表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/29

ending さくらのころ。







あれは、桜の頃だった。






「あゆと一緒に帰りたかったのによー」


日暮れ、黄昏、空を侵食する深い夜の帳。

隣を歩く孝也は至極残念だと言わんばかりに漏らす。


軒並みの家々から零れる柔和な明り。

窓の僅かな隙間から漂うは夕餉の香り。

鼻腔を抜ける其れに厭でも空腹を覚えさせられた。


「なあなあ! 今日もお前んちいっていいだろ?」


平素思うが、この男はまるで戯れる仔犬の様だ。


緩い口調とは裏腹に、眼差しは真剣そのもの。

必死に乞うような視線を跳ね除ける事なぞ俺に出来る訳も無く、仕方無いという風を装って首を縦に動かした。




幼少の話になるが、孝也と俺は近隣に居を構えていた。

孝也の母親は俺の母親の高校時代の同級生で友人という仲らしい。

必然的に俺達は幼い頃からよく顔を合わせるようになり、次第に交流を深めていった。


しかし、ある時を境に孝也は姿を消した。


孝也だけでは無い。

村田孝也を取り巻く環境全てが消え去った。

彼の宅に足を運んだ俺が目にした物は黒と白の縦縞の幕。


其処には夥しい程の線香の匂いが漂っていた。

以来、会うことはおろか話を耳にする事も無かった。


その後、俺は特に代わり映えも無く、目の前で過ぎ去ってゆく日々を淡々と追っていた。

通学に便利という真っ当な理由を掲げて近所の公立高校に進路を定め、当然の事ながら合格した。


中学の友人も多数入学しており、友人関係に不満もなく、唯過ぎてゆくだけの平凡な日々を送るのだろう。

そう、思っていた。


『お、おおお! 大地! お前っ、大地だろー!!』


昼時の廊下で珍しく自分の下の名前を呼ばれて振り返る。


窓から差し込む薄紅。桜の頃。

其処には、幼い頃に姿を消した孝也がいた。




「ちわーっす!」

「なによ、その挨拶。ちゃんとまともに挨拶くらいしろっての」

「おー! 姉ちゃん! 今日のメシなに?」


玄関口には先に帰宅していたらしい姉貴の姿。

その手に握られていたのはコードレスフォン。

微かなその合図を俺が見逃す訳も無く、小さく頭を下げて見せた。


家族は皆、孝也の現在の状況を知っている。その上で出迎えている。

あんな家に帰らなければいいのにと、母は見送るたびに嘆く。

余りにも悲惨な環境を俺達は知り過ぎていた。


「もうあんた面倒だからうちの子になれば?」

「マジで! 姉ちゃんはおれの姉ちゃんになんの!? じゃ大地は弟な!」


そうなればどれほどいいだろう。

弟は御免被るが、兄としてなら両手を広げて出迎えてやりたい。


「なんでだよ。俺が長男、お前次男な」

「オレだってそこは譲れねえよ! ジャンケンな! ジャンケン!」


目の前に差し出された拳。


脳裏を掠めるは、薄紅の霧雨。

そういえば、あれも桜の頃だった。




『大地、大地。あの子なにしてっと思う?』

『は?』


二年に進級して間も無くの頃だ。

普段の様に俺は孝也と連れ添って家路を辿っていた。


ふと袖を引かれ、足を止めて差し向けられた指の先を見遣る。

路地の奥には背の高い雑草が生い茂り、雨露を受けて光を放っていた。


その向こうに、降り注ぐ雨と共に散る薄紅と見慣れた制服を見た。


『あれ、うちの学校の子だよな。声かけっか!』


走り出した孝也を制止する事も儘ならず、遠退いた背を渋々と追う。

高校で再会した孝也は以前と何一つ変わらないようでいて、変貌を遂げていた。

孤独に耐え切れず、常に誰かの温もりを求めては街を彷徨っていた。


孝也が声を掛けるのは、決まって何処か影のある女ばかりだった。

同じ匂いを求め、同じ境遇を嘆き、同じ傷を舐め合い分かち合おうとしているのがすぐに知れた。


俺が出来る事は、精々後始末をする事位な物だ。

深い傷に抉り取られて生涯残るだろう痕に、俺が触れる事は叶わないと思っていた。



『いいなあ』



突如、路地の中央で静止した背中が呟きを漏らした。

雨に溶け込んだ其れは刹那にも消えてしまいそうで、俺は隣に並んで同じ物を見上げた。

孝也が欲しいと望むのならば、どうしても手に入れて遣りたかった。


青々とした雑草。朽ち果てて忘れ去られた公園。

薄紅散る木の下。白い仔猫を抱き上げた制服姿の女子。


長すぎる黒髪が雨を含んで背中から流れ落ち、煩わしいとばかりに掛けていた眼鏡を投げ捨てて笑う声。


涙を滲ませた其れは、雫となって飛散する。

一瞬にして目を奪われた。呼吸を忘れた。



『オレも、あの猫になりてえなあ』



隣から聞こえる声に、本音が混じる。

我に返って視線を移した。

孝也は彼女だけを目に捕らえたまま微動だにしなかった。



『あの手がオレのものになんねーかな。そしたらもう、それだけでいいのにな』



あれは桜の頃だった。

泣きながら笑う彼女と笑うように泣く孝也の間で、俺は雨に溶け込んでいた。




それから、まず手始めに彼女と同じ保健委員になってみた。


メールや電話では引かれる可能性も考えて、ここは古風に手紙を孝也に書かせた。

騙したのは悪かったと思っているが、それをきっかけに仲を深めることが出来たのは上出来だろう。


ここまでは、上手くいっていたと自負する。

しかし、徐々に歯車は狂い出す。


いや、もしかしたらあの頃から、俺の歯車は狂っていたのかもしれない。


「ちょっと! あたしのお弁当食べたでしょ」

「ごちそーさまでした!」

「長田さん、自分で作ったのあの弁当?」

「そうだけど、ってまさか岡崎くんまで一緒になって食べたわけ!?」


昼休みはいつも校舎裏に集まるようになっていた。

甲高い声が響き、顔を赤くさせた彼女が拳を振り上げる。


雷が落とされる前にと早々に避難すれば、案の定孝也の頭上にそれは叩きつけられていた。


「いってえ!」

「あたしのご飯、どーしてくれんの!?」


自然と笑いが込み上げる。

こんなつもりではなかったのに、もう引き返せない自分がここにいる。


あれは桜の頃だった。

全てはそこから始まってしまっていた。


「まあまあ、ここはひとつ、俺のパンで手を打たない?」

「……中身、なに?」

「クリーム」

「のった」


差し出されたてのひら。

その上に予想して購入しておいた彼女の好きな菓子パンを乗せる。


わずかに指先が触れて、瞬間、その身体が反応したのが分かった。

どうやら、この間の出来事がまだ尾を引いているらしい。


「顔、赤いよ?」

「だっ、だれのせいだと思って、」

「何の話だよー? オレだけ仲間はずれかよ!」


真上に広がるは空の青。

校舎を影に、反響する声。


あの手を俺も欲しているのだと知ったら、孝也はどうするのだろうか。


「あーもう! あたし片岡さんたちとご飯食べてくる!」


走り出す彼女。

追う背中。


「何、隠してんだよ!」

「さあ?」


手に入れるのはどちらが先か。

少なくても、負けてやるつもりはさらさらない。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ