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act.1 その男、危険につき。






きみがすきです。


ぼくをすきになってもらえませんか。




きみのその手が、どうかぼくのものになりますように。









『欲情ハニィに溶かされて。』









はっきりいって、絶体絶命のピンチってやつだった。


背中には非情なる体育館のつめたい壁。

目の前には、迫りくる長い影。


音を立てて息を飲み下した。

壁に沿って走り出そうとしても、さらに距離を詰められる。


影の本体は腕を伸ばし、あたしの顔の横を通って壁にその手を押しつけた。

ということは、この距離は腕一本分しかないわけで。


もう逃げることもかなわない、という事実がそこにあった。


「ちょっ、落ち着こう。ね、村田くん」


作戦そのいち、相手をなだめる。


そのスキにてのひらでバリケードを作って、これ以上距離が縮むことのないようにしてみる。

できるだけ、穏やかな猫なで声を出しながら。


ところが。

目の前の相手はその整ったマユを引き下げた。


なんでそうなる。

あたしはいったいいまどこで地雷を踏んだというんだ?


「あゆはさー、なんでオレのナマエ呼んでくんないの」

「ひ……!」


さらに距離を詰められて、天下無敵のあのベビーフェイスはいまや目前。

甘ったるい声とウラハラに、大きな手があたしのてのひらバリケードをつかんで粉砕する。


なんであたしがあんたの名前なんか呼ばなきゃいけないんだ。

そうは思っても口には出せない。


情けないけど、ココロのなかで思っていることを形にできるほどあたしは強い人間ではないのだ。

負け犬根性よろしく遠吠えを得手とする自分が心底嫌だけど、上手に生きていくためには仕方のないこともある。


円満、円滑。

平凡、平穏。

上等じゃないか。


妙な自己主張をして、波風立てるなんてそんな面倒くさいことはごめんこうむる。


この状況を打破できるなら、名前でも何でもいくらでも呼んでやるわ。

そう意気込んで、重苦しい口をゆっくり開いた。


「たか、やくん」

「……やっべ、今マジでコーフンしたんだけど」

「いやいや、そういうのはよそでお願いします。ってことで、離して」

「ヤダ」


きっぱりとしたその宣言に、頭突きを食らわせてさっさと逃げてやりたかった。

しかしそんなことはできるわけもなく、そうこうしているうちに両手を強くつかまれた。


なんでそんなかわいい顔して、こんなにてのひらでかいわけ?


相手の右手は顔の横。

その左手はあたしの両手首をつかんだまま、いくら逃げようとしてもびくともしない。


身動きが取れないのはどちらも同じ。

五分五分の状況下なのに、その余裕の笑みに含まれたものが不安でしかたない。


それにしてもいやに手馴れている。

やはりうわさに名高い彼はこういう状況を幾度となく経験しているのだろう。


妄想が頭を駆けめぐって、つかまれた部分から温度が上がった。


「あゆ」


接近する、高校生らしからぬベビーフェイスと耳にくすぐったいハニーボイス。

呼ばれているのが自分の名前だなんて、ウソみたいだ。


黒目の範囲がやたらに広くて、まるで子犬のような大きい瞳。

くそ、あたしは小動物に弱いのに。


「はやくオレのこと、すきになって」


――ほら、きた。


またいつものように、繰り返される睦言が耳から流れ込んでくる。


あの日から。

彼はねだるように、あたしを求めるようになった。


頬をかすめる熱い吐息。

思わず目をかたく閉じて、くちびるを噛み締めた。

こんなやつの思い通りになって、たまるか。


「オレをあゆだけのモノにしてよ」


目を閉じても、いくら耳をふさいでも、その甘ったるい声は勝手にあたしのなかに入り込んでくる。

手当たり次第にかき回して、どろどろに溶かしていく。


触れられている場所から、血液が沸騰する。

それが皮膚を染め上げていく。

あたしはあたしという形を保てなくなって、自分を支えていられなくなる。


ヒザが小刻みにふるえて、長すぎるスカートのひだにあたる。

適当にひとつにくくっただけの髪の毛がほつれていく。

このメガネの向こうには、黄色い悲鳴のたえないあの笑顔があるんだろう。


なんでこんなかわいくもない、地味、空気、オタク系と三拍子揃ったあたしなんかがいいのか。

うわさの御方の考えはまったくをもって理解できない。

からかってこんなことをしているのならば、タチが悪すぎる。


地味を代名詞として生きてきたあたしの前に、突然現れたこの男。


無駄な抵抗だと知りつつもカラダをよじった。

スカートのポケットのなかでわずかに乾いた音が響いて、それが足から全身に広がっていく。


これさえなかったら、平凡な日常が壊れてしまうこともなかったのに。


「あ、鐘なったんじゃね?」

「え、」


微妙な空気を引き裂くように、空へと響くのはチャイム。

あっさりと解放された手と、距離。


思わず、ほっと息をつく。

そんなあたしを誰が責められるだろうか。いや責められるはずもない。


次の瞬間、視界は影に包まれて暗転した。



「――今度はほんとうにちゅーしちゃうかもよ?」



腕を回され、引き寄せられた腰。

アトがついてしまうかと思うほど、強くつかまれた手首。


あたしのてのひらはその口元へと導かれ、ささやかれた言葉が赤く染まる皮膚の上をすべっていく。


「じゃーな! あゆ」


押しつけられたくちびるの感触。

耳に残るいやらしい水音。

遠ざかる足音すら、このカラダを溶かしていく。


どうしようもなくなって、その場にしゃがみこんでてのひらを地面に叩きつけた。

あつくて、あつすぎてヤケドしてしまいそうだ。


「な、ん、」


なんで、あたしなんだ?


その問いに答えてくれるひとなんて、ここにはいない。

溶けていくものがあふれだしてしまわないように、押し込めるだけで必死だった。






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