act.19 モノクロームは雨にながれて。
怖かったんだ。
からかっていたのだと、目の前で本当にそういわれたら。
いままでの全部がなくなってしまうような気がして。
覚悟はしていたし、分かっていたつもりだった。
そのときが来たら、やっぱりそうだったと笑い飛ばせると思っていた。
なのに、いざとなったらこんなにも怖い。
それに。
「はあっ、はあ、は……っ」
首筋を通り抜ける風。汗ばんだむき出しの足が外気に触れて、冷える感覚。
自分からわずかに香る甘い花のにおい。
この姿があのふたりにどう思われたのかが、怖かった。
保健室を飛び出して、向かうは足の赴くまま。
岩槻さん仕込みの短いスカートのおかげかいつもより走りやすくて助かった。
しかし、ここはやはり男女の差。
「あゆ! 待てよ!」
「やるなあ、長田さん」
やばい。
なんかめちゃくちゃ速いんですけど。
猛進するふたつの影に追いつかれるのは、時間の問題に思われた。
校舎の切れ目を曲がって、たどり着いたのは見慣れた校舎裏。
目の前には、立ちふさがるフェンスとその向こう側にある伸び放題の雑草。
「う、そ、でしょ……」
何もかもが終わった。
力を失った足を止めかけたとき、視界に古い物置小屋のようなプレハブが目に入った。
** *
神様仏様、もう何でもいいからお空の上のエライひと。
どうか鍵がかかっていませんように。
そんな一か八かの賭けに見事勝ったあたしは、プレハブ小屋にカラダをすべり込ませた。
荒くなった息を整えようと、胸に手を当ててゆっくりと呼吸を繰り返す。
戸口の小さな窓から、走りこんでくるふたりの姿が見えた。
周囲をうかがっているその様子に、あわててしゃがみこむ。
よし、ここでしばらくやりすごそう。
それからのことは、あとで考えればいい。
そう考えて、肩の力を抜いたそのとき。
足首をかすめたなにかに、呼吸が止まった。
「……っ!」
視線の先には足首に絡むやわらかくてふさふさした白いもの。
そこには、真っ白な毛玉のようなものが、あった。
なんだ。
いったいなんなんだ、これ。
あまりの驚きに大きな声を上げそうになって、両手で口を押える。
とっさの機転に自分で自分を褒め称えたくなった。
白い毛玉が鈴の音を響かせてすり寄ってくる。
よくよく目を凝らしてその白い毛玉を見れば、それは赤い首輪をした猫だった。
「な、んでこんな、ところに猫?」
浮かんだ疑問は口をついて音となり、それに反応したのか猫はまた小さな声をあげた。
指先を伝って手首へとカラダをこすりつけてくるその動きに、自然と頬がゆるむ。
かわいい。とにかくかわいすぎる。
頭からあごにかけて撫でてやると、のどが鳴る音が響いた。
気をよくしたらしい猫はもっと撫でてほしいのか、何度も鳴き声をあげる。
やけに人懐っこい気がするけれど、これだったら抱き上げても引っかかれなさそうだ。
「よしよし、おいでおいで」
おいでといいながら自分から手を伸ばした矢先。
近づく足音が耳をかすめて、カラダが反応した。
「あゆー! あーゆー!」
やばい。
やばいやばいやばい。
薄いプレハブのすぐ向こうから聞こえたその声に、さらに上体を低くして隠れた。
すっかり頭から抜け落ちていたけれど、まさかこの場所も気づかれてしまったのだろうか。
「確かにここに来たような気がするんだけどな。しかし、足速かったな」
「絶対このあたりにいるって。オレセンサーがそういってんだよ!」
オレセンサーってなんですか。
いったいどこについているわけ?
プレハブをはさんで聞こえる会話に思わず突っ込みを入れてしまった。
耳をふさぎたいはずなのに、自分の名前が聞こえると否が応でも耳をそば立ててしまう。
もう会いたくない。
でも、その声を会話を聞きたい。
なんなんだ、この矛盾は。
ひざに顔を押し付けて、足音が通り過ぎるのを待つ。
こぼれ出してしまいそうな何かに、くちびるをかみ締めてたえる。
足元では白い毛玉がそのつやつやしたカラダをすり寄せていた。
そのやわらかな感触に、ささくれ立った気持ちが少しずつ薄れていくのを感じる。
その瞬間。
「あ、」
てのひらをかすめた感触にうっすらとよみがえるもの。
あの、遊具すらない原っぱ。
濡れたメガネの向こうににじむ薄紅と白い子猫。
――そういえば、あのときもそうだった。
メガネを外せなくなって、クラスでも目立たないように過ごそうと決めて。
でもバカらしいと思ったりして、自分という存在がもう嫌で仕方なくなっていたあのとき。
だれもいない公園みたいな原っぱで、あたしは真っ白な子猫と出会った。
「まさか、あのときの猫……?」
まるでそうだと言わんばかりに、白い毛玉が鳴き声をあげる。
差し出した指先を小さな舌がなめていく。
小雨の降るなか、抱き上げた子猫は同じようにあたしの指をなめていた。
いま指の先にいる猫は見違えるように大きくなっていたけれど、面影が重なる。
「今年の春先に会ったの、覚えて、」
そう言いかけて、ふと気がついた。
前にもこの話を誰かにしたことがあるということに。
青々とした葉が、空に伸びる木の下。
草が足をかすめる感触と、木漏れ日。
両隣にはあたしよりも長い手足があって、にやにやしながら聞いてくれた。
『長田さん、猫好きなの?』
『オレはあゆ好きー!』
なんだそれ、あたしは猫か。
そんなことを思ったりして、草に思いっきりカラダをゆだねた。
きらきらしていた。
空も、葉も、風も、時間も、あのふたりも。
ゼイタクだと思った。
こんなのバチが当たると思った。
それでも、この時間が続けばいいと、願った。
目の前がいつのまにかぼやけていた。
白いふわふわした毛が濡れていく。
こうやって、何度も思い知るんだ。これからもきっと。
三人で過ごしたわずかな時間を、何度も何度も。
そのたびにあたしは泣くのだろうか。
楽しかったとか嬉しかったとか、いい思い出だったとか。
遠い記憶になっていくそれに思いを馳せるのだろうか。
あたしは、クラスの中心みたいなあの子たちにはなれない。
きらきらしたラインの向こうにはいけない。
あのふたりとは違うトコロで生きているのだから、しかたない。
そう何度も思ったのに、あの時間を取り戻したいと思う自分がいる。
ぼろぼろと立て続けにこぼれる熱いしずくがてのひらを伝う。
なめとっていく猫は逃げもせず、その毛を濡らしつづけた。
『誰に何をいわれても関係ないじゃない。自分は自分でしょう』
頬を次々に伝っていく生温いもの。
こぼれ落ちていくしずくに溶け込むやさしい声。
『あのふたりにがつんとかましておいで!』
猫の目にうつるのは、力強いてのひらに背中を押されて立ち上がったはずの自分。
古くて、汚くて、薄いプレハブ小屋。
足元には、あの日の猫。
雨は降っていない。桜は散ってしまった。
あの日、掛けていたメガネはここにはない。
もうそんなの、必要ない。
握り締めたてのひらに、ナミダは落ちることはなかった。