last 欲情ハニィに、溶かされて。
あたしの平穏で平凡な、それでもいとおしい日常は、いったいどこへ?
「あ、」
出来上がったアイスティーを手にテーブルヘ向かう寸前。
スカートのポケットから真白い封筒がすべり落ちた。
足元でひらひらと舞うようにして落ちたそれは、窓からこぼれるひかりを受けていた。
アイスティーをそっと近くの台に置いて、かがみこむ。
自分の体温でほのかにぬくもりを帯びた手紙に、ふと笑いがこみ上げる。
はじまりは、この手紙だった。
岡崎くんにだまされて、手紙を届けた先で告白されて。
そこからはじまった日々。
平凡と平穏、円滑円満な毎日はあの日からどこかへ消えてしまって見る影もない。
ついたてごしに聞こえる声は、なんとにぎやかなことか。
ここが保健室だって、ちゃんとわかっているんだろうか。あのひとたちは。
拾い上げた手紙をポケットに押し込んで立ち上がる。
少しは静かにするように言ってやらなければ。
そう意気込んでアイスティーをつかむと、正面に見えるついたてに影が差した。
「長田さん、手伝おうか」
低音がやわらかく耳に響く。
あらわれた岡崎くんはついたてを抜けて近づいてきた。
グラスをひとりで持ちきれないでいたから、助かったことは助かったけれど。
そのあまりのタイミングの良さがなんとも彼らしくて、笑ってしまった。
「ありがと。これ持っていって」
「かしこまりました、おひめさま」
両手につかんだままのグラスを差し出すと、正面に見えたのはにやにやとした笑い。
これは、なにか良からぬことを考えているにちがいない。
というか、なんだその呼び方。
気色悪いを通り越して、気持ち悪いんですが。
「ははっ、なにその顔。本当に素直に出るね、長田さんは」
「先にヘンなこといったのは岡崎くんでしょうが」
「変じゃないだろ。本当のことだよ。みんな、長田さんが好きで集まって来てるんだから」
キングオブ笑い上戸が笑みを浮かべたまま、グラスを受け取る。
あたしが、すき?
なんだそれ。
それをいうなら、あんたたちふたりが好かれている、の間違いだろうに。
「なにそれ。そんなわけない、」
「あるよ」
話を流そうとして出た言葉を、やけにきっぱりとした声がさえぎった。
同時に強く踏み出す音が聞こえて、顔を上げる。
目の前には、真っ直ぐな黒髪を流した前髪とその向こうに見え隠れする瞳。
あまりの接近に、思わず息を飲んだ。
「ここにいる全員が、きみのことを好きなんだよ」
低音がざわざわと音を立てて、耳からあたしのなかへと侵入する。
グラスをつかんでいた手に、大きな手が重なってきた。
その温度の高さにカラダがすくむ。
いったい、なんだ。
なんでこんなことになっているんだ。
熱すぎるてのひらに包み込まれた両手を引き寄せられた。
アイスティーのなかで泳ぐ氷がグラスにぶつかって、鈴のように鳴る。
「これ、孝也のものになったって本当?」
遠くに聞こえるテーブルのにぎわいに混ざるように、かすかに響く低音。
前髪に隠されたその目から表情が読み取れない。
さっきまでは笑ってたくせに、この状況はいったいなんだろうか。
突然の事態に反応できず、意味も分からなくてただ混乱した。
これって、どれだ。
何のことを差しているんだ。
てのひらの内側はアイスティーで痛いくらいつめたい。
でも、包まれた手の甲が熱すぎて呼吸ができない。
これっていうのは、この手のことだろうか。
ようやく思い当たったのに、力を込められてまた混乱の渦へ突き落とされた。
「俺、まだ長田さんに罰ゲーム言ってなかったよね」
低いささやきは体内で輪を描き、下降しながらどんどんと熱を高めていく。
罰ゲーム。
そういえば、あたしだけがまだだった。
あのトランプ大会で一位だった岡崎くんには、村田くんとあたしに命令権がある。
だからって、なんでいまこんなときに。
「こないだ孝也とキスしそこねたんだろ?」
あたしのなかに、ゆっくりと入り込んでくる声。
溶け出していくものが熱を持ってこみ上げてくる。
どろどろとしたそれが心臓を包み込んで圧迫する。
「だったら、俺としようよ」
低い声が猛毒のようにカラダをめぐって落ちていく。
意味がわからない。
なんでそんな話になるんだ。
罰ゲームでキスだなんて、冗談に決まっている。
どうせいつものように、笑っておしまいになるはず。
「じょ、じょうだんで、……っ、」
最後までいえなかったのは、包み込まれた手に力を感じたから。
近づいてくる影。
目が回ってしまいそうな混乱。
「あゆみ」
吐息がかすめて、あたしの名前を刻む。
はじめて聞いたその響きに、意味も分からず、目を閉じた。
「あーゆー! まだかよー!!」
その甘ったるい声に、包まれていた手がわずかに動いた。
おそるおそる目を開けば、前髪が触れる位置に岡崎くんの顔があった。
「――いま、持っていくから待ってろ。それにお前も手伝えよな」
熱っぽい湿気を帯びたため息が、頬をかすめていく。
さっきとはうって変わって、いつもどおりの声。
何を考えているか分からない、いつもどおりの笑顔。
身動きのとれないあたしの手から、グラスが岡崎くんにうばわれていく。
てのひらはしびれてしまうくらい冷たい。
なのに、全身が痛いくらいにあつい。
いまのは、いったいなんだ。どういうことだ。
悪ふざけにしてはあからさまに度が過ぎている。
「岡崎くん!」
遠ざかっていく背中に声をかけた。
心臓がうるさい。耳がいたい。
カラダが熱くて、力が入らない。
「じょ、冗談、だったんだよね?」
そこでうなずいてくれたら。
いつものようにしてやられたと、悔しがることができる。
振り返った岡崎くんは、いつものように笑っていた。
「どっちがいい?」
なんで、そこで疑問系?
しかも、なにが?
聞いているのはあたしなのに、聞き返されてわけがわからない。
ついたての向こうに消えていった背中をただ見送って、あたしは混乱する頭を静めようとアイスティーを一気に飲み干した。
*** *
「あゆ、なんか顔赤くね?」
席に戻ると、待っていましたとばかりに村田くんに出迎えられた。
アイスティーを手渡してほっと息をついたのに、そんなことを言われてまた混乱する。
表情から感情を読むのが上手いのは、どうやら本当らしい。
あからさまに納得していない顔をされて、返事に困る。
もっとあたしが演技派だったら、もう少しなんとか立ち回れたはずなのに。
そんなことを悔しがってもどうしようもないので、おとなしく腰を下ろした。
ちょうど正面には岡崎くんがいる。
岩槻さんと楽しげに話しているその姿から、さっきのことなんてこれっぽっちも感じさせない。
むしろ夢だったのかと思えてしまうほどだ。
きっとさっきのは冗談だったんだ。
いつもの悪ふざけみたいなものだったんだ。
そう自分に納得させて、息をつく。
そんなあたしのため息に気がついたのか、ちらりと岡崎くんが視線を投げてきた。
にらみつけてやろうと騒がしい心臓を押さえつけて目に力をこめる。ところが。
「あーっ! 大地、てめー、あゆになんかしただろ!」
片目をつむって、合図を送ってきた岡崎くんを見ていたらしい村田くんが隣で声を上げる。
いきおいよく席を立ち上がるものだから、グラスが揺れて押えるのに必死になった。
「ちょ、あぶないでしょ!」
「なにもしてないけど?」
「ウソだ! ぜってーなんかあっただろ!」
あんたはだだっこか。
甘ったるい声でそう叫ぶ村田くんになにもなかったような顔を向けた岡崎くん。
また一気にさわがしくなってしまった保健室であたしはひとり頭を抱えた。
「で、あゆはなにかされたの?」
「やっるじゃーん、大地! あたしいま断然大地派だかんね!」
片岡さん岩槻さんも悪乗りしてはやしたてる。
もうここまできたら収拾がつかない。
「ただいま、って、あら。にぎやかね」
「ナカちゃん……!」
「なに? またなにかあったの? 私もまぜて」
戻ってきたナカちゃんが唯一の救いだと視線を投げかけた。
にもかかわらず、あの微笑に一蹴されてしまって立つ瀬なし。
「あゆはオレのことすきだもんな!」
「はあ? それマジ妄想だから。あんたにかわいいあゆはやれないわ」
「じゃ、俺なら構わないの?」
「岡崎くんもあゆ狙いだったの? えー、ショックー」
「あゆちゃん、どうするの?」
あたしの平穏で平凡な、それでもいとおしい日常は、どこか遠くへ。
きらきらした境界線の向こう側は、こんなにも騒がしくてにぎやかで、どうしようもないけど楽しい日々。
「あー! もううっさいってば!」
あたしの声は保健室を揺らし、窓を抜けて、外へ。
夕焼けに焦げた空で、終わりを告げるチャイムとともに響いた。
――end.
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最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
本編は以上で終了となります。
エンディングとして岡崎編。番外に村田編を書きました。
そちらも読んでいただけると本編の補足になるかと思います。
前作の反動から、初めてのラブコメに挑戦しましたがとても楽しんで書くことができました。
シリアス作品ばかりを手がける自分にとっていい勉強になったと同時に、たくさんの方に読んでいただけて、とても嬉しかったです。
この作品を通じて、たくさんの読み手さまと出会えましたこと、感謝いたします。
感謝の気持ちをこめて、HPの拍手ページにて会話文SSを書きました。
お時間があれば下のリンクからどうぞ。
読んでいただければ幸いです。
当初、十話程度の構成でしたが、いつのまにかこんなに長い作品になっていました。
機会を見て、続編をやりたいと思いつつ、まだ達成感でいっぱいの心境です。
なにかひとこと、一文でも、一行でもいただければとてもしあわせです。
自分がこうして最後まで作品に取り組むことができたのは、読んでくださった方々のおかげです。
ほんとうに、ありがとうございました!
2008.09.15 梶原ちな
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