉が通じていないように見えた。口を利くものもなく唸るばかりだ。
こいつらは、何のために生きているのか。




