act.15 被害者Aの反乱。
オレンジ、たそがれ。
暮れていく空、いちにちのおわり。
校門前、重なる影。
村田くんと、しらない女の子。
まるでドラマみたいなキスシーン。
呆然と突っ立って視界をふさがれているあたしはただのエキストラ。
踏み込んではいけない空間が、そこにはあった。
「――大丈夫だよ」
背後からもたらされたのは熱っぽいてのひらと、とびきり優しい声。
なにが?
そう聞きたかったのに、上手く声が出ない。
耳にかすれて届くものに、またあの溶かされてしまいそうな感覚が生まれる。
「大丈夫。大丈夫だから」
だから、いったいなにが大丈夫なんだ。
あたしなんかより岡崎くんのほうが大丈夫じゃなさそうに思える。
低い声が繰り返す言葉が染みこんでいって、麻酔のようにぼんやりとめぐっていく。
熱すぎるてのひらにやわらかく腕を掴み取られたと思ったら、カラダが半回転した。
「信じてやって」
ふさがれていたものがゆっくりと離れていって、焦げた空の色とともにひらける視界。
目の前には、いつもどおりの岡崎くんの表情があった。
言葉の意味がよく分からない。
なにを、だれを、信じろといっているんだろう。
いや、本当は分かっている。
けど、分からないふりをしたい。
振り返りたい。
でも、もう見たくない。
「いこう」
手を引かれるまま、校門とは反対側に向かって歩き出した。
矛盾する気持ちばかりがぶつかり合って、自分の意思で次の行動が取れない。
正面に、夕焼けに焦げていく校舎と岡崎くんの背中。
後ろが気になって仕方ないのに振り返ることができなくて、ただその手にしたがった。
校庭の砂が足元で音を立てて、それが全身に深く突き刺さっていく。
岡崎くんの声は平気だったのに、こんな砂のこすれる音が痛くてたまらないのはどうしてだろう。
痛みをこらえるために、静かに目をふせた。
暗闇のなか。
まぶたの裏であざやかによみがえるのは、重なりあうふたつの影。
(ああ、そうか。)
どうやら、あたしはいま、すごく衝撃を受けているらしい。
『あゆ!』
別に、はじめから分かっていたことだ。
あのひとはあの村田くんで、こんなのはアタリマエのこと。
そのベビーフェイスと明るい性格でやたらめったら女子に人気があって、ムラムラの村田とかアホな通り名がつくくらい女好きで、来る者は拒まず去る者は追わず、女子であれば誰もが守備範囲という校内の有名人。
彼はそういうひとだと、知っていたのに。
『はやくオレをすきになって』
ちゃんと、わかっていたはずなのに。
『あゆと、キスしたい。だめ?』
あたしはものすごいカンチガイをしていたらしい。
「はなして!」
引っ張られたままの腕を振り解いて、足を止めた。
驚いた顔をした岡崎くんが振り返ってこっちを見ている。
そもそも、このひとだってそうだ。
ただの保健委員という間柄であって、こんな風にしてもらえるいわれがない。
『じゃあ、俺たちとずっといっしょにいようよ』
岡崎くんが優しいのは、村田くんのフォロー役だから。
あたしのためなんかじゃない。そんなわけがない。
これじゃ、カンチガイのオンパレード。
二段階のカンチガイなんて情けなすぎてごめんこうむる。
「長田さ、」
「こんなのなんてことないよ。だってあの村田くんだし」
そうだ。
彼はあの村田くんなんだから。
このひとはあの岡崎くんなんだから。
このふたりはあたしとは違う場所で、きらきらした向こう側にいるひとたちなんだから。
「関係ないよ。いままでがおかしかったんだから」
あたしは地味で、クラスの空気で、エキストラで、傍観者。
平凡で平穏で、穏やかな日々をつつましく生きているだけのその他大勢のひとり。
村田くんや岡崎くんみたいなひととかかわりのないところにいる人間。
だからずっと思っていた。
どうして、あたしなんだろうって。
「振り回されて迷惑するのはこりごりだったし、ちょうど良かった」
つま先に、ライン。
ここを越えたら、いけなかった。
そっち側にあたしもいけるなんて、なんでそんなことを思ってしまったんだろう。
「もうあたしに、」
「あゆー! 大地!」
かまわないで。
そう言い放つはずだった言葉は、後ろから聞こえた足音と声にかき消された。
甘ったるい声が耳に入るのと同時に、衝撃が背後から襲いかかる。
後ろから回された腕にきつく抱きしめられて、呼吸が止まった。
自分のものではないにおいがカラダを包み込んで、その熱を感じて混乱する。
「最近学校サボっちゃってごめんな。オレ、あゆに会いたくてそこで待ってたんだ」
この男は、いったい何を考えているんだ。
肩口に乗せられた顔。
声が髪の毛をくぐって、耳に響く。
いつもどおりの、甘すぎる声。
いつもどおりの、甘ったるい言葉。
あたしに会いたくて待っていた男が他の女の子とキスしてんのか。
校門で、あんな場所で、人目も気にしないで。
「会えてよかったー」
――その言葉に、自分のなかのどこかが切れていく音が、した。
「触んないで!」
吐き出したものと同時に、これでもかというくらい暴れてやった。
振り上げた足も、腕も、確実にどこかに当たった気がするけれど、そんなこと構うもんか。
ムリヤリに抜け出して、村田くんと向き合う。
どうやらあたしの腕はその頬に当たっていたらしく、片手で押えながら痛そうに顔をしかめているのが見えた。
「あゆ?」
「前々からいうつもりだったんだけど、あたしの名前は長田あゆみで、あんたにあゆなんて呼ばれる筋合いなんてない」
胸の中で渦を巻いていた無音の言葉が、いまさらになって真っ黒に染まってなだれてくる。
とまらない。
とめられない。
もうガマンなんてできない。
「いままでからかってお付き合いくださったみたいだけど、さぞかし面白かったでしょ? あたしみたいなのでも、退屈しのぎくらいにはなった?」
「長田さん、なにいって」
「岡崎くんもだよ。ふたりで何を考えていたのかは知らないけど、もう十分でしょう」
岡崎くんの言葉をさえぎって、後ずさる。
ふたりが視界に入るように。
きらきらとひかりを放つ、あの境界線の外側に立つように。
「二度とあたしに構わないで」
見据える。
痛む胸を、おさえて放つ。
「あんたたちなんて、だいっきらい!」
言葉も胸も、走り出した足に絡まる砂も、ふたりの視線も。
こんな自分自身も痛くていたたまれなくて、それから逃れるように走った。