act.2 その男、性悪につき。
「最悪……」
「あ、また孝也? オツカレでーす」
「岡崎くんのせいでしょーが! なんとかしてよ、あの発情男!」
「長田さん。声、声」
「あ、」
真っ白な壁を見回せば、冷たすぎるいくつかの視線が突き刺さった。
あわてて口をふさいでも、もう遅い。
窓側で机に向かっていた白衣の小さな背中が、イスを動かしてこっちを見た。
「あゆちゃん、ここどこでしょうか」
「ほ、保健室です」
華奢なカラダに折れてしまいそうな手首。
白衣に負けずとも劣らないその肌の色。
保健室の魔女は絶対零度の微笑みをあたしに向けた。
「わかってるならよろしい。次はないわよ?」
首をたてに動かす以外に、なにができただろうか。
左側に座る岡崎くんが俯き加減にしっかり笑うものだから、後で見てろとココロのなかでひそかに思った。
「で、また村田くん?」
「助けて、もうムリ。ほんとムリ。なんとかして、ナカちゃん」
「無理だよ。だって相手はあのムラタタカヤだぜ? 俺もよくあいつと友達やってるなあって思ってんのに」
お前の意見なんて聞いてないんだよ、この裏切りモノ。
そう叫んでしまいたい衝動をこらえて、にらみつけるだけにとどめておいた。
自分だって校内での知名度は充分高いくせに。
涼しい顔をして、そ知らぬふりを決め込んでいるこの男も相当タチが悪い。
放課後の保健室の利用者もようやく引いて、いまはあたしと岡崎くんと先生しかいない。
中央にある丸いテーブルを囲んで休憩がてらお茶を飲んでいたわけだけれど、話の内容はいつもと変わりなく、あたしの悩み相談であった。
目の前に出されたナカちゃん特製の紅茶を一気に飲み干してうなだれる。
まるで夜の街に生息するうらぶれたサラリーマンのようだ。
あの男が触れたてのひらが、いまだ激しい熱を持ってうずいては記憶と感触を呼び起こさせる。
近づいてくるあの顔、甘ったるい声。
リピート、エンドレス、リピート。
このままじゃ頭がヘンになってしまいそうだ。
「あゆちゃんも好かれたものねえ。相手はあの村田くん、ってところに驚いてしまったけれど」
ナカちゃんの透きとおった声が鈴のようにふるえて形づくられていく。
あたしだっていまだに信じられない。
けれど、このてのひらの熱とポケットのなかで音を立てるものが何より証拠。
『はやくオレのこと、すきになって』
耳をくすぐるハニーボイス。
子犬みたいな黒目に、天下無敵のベビーフェイス。
顔に似合わない長身に、色の抜けた柔らかそうな髪。
くるくるころころと変わる子どもっぽい表情。
その外見だけでも、彼は入学当初から有名人だった。
でも、それだけじゃない。
「で、もう強引に手ェ出されちゃった?」
「イヤなときはイヤだっていうのよ?」
ふたりが同時にあたしの顔をのぞきこむ。
その重なり合うセリフのせいで、火が、ついた。
「んなわけないでしょーがっ!」
あたしの叫びは真っ白な保健室のカーテンをふるわせて、空へと抜けていった。
** *
うちの学校でまことしやかにささやかれている、そのウワサ。
――二年のムラタタカヤのムラは、ムラムラのムラだ。
彼はその容姿と問題あるセイヘキで、『あの村田』と呼ばれるまでの有名人になった。
ムラムラの村田。
アホみたいなあだ名だけど、これがウソじゃないから恐ろしい。
来る者は拒まず。去る者は追わず。
校内の生徒だけじゃなくて、性別が女だというだけで、それは彼の守備範囲となる。
泣かされた女子は数知れずのはずなのに、恨んでいる子は誰ひとりとして存在しない。
『あの村田』と付き合った。
それが、この学校の女子のステイタスになる。
そんな遊び人が男子に好かれるわけがない、と思えばそれは大きな間違いで。
『あの村田』と友達だ。
それがこの学校の男子のステイタスになる、らしい。
もとより人ウケする性格らしく、問題児ながらセンセイ方もそこまで厳しい指導はしない。
憎めないやつだと、あの嫌われ者の生徒指導のセンセイまでもが頬をゆるめていたそうだ。
多少のサボリ癖はあるものの、遅刻早退無断欠席はなし。
成績だって特に問題があるわけじゃない。
協調性もあって、クラスの人気者。
ひと懐っこくて、明るくて、かわいいくて、なんたって見た目がいい。
『あの村田』はそういう男だった。
「その村田くんが、なんであたしなわけ?」
「さあ」
紅茶をすする岡崎くんが、とぼけた調子で首をかしげる。
その含み笑いにますます怒りが助長されていくものだからたまらない。
校内に無数に存在するといわれる自称村田の友達、ではない、自他共に認める公式友人として有名なこの男。
『あの村田』のフォロー役として校内にその名をとどろかせた彼は、その容姿と性格で女子に人気を誇っていた。
村田孝也に泣かされたら岡崎大地の元に行け、という受け皿制度のような話が出回っているほど。
優しくて、真面目で、面倒見がいい。
時にはケンカの仲裁役となり、また時には教員と生徒をつなぐ架け橋ともなる。
生徒会から直々のご指名があったとか、クラス全員から満場一致で委員長の推薦をされたとか。
さまざまな憶測が飛び交っているなかで、なぜか彼は保健委員となった。
切れ長な目に涼しげな表情、落とせない女はいないとまで言われるセクシーボイス。
村田くんとは違ったタイプの、それでも整った容姿を持つ岡崎くんは穏やかに笑った。
「俺は、手紙頼まれただけだし?」
黒い髪が窓から入ってくる生温い風に揺れて、目ぐばせをしてくる。
同じ保健委員でもなければ、こうして口を利くこともなかったと思う。
あたしは自慢じゃないけど、地味だ。
身なりにもかまわないし、どうだっていいと思っている。
長いスカート、化粧っけのない顔、一本に結っただけの髪に赤ブチメガネ。
クラスでは空気扱い、下手すればオタク系として分類されているだろう。
別にオタクじゃないけど本は好きだし、そもそも毎日が平凡であればいいと、そう思っていた。
似たような種類のおとなしい友達と教室のすみでグループを作って、目立たずに日々過ごす。
それで、よかった。
なのに。
「あの手紙のせいで、あたしがどういう目にあって……!」
「どーいう目にあってんの?」
開かれたドアの音にかき消された声。
上書きするのは、あの甘ったるい声。
ゆっくりと首を動かして、その方向に視線を送る。
「村田くん、ドアはもっと静かに開けてね」
「はーい、センセー! よ、大地!」
「おう」
のんきに挨拶をしている場合か。
そう突っ込んでやりたかったのに、声も出なければカラダも動かない。
「あゆー? そんなに見つめられると、オレいろいろとガマンできなくなるんだけど」
だれか助けて。
あたし、いまこういう目にあっているんです。
ココロのなかでそう強く訴えても、うなずいてくれるものなんてなにひとつなかった。