act.3 あまいてのひらの誘惑。
「センセー! オレもお茶! お茶!」
「はいはい。岡崎くんももう一杯どう?」
「いただきます」
いや、だから。
なんで『あの村田』くんが保健室に来て、堂々と座っているわけ?
ベッド脇に置いてあるパイプイスを引きずってあたしの右隣を陣取った彼は、テーブルをだだっ子のように叩いてナカちゃんにねだった。
お前はいったい何歳児なんだ。
そう突っ込んでやりたいのを飲み込んで、イスを離す。
「こら、あゆ。どこいくんだよ」
あんたのいないところにいますぐ行きたい。
目ざとく声をかけてきた村田くんに無視を決め込んで、紅茶をすする。
強い香りと口のなかにひろがるわずかな甘み。
ナカちゃんの紅茶ですら、この苛立ちを緩和させてはくれなかった。
さらに腹がたつのは隣に座る岡崎くんの態度だ。
視界に入るその肩はあからさまに笑いをこらえて小刻みにふるえている。
ちょっとくらい助けてくれるとかなんとかないのか。
うわさじゃ親切とか優しいとか言われているらしいけど、あたしの前じゃさっぱりだ。
どう見ても、この状況を楽しんでいるとしか思えない。
「オレも保健委員になればよかった。センセー、仲間に入れてよ」
「ちゃんと仕事してくれるなら大歓迎よ」
「ちょ、ナカちゃん!」
本気でカンベンしてください。
もうこれ以上、この男といっしょにいたくない。
ただでさえ朝は校門で、昼は体育館裏、放課後はここで捕まっているのだから。
思わず飛び出た否定の言葉に、村田くんは頬をふくらませてテーブルに顔を寄せた。
ふくらませた頬。長いまつげに伏せ目がちの表情。
いまここにクラスの女子がいたら、きっと黄色い悲鳴が上がっているに違いない。
こんなの、あたしはかわいいなんて思わない。
外見だけは立派な男なんだから、しっかりとしてればいいのに。
そうすればここまで腹は立たない、かもしれない、のに。
たぶん。
「あゆはさ、オレが保健委員になるのヤダ?」
捨てられた子犬のようにうるんだ目が向けられる。
これじゃ、いやなものもいやだと言えなくなってしまう。
答えに詰まってしまったあたしをようやくフォローする気になったのか、岡崎くんは村田くんの頭に手を載せて、その髪を撫で回した。
まるで、飼い主とその犬のように。
「孝也、長田さん困ってるだろ。ただでさえお前は目立つんだから、彼女のことを考えたら、もう少し控えめにしてやれよ。な?」
「でも、オレはやくあゆにすきになってもらいたいんだよ」
「焦るな。押してもダメなら引いてみろっていうだろ」
そういう会話は、ふつう本人のいないところでやるんじゃないだろうか。
なんだか気恥ずかしくなって、顔を背けた。
これが他のオンナノコの話なら違和感もなく納得できるのに、どうしてあたしなんだろう。
からかわれているに決まっている。
かわいくてきれいなオンナノコばかりを相手にしているから、たまに変わったところに手を伸ばしてみただけにすぎない。
そうじゃなきゃ、理由がつかない。
あたしを挟んで続けられる会話。
外見だけならば最高の評価を受けている二人組。
なにもかもが、違う。
足元に見えるのはきらきらひかる境界線。
その向こう側にいるふたり。
あたしとじゃ、セカイが違う。
渦をまいてめぐる思考。
飲み込んだ紅茶とともに上がる体温。
淹れたてのカップを持ったナカちゃんは微笑ましそうな顔をして近づいてきた。
「村田くんは本当にあゆちゃんのことが好きね」
「すきだ!」
高校生にもなって、もっとまともな返事ができないのか。
見事なまでの即答と幾度となく繰り返された告白に、耳をふさぎたくてたまらなかった。
この男は『あの村田』くんなのだから、きっといつもこうやってオンナノコを口説くのだろう。
繰り返し繰り返し、相手が弱るまでその甘ったるい声でささやくのだろう。
言葉は声となって、音となり、耳へゆっくりと入り込む。
入り込んだものは、胸の奥に侵入してドロドロと内側から溶かしていく。
相手にしなければいい。
そう思ってきたけれど、どんなに耳をふさいでも声はわずかなスキマから入り込んでくる。
糖分過多のハチミツのようなものに徐々に蝕まれていく。
「でも、なんであゆちゃんなの?」
その鶴のヒトコエに、空気が止まった。
聞きたくて聞けなかったことを、ナカちゃんは笑顔でさらりと音にする。
さすが保健室の魔女。
くちびるを紅茶のカップから離して、全神経を耳に集中させた。
知りたかったその答えを、きくために。
村田くんがあたしを追いかける必要なんてどこにもない。
だって、この男の周りにはアリが群れるかのように人が集まるのだから。
これは何かの嫌がらせ?
それとも罰ゲーム?
からかわれているのなら、はやくその証拠が欲しかった。
「それはヒミツ。でもオレは、あゆがいい」
満面の笑みとなだれ込む甘ったるい言葉にごまかされそうになった。
わずかにふるえた指先がカップとソーサーをぶつけて高い音を立てる。
前を向いていられなかった。
この無駄に長い前髪が顔を覆い隠してくれるといいと思った。
意味がわからない。
理由もはっきりしない。
なんであたしなんだ。
境界線の外側で、隠れるように目立たないように、決して近づかないようにしてきたのに。
そっちからあたしのことなんて見えるはずがないのに。
ラインの向こうから伸ばされた手が、甘く甘くあたしをいざなう。
「あら、ごちそうさま」
「おそまつさまデシタ?」
まるで狐と狸の化かしあいみたいな会話が交わされて、ふたたび空気の動き出した保健室。
それでもこの鼓動が静まることはなくて、いつまでも顔を上げられずにうつむくだけだった。