act.24 ペナルティゲーム―その名は欲情ハニィ。1
きみのその手が、ぼくのものになりますように。
「うっし! 十分たったなー!」
いつもの声がいつものように空気を読まず、静寂を割って響いた。
ベンチに座ったまま長い腕を空いっぱいに伸ばした村田くんは、何かに解放されたかのように大きく息をつく。
あたしはといえば、突然もたらされた真実と告白にどうしていいのか分からず、動くこともできない。
ぐるぐると混乱が渦巻くなかで、薄れていた記憶を懸命に探る。
たしかに、春先にこの場所で真っ白な子猫を見つけた。
大きくなったあの猫にはさっき会ったし、それは間違いのない事実。
あの日。あの春の日。
雨のなかで子猫と遊んで、ばかみたいに泣いて、一方的にすっきりして帰った。
カバンは水びだし、制服は毛まみれでものすごく怒られた。
気持ちが下降していたときの、ちょっとした気分転換。
子猫がやばいくらいかわいかった。
ただ、それだけのことだった。
少なくても、自分のなかでは。
それを、まさか誰かに見られているなんて思いもしなかった。
あのとき、あたしは猫を抱き上げていたんだっけ?
笑っていたんだっけ?
泣いていたんじゃなかったっけ?
もう自分自身でも思い出せない。そんなささいな出来事。
それなのに。
『あのてのひらが、あの子が、オレのものになったら。もう死んでもいいやって思った』
それなのに、そんなちっぽけなことを大事にしてくれていたひとがいた。
そのことがとてつもなく恥ずかしくて、ばかみたいにうれしい。
自分のカラダの中心から発せられる熱に、じわじわとあたためられていく。
いままで、あたしのことなんてだれも見ていないと思っていた。
空気で地味で、目立たないようにして生きていたから。
そうやってきっと終えていくのだろうと思っていたのだから。
日常を好むふりをして絶望に足を踏み入れていたあたしを、見ていてくれたひとがいた。
「もう間に合わないと思うけど、授業戻っていいぞー! オレ、もう少しここにいるからさ」
天下無敵のベビーフェイスに、ヘタクソな作り笑い。
そんなの似合わないのに、なんでそこまでムリして笑うんだ、この男は。
ベンチに座ってあたしを見上げる黒い瞳。
それだけでもたくさんの女の子をとりこにしてしまえるだろうに、あたしなんかが欲しいなんてどうかしている。
だけど、そんな風に求められたことなんてなかった。
「こ、ここに、残ってどうするわけ?」
「んー、寝る!」
「日に焼けるよ。一緒に戻ればいいじゃない」
自分にしてはよく出来た発言だと思った。
気づけ。
あたしはあんたが思うほど、「あの村田」を嫌っていないんだ。
むしろ、いまはうれしいばかりなのに。
さりげなさを装って、求められていた手を伸ばす。
あたしにはこの手の価値なんてさっぱり分からないけれど、いまなら触れられても構わない気がしていた。
ところが。
「いいよ。あゆは先もどって」
差し出したてのひらの向こうで、思いっきり顔をそらされた。
おい、こら。
なんだ、そのはっきりした拒絶は。
ココロの奥の奥、自分では手の届かないようなところが痛み出す。
速度を上げて、音を上げて、息も止まってしまうほど。
「なんで」
意地に、なった。
さらに腕を伸ばして、てのひらを近づける。
あんなに欲しいといってくれたのに。
あたしはそれをとてもうれしいと思ったのに。
なんで、この場面で拒否されなきゃいけないんだ。
耳のそばで風が通り過ぎる音がするのに、ばかみたいに暑い。
太陽は差し出したてのひらとむき出しの足と、首筋と頬を焼きつくしていく。
村田くんのこめかみを流れていくもの。
それが首筋を伝っていくのが見えたとき、ようやく彼が口を開いた。
「だってさ、今日のあゆはすっげーかわいいじゃん。オレ、なにすっかわかんねーもん。もう触んないって決めたのに」
あつい。
まるで、溶かされてしまいそうなほどに。
結い上げた髪、丈の短いスカート、なくなったメガネ。
空気に触れている部分がこんなにも多いはずなのに、あつくてあつくてたまらない。
さっきまであんなに痛かったはずのカラダの奥が、今じゃオーバーヒートしてあたしのなかをどろどろと溶かしている。
「……って、いい」
はじめて、手紙をもらったときも。
名前を呼ばれて追いかけられていたときも。
いっしょに手をつないで帰ったときも。
この原っぱで眠ったときも。
「ん、なに?」
いつもいつも。
あたしは、溶かされてしまいそうになっていた。
「さわっていいっていってんの!」
焼きつくされてしまいそうな、空の下。
吹き抜ける風も青も静寂も引き裂く音。
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。