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act.5 送りオオカミと帰り道。






『長田さん、悪いけど頼みがあるんだ』


放課後、保健室。

換気のために開け放った窓から入り込む風はまだ少しつめたくて、花のにおいがした。


いつもは誰かしら残っているはずのこの部屋に、今日に限ってふたりきり。

ナカちゃんはちょうど職員室に行っていて不在だった。


『さっき、廊下でこれ拾ってさ。どうも俺の友達のみたいなんだよ』


差し出されたのは真っ白な封筒。

宛名もなく、後ろにはあの有名人の名前。


『大事なものだと困るし、俺、いま手ェ離せないから、届けてもらってもいいかな』


その手元には、廊下に張り出す行事予定が書かれた掲示物。

男のくせに字がやたらめったら上手い彼は、こういったものを頼まれることが多かった。


自分の仕事を早々に終えて、手持ち無沙汰だったあたしはすぐにその手紙を受け取った。

本音をいえばふたりきりのこの状況はどうにも耐えがたかったし、ためらいはなかった。


若干、差出人の名前は気になったけれど。


『ごめん、助かる。その村田ってやつ、多分校舎裏あたりにいると思うから』


あの村田くんでしょ?

そう聞き返すと、彼はほころぶかのように頬をゆるませた。


『そうそう、その村田。あいつ、本当に有名人だな』


自分だってその村田くんの友達としてじゅうぶん有名じゃないか。

そう突っ込みたかったけど、いやに嬉しそうに笑うものだから何も言えなくなってしまった。


ふたりは仲が良いと評判だったし、無関係ながら、そのウワサの村田くんを間近で見てみたかった。

つまりは興味本位な好奇心。

こんな機会でもなければ話すこともないと、あのときはそう思っていた。


『今度、なにかオゴるよ。ありがとう』


友達思いの、いいひとだと思った。

笑った顔が優しそうで、やわらかくて、あの村田くんのことを友達として大事にしているのだと思った。



あの日から、何度も何度も繰り返す。


どうしてあたしは、あの笑顔の裏側を読み取ることができなかったのかと。






** *






「やべー! オレ、ちょーしあわせ」


手を強引につかみとられたまま歩く道すがら。

何度も引き離そうとしたのに、予想以上にしっかりと握り締められていて離すことはおろかふりほどくことさえできない。


気まずい。とにかく、気まずすぎる。

何なんだ、この状況は。


会話に困る、と思いきや、意外にも隣の彼はおとなしかった。

たまにこうしてワケがわからないことを口走ったりするけど。


目の前の空に広がる薄いオレンジの雲。

今にも甘い果汁が降りそそいできそうだ。

それよりも甘ったるい男は、そのかわいいと評判の顔を緩ませて、のんきに歌なんかうたっている。


なにがしあわせなんだ。

まったくをもって理解できない。


顔がばかみたいに熱いし、てのひらに汗をかいているような気がする。

恥ずかしいのはあたしばかりで、どうしてこんな思いをしなきゃいけないんだ。


周りの視線がいたい。

すれ違ったサラリーマンとか、買い物帰りの主婦とか。

遊びつかれた小学生や散歩中の犬までもがきっとつりあわないと思っているに違いない。


からかわれている。

そうに違いないのに。

わかっているのに、カラダの中でのたうちまわっているものを静めることができないんだろう。


「あゆんち、こっち?」


笑いかけられて、息が止まる。

こっち見んなと、怒鳴ってやりたいのに声にならない。


つながった手から溶け出していくものがこぼれてしまわないように、うなずくことしかできなかった。




「あゆ、てのひらちっせーよな」


それは、突然のできごとだった。


自宅に近づいて、気が緩んでいたせいかも知れない。

一瞬、つながれていたものを離されたと思ったら、てのひらで軽い音が打ち鳴らされた。


指の上に重なる長い指先。

てのひらの大きさを比べられている。

そう気がついたときには、目の前に影が差していた。


「これが、オレだけのものになればいいのにな」

「なに、いって」


恥ずかしいセリフを否定すべく顔を上げる。

瞬間、視線がぶつけられて息が止まった。


子犬のようなあの目は、あたしの知らないものへと変化していた。

黒いその瞳に移りこむのは、自分の顔。


つま先から熱が、ともる。


まっすぐな視線を自分から外すことができなくて、黙ってその瞳を見ていた。

目の前で重ねられたてのひらがゆっくりと離されていって、手首をやわらかくつかまれる。


あたしの熱っぽいてのひらが、引き寄せられていく。


振りほどくなら、いまなのに。

どうして、ただ見ているだけなのだろう。


きっとこの雰囲気に飲まれているんだ。

ぜったいにそうだ。まちがいない。


経験したことのないものに、のまれて動けなくなっているんだ。

そうに決まっている。


「何度でもいうよ」


メガネのレンズ一枚、向こう側。

境界線をまたいで、伸ばされるもの。

まるで壊れもののように扱われる、あたしの手。


村田くんが音を発するたびに、その息がかかって、熱を思い知る。


「あゆが降参するまで、オレは何度だってくり返す」


天下無敵のベビーフェイスなんて、ウソだ。

子犬の目なんて、もうとっくにどこかに消えてしまった。

この目の前にいるひとは、あのかわいいと評されている村田くんなんかじゃない。


呼吸ができない。

息苦しいのは、鼓動が跳ね上がっているから。


飛び跳ねるものを押さえつける方法なんて、あたしはまだしらない。


「はやく、オレのことすきになって」


刷り込まれるように。

追い込まれるように。

問い詰められるように。


音が空気をふるわせて、あたしを溶かす。


「オレをあゆのモノにしてよ」

「っ!」


引き寄せられた手首に当たるかたい感触。

わずかに走る痛みと、手首につきたてられた白い歯に息を飲んだ。


目の前が、真っ赤。

空も月も風も屋根も。


たぶん、自分自身も。


「じゃ、また明日」


名残惜しそうに手首に落とされたくちびると水音。

その目がかすか揺れたのは気のせいだろうか。


来た道を引き返していくその背中に、あたしはようやく彼の家が自分と間逆にあったのだということを知った。






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