act.10 「キスしたい。だめ?」
少しだけ。
ほんとうにちょっとだけ、夢見たこともあった。
メガネを外して、スカートを短くして、髪の毛を染めたりして。
まつげをあげて、少しダイエットして。
伸ばした手の先に、だれかのてのひらがあったりして。
ちょっとくっついたりなんかして、どこかを歩いてみたかった。
あたしには到底ムリだと、百も承知だったけど。
『あゆ』
耳になじみはじめた甘ったるい声が呼んでいる。
吐息がかすめるせいか、なんだかくすぐったくてたまらない。
声のするほうへ、手を伸ばした。
その口をふさいでしまおうと思った。
けれど、手首に絡まる熱と引き寄せられていく力。
包まれていくカラダがあったかくて、少し、重い。
「ん……、」
閉じていたまぶたを、気合と根性で引き上げた。
目の前には細い青々とした草、土のにおい。
そして。
「め、覚めた?」
黄色い声の絶えない、あの天下無敵のベビーフェイスが、あった。
「むらっ……っ!」
「しー。大地が、起きる」
その顔に似合わない大きなてのひらに口を覆い隠されて、言葉が消える。
驚きのあまりカラダが飛び跳ねそうになった。
実際に飛び上がらなかったのは、あたしがいま村田くんの腕のなかにすっぽりとおさまっているからだ。
包まれたあの感覚とその温度の理由がわかって、納得すると同時に混乱した。
なんだ、この状態。
落ち着け、落ち着つくんだ。
まず。
自分の両手が、なぜか村田くんの肩にのせられている。
しかも、自分からしがみついているように見えなくもない。
でもって、頭の下に腕がある。
もちろん自分のじゃない。
それに、いまは口を隠されて声を出すこともままならない。
以上、現状確認終了。
って、やっぱり何なんだ、この状態は。
だめだ。なんかもう理解とか解釈とかそういう範疇を超えている。
さっきまで三人で川の字になって草の上に寝そべっていた。
それなのに、気がついたら村田くんと向かい合ってウデマクラされていた。
なんだ、これ。
いつのまに、どうしてこんなことに。
「あゆは抱き枕とか使って寝てんだろー?」
声が出せないので、とりあえず首だけ動かした。
いやいや、なんで素直に答えてるんだ。
そういう場合じゃないだろう、あたし。
たしかに家には長い抱き枕があって、それにしがみつくと落ち着いて眠れる。
でも、なんでそんなこと分かったんだろう。
「やっぱりなー。抱きよせたらしがみつかれて、どうすっかなと思った」
甘い甘い、かすれ声。
あたしだけに届くような、ちいさなささやき。
子犬みたいな目が細められて、子どもみたいに笑っている。
嬉しそうに、楽しそうに。
これは、たしかにかわいい、かもしれない。
口元を覆い隠しているてのひらの温度が、あたしをゆっくりと染め上げていく。
伝わる体温。
わずかに触れているだけなのに、指先までともってしまった火。
波打つ鼓動は風に揺らされて、さらにその速度を増していくばかり。
あたしの中で脈打って、それが響いて、この地面をもぐらぐらとゆらしてしまいそうだ。
「んんーっ!」
肩を押しのけて、口を押えている手を外そうとした。
なのに距離は広がることはなくて、逆に頭の下にあった腕に引き寄せられた。
「いまこの手を放したら、間違いなくちゅーするよ。それでもいい?」
距離なんてほとんどないに等しかった。
耳に直接響く音は、あたしのなかに入り込んでいつもよりもたくさんのものを溶かしていく。
いいわけあるか、と怒鳴りつけてやりたいのに、声も出せないこの状況。
それに、カラダが熱っぽくて力が入らない。
「あゆと、キスしたい。だめ?」
首を振るだけ振って、否定するつもりだった。
その言葉の直前までは。
それができなかったのは、そのくちびるが耳に触れたから。
しかも、挟み込むような感触と大きな音を立てて。
一瞬にして、背中に電気みたいなものが走った。
雷が落ちたようなその衝撃に、あわてて目の前のシャツにしがみついた。
なにいまのなにいまのなにいまの。
余韻がまだカラダを駆けめぐっている。
小刻みにふるえているのはそのせいだ。
「かわいい」
口元から離れていくてのひら。
冷たい空気が、ばかみたいに火照った肌をなでていく。
「しかたないなー、じゃ、これでガマンする」
シャツをつかんでいた指を一本一本外されて、外された指は大きな手に握られた。
指先が引き寄せられて、そのくちびるが触れる。
「おやすみ」
抜け出すタイミングは、カンペキになくなってしまった。
振りほどいて暴れて、脱出する気力もない。
とにかく疲れて、落ち着かなくて、あったかいをこえてあっつい。
たしかに、夢見たこともあった。
だれかと手をつないで、ちょっとくっついたりして。
でも、こんな自分にはムリだって、そう思っていたのに。
これじゃあ、ちょっとどころじゃない。
くっつきすぎて、呼吸もままならないじゃないか。
もしかしたら、これは夢かもしれない。
目が覚めたら、ひとりで抱き枕にしがみついているのかもしれない。
そうだ。
きっとそうに決まってる。
強引に決め込んで目を閉じた。
けれどこれは夢ではないのだと言わんばかりに、焼け爛れてしまった指がいつまでもうずいていた。