act.14 子犬のゆくえ。
「なんだか、静かね」
「そうですね」
健康診断の日程表を掲示するために画用紙にハサミを入れていると、目の前でナカちゃんと岡崎くんがそんな会話を繰り広げていた。
保健室が静かなのはアタリマエじゃないか。
そう突っ込むのも面倒で、そ知らぬ顔をしてハサミを動かし続ける。
「どうしてこんなに静かなのかしらね」
「そうですね」
まるでどこかのお昼の番組みたいな問答。
しかも、まったく答える気もないような岡崎くんの声。
ハサミを握る手に力が入っていく。
「静かすぎると、なんだかもの足りないわよねえ」
「そうですね」
画用紙の破片が次々と床に散らばっていく。
もうどこにハサミを入れているのか分からなくなってきた、そのとき。
「ねえ、あゆちゃん。近頃、どうして村田くんがいないのかしら」
「あたしに聞かないでよ! ってかナカちゃん、最初っからわかってていってたでしょ!」
「長田さん、声、声」
放課後の静かな保健室に、あたしの声が響き渡った。
「だってちょっといじめてみたかったのよ。あゆちゃんてイジられキャラじゃない?」
突然なにを言い出すんだ、ナカちゃん。
というか、いままであたしをそういう目で見ていたのか。
爆弾発言と新事実に衝撃を隠しきれず、丸テーブルに顔を伏せる。
すると岡崎くんのほうから噴出す音がしたので、顔をかたむけて思いっきりにらみつけてやった。
「中山先生。長田さんが俺をにらんできます。怖いです」
「あら、村田くんがいないから不機嫌なのね」
「ちょ、ちがうから! そういう誤解を招くようなこといわないで!」
反射的に伏せていた顔を起こしてナカちゃんに食ってかかれば、くちびるに指を向けられた。
どうやら静かにしろとのことらしい。
原因を作っているのはナカちゃんのほうでしょうが。
「それにしても、なんで村田くんいないのかしらね。いつもあゆちゃんあゆちゃんってべったりなのに」
「……しらない。最近、みてないし」
そうなのだ。
いつも嫌というほどまとわりついてくる村田くんが、ここ数日、姿を見せていなかった。
休み時間もお昼も、そして放課後ですら、あたしは今日も昨日もおとといもその姿を一度も見ていない。
静かでいい。ようやく解放された。
そう思いたいのに、どうしてもこのあいだの出来事が頭からはなれない。
あの電話のあと、村田くんは飛ぶように帰ってしまった。
そのあと岡崎くんに送られて家に帰ったのだけれど、なんだか気まずくて電話のことは聞けなかった。
聞いちゃいけない、気が、したのだ。
あの空気の変化。
村田くんと岡崎くんの表情。
お姉さんの態度もどことなくおかしくて、気のせいじゃないことをまざまざと感じさせられた。
いったいあれはなんだったのだろうか。
最近、村田くんを見ていないこの事実と何か関係があるのだろうか。
「なに? 長田さん」
どうやら無意識のうちに岡崎くんを見てしまっていたらしい。
彼は手元のハサミを上手にすべらせて、器用に画用紙を切っていた。
その横顔からは何も読み取れなくて、ますます疑問符ばかりが積み重なっていく。
岡崎くんは確実に何かを知っているに違いない。
けれどその口を割らせるのは、とてつもなく困難な気がした。
「あゆちゃんも気になっているのよ、村田くんのこと。岡崎くんは何か知らないの?」
ちがう、とその場で大きな声を上げて言いたかった。
そう言えなかったのは、ナカちゃんの言葉があながち間違いじゃなかったからだ。
気になるに、決まっている。
いつも近くにいるはずのひとの姿が見えなくて、しかも様子がおかしかった。
不安材料はこんなにもカンペキに、目の前にそろっている。
「俺は何も知りません。まあ、あいつのことだから心配ないですよ」
穏やかな表情も、女子が色めき立つ低い声も、なにもかもいつもどおりだった。
でも一瞬だけ、ハサミを持つその手が不自然に動きを止めたのをあたしは見逃さなかった。
やっぱりおかしい。
岡崎くんは何かを知っている。
聞けばいいのに、分かっているのに。
その一歩が、どうしても踏み出せなかった。
*** *
響く鐘の音が、したたり落ちそうな果汁オレンジの空をふるわせる。
保健室での仕事を終えて外に出れば、甘ったるい色をした空に雲が薄く溶け込んでいた。
校舎の向こうは濃厚な赤。黒をゆっくりと深めていく。
夜はもうそこまで来ていて、生温い風が髪を揺らして通り抜けた。
『メガネ、はずしたのね。かわいいわ』
帰り際、ナカちゃんがそんなことをいった。
その言葉はここ数日だけでいったいどれだけ聞いたことか。
村田くんがあたしから取り上げたメガネは、いまだこの手に戻ってきていなかった。
あれから一度も会っていないのだし、返してもらうことすらできない。
ずっと外すことができなかったものだったのに、外してみればなんてことはなかった。
別にしつこく絡まれるようなことも、からかわれることもなかった。
プラスチックのフィルターを失った空は、やけにあざやかだ。
目から入ってきた色は、そのまま胸にしみこんでいくような感覚がする。
「もう、暗くなるな」
隣を歩く岡崎くんが、空を見上げて背を伸ばした。
その髪が夕焼けを吸収しているから、まぶしくて見ていられない。
きらきら。
きらきら。
あたしとは違うセカイのひと。ずっと、そう思っていた。
なのに、今はこんなにも近い。
プラスチックのフィルターは距離感をもくるわせていたらしい。
「帰ろうか、長田さん」
呼ばれた名前。
今日は、ひとつきり。
メガネがなくなって、こんなにもすがすがしい気持ちなのに。
なにかが足りなくて、すかすかする。
胸の空洞に首を振って、一歩踏み出す。
岡崎くんが数歩先であたしを振り返っている。
その向こう。
離れた校門前に、小さな影が見えた。
「あ、」
夕焼けが映し出す影は、校庭を割って伸びる。
きらきら。
きらきら。
影の根元には、見覚えのあるあのひかりがあった。
「どうかした、って、長田さん?」
自然に、踏み出していた足。
うなる砂を蹴って、前に進む。
いつのまにか岡崎くんをも追い越して。
校門に向かって速度を上げる。
言ってやりたいことがあって、聞きたいことがあって、あとはよく分からないけれど足が動いているんだからしかたない。
けれど、それは距離が縮まっていくにつれて速度を失い、止まった。
影がゆらめく。
ふたつに分かれていたものが、重なっていく。
あたしの、目の前で。
校門前にいたのは間違いなくあの村田くんだったけれど、ひとりじゃなかった。
短いスカートから伸びた細い足。
まっすぐな髪の毛とだぼついたカーデ。
背伸びをして、顔を近づけてはあふれる水音。
「――長田さん」
真後ろから聞こえた声はびっくりするくらい優しくて、あたしの目を熱っぽい手でふさいでいった。
プラスチックのフィルターがなくなったのに、今度は岡崎くんが視界をうばっていく。
真っ暗で、なにも見えない。
背中に当たる温度と、その息づかいがカラダをかけめぐっている。
最後に見えたのは、焦げていくオレンジとキスシーン。
その甘ったるい映像はいつまでもあたまのなかに焼きついて、離れなかった。