停留所
田舎のバスの停留所に一人の男がいた。
停留所の周りには山と田んぼが広がっている。民家は疎らに立ち並んでいるだけで、数はそう多くない。ありふれたどこの農村にも見られる風景だった。
男は虚ろな目で道路を見ていた。太陽に炙られたアスファルトは、この日の気温がいかに高いかを伝えている。喧しく響く蝉の声も熱を持っているように聞こえる。けだるい空気の中で男はじっとそこに座っていた。
「探したぞ」
停留所の前に人の影が伸びた。その声の主は座っている男を見て安堵した表情をした。
「よう」
「いや、『よう』じゃないだろ!」
やや腹の出っ張った訪問者は文句を言った。彼は停留所に佇む男の友人だった。
「まあ、座れよ」
そう言葉をかけられた男の友人は言いたいこともあったが、蒸し暑さに汗を拭い、ひとまず腰を下ろしてから考えることにした。
「で、なんでここにいたんだよ?」
停留所の中は日陰になっていて、直接日に当たるよりはましだった。
「待ってたんだ」
「バスをか?ここのバスは1日に3回しか通らないぞ」
「昔は6本くらいあったよな?」
「減ったんだよ」
太った友人は溜め息をついた。
「……なあ、久々に帰ってきたんだ。向こうで何があったかは知らないけど、あんまり心配かけんなよ。そりゃあ、俺のところに居候ってのは気まずいかもしんないけど、気にし過ぎるような仲でもないだろ?」
男は友人の言葉に頷いた。
「昔はよく川で釣りをしたよな。覚えてるか?」
「あの川だろ。覚えてる」
停留所からは見えないが、二人の視線の先には渓流が流れていた。子供の頃に男はそこで山女魚をよく釣っていた。5人程度の仲間がいつもつるんで川遊びをしていたのだ。今では隣の太った友人だけが地元に残っている。
「今年は雨が少なくて、全然釣れないんだ。釣り好きの爺さんも困ってたよ」
「懐かしいな」
男はそう呟いた。
「ここはお前のホームだ。のんびりしていけ」
そう言って、友人は煙草を取り出した。
青白い煙が揺らめく中、男は言った。
「このバス停は、いわゆる、思い出の場所なんだ」
「なんかあったっけか?」
「お前は知らないと思う」
友人は灰皿に煙草を傾け、男のほうを向いた。
「俺は、物書きを目指してたんだ」
「それは知ってる。それで都会に行ったんだろ?」
「そうだ。そういうものを目指すとき、たいてい憧れの作家ってものがいる。俺にとってのそれは、この村出身の作家だったんだよ」
同郷の成功者、勝手に憧れるまでそう時間はかからなかった。
「そんな人いたのか?」
「いるんだよ。まあ、マイナーな部類だったが」
「へえ、知らなかったな」
自分の尊敬する人物が友人の記憶にないことを大して気にすることもなく、男は話を続けた。
「で、子供の頃、その人に会ったのがこのバス停だった」
そう語る男の表情は少し柔らかいものになっていた。
「そして、お前も物書きになった、と」
友人は煙草の吸殻を灰皿に押し込んだ。
「はあ、俺は実家の農業を継いだが、大変なだけで全然儲からない」
「米の値段が下がったんだろ?」
「ああ、そのくせ燃料代は上がって、ひどいもんだ」
友人は吐き捨てるように言った。視線の先には青々とした田んぼが広がっている。
「続けられないんだな」
「そのうち田舎から人はいなくなるよ。使われてない農地だって、この近辺だけでいくつあるやら……なあ、お前のほうはどうだったんだ?」
友人はどうにもならない問題を抱え込んでいるようだった。それはその土地の人間にとって誰もが知っていることで、分かりきったことだった。
「俺のほう?」
「都会だよ」
その言葉は外国でもさすかのような遠さを感じさせた。
「向こうはもっと暑かったよ」
男は灰色の街を思い出した。そこで過ごした日々とともに。
「一応、物書きだったんだろ?」
「最初はな」
男は含みのある言い方をした。
「じゃあ、その後は何をやってたんだ?」
「殺し屋」
男は表情を変えずに言った。
「卸屋?肉でも出してたのか?」
友人は首を傾げた。
「そんなところだ」
男は可笑しそうに笑った。それはどこか乾いた笑い方だった。
友人が「仕事があるから行く。夕方には帰ってこいよ」と言って、停留所を去った後も男はそこに残っていた。昼を過ぎ、蒸し暑さはさらに厄介なものになった。日陰にいても汗が流れ、吹き込む風は少しも涼しくなかった。
男がそこでそうしている間に、1台のバスがやって来た。
古びたバスが停留所の前で止まると、プシュウという音とともに扉が開いた。そこから一人の乗客が降りて来た。運転手が「乗らないのか?」と言うように男のほうを見たが、男は首を横に振った。
バスは唸りを上げ、発進した。色褪せ、剥げた塗装の車体を見送ると、一人の少女が立ち止まっているのに男は気付いた。
「あのー、地主さんのところに泊まっている人ですよね?」
目の前にいたのは、地元の中学校の制服を着た少女だった。遠慮がちながらどこか期待のこもった瞳で男を見ていた。
「ああ」
男の答えに少女は嬉しそうな顔をした。
「やっぱり!あの、ちょっとお話してもいいですか?」
「まあ」
どうでもいいか、と思いながら男は適当に返事をした。
「都会から帰って来た人だって聞いたんですよ!それも小説を書いていたって」
少女は興奮した様子で言った。
「一応は」
「私、感激です!なんだか凄そうな人が帰って来てるって聞いて気になってたんですよ。それがまさかいつも降りるバス停にいるなんて」
立ったまましゃべる少女に、男は席が空いていることを手で示した。それを見て、少女は停留所のベンチに座った。
「私も、小説とか書いてみたいなーと思ってるんですよ。やっぱり仕事にするのって大変ですか?」
「物書きだったのは、最初だけだ」
男の言葉に少女はきょとんとした顔をした。
「他のお仕事もしてたんですか?」
男は少し間をおいて、声を出した。
「殺し屋だ」
少女はぽかんとしながら、その言葉で漫画を思い浮かべた。
「殺し屋?デューク・東郷さんみたいな?」
「そんな感じだ」
男は面白そうに笑った。それは自然な笑い方だった。
「あのー、会っていきなりこんなことを言うのもなんですが、私、悩み事があって、聞いてもらってもいいですか?」
言いづらそうにしている割に、少女の言葉はすらすらと出てきた。
「構わない」
「あのですね、私の友達が事情があって塞ぎ込んでしまったんですよ。何とかしてあげたいんですけど、私じゃどうにもできなくて」
そう話す少女が友人を案じているのが、男にも伝わってきた。
「実は、その子のお父さん失踪しちゃったんです。後で知ったんですけど、その人小説家だったらしいんですね。この村出身の作家なんですけど、知ってますか?」
その後に少女が続けた名前は、男の憧れた人の名だった。男は無表情で少女の話を聞いた。
「書く仕事をしていたなら、何か分かることがあるかなー、なんて思ったんですけど」
「……悪いが、俺が知っていることはないよ」
「そうですか。うー、残念です」
少女は言葉通り落胆していた。
雑多な蝉の鳴き声にヒグラシの音が混ざり始めた。けれど、気温は変わらず蒸し暑いままだった。
「友達のところに行かなきゃいけないので、そろそろ帰りますね」
少女は少しばかり名残惜しそうな素振りをした。
「俺は、あの人がどこにいるかは知らないが……ずっと尊敬していた。それだけは変わらない」
「どうしたんですか?急に」
立ち上がった少女は振り向いて、不思議そうな顔をした。
「なんでもない。気を付けて帰れ」
「はい。お話できて楽しかったです!それでは」
そう言って、少女は去って行った。彼女がいなくなると、虫の音が男の耳に張り付いて聞こえだした。
日が暮れ、蛙が騒がしくなりだした頃、停留所に1台のバスがやって来た。ライトを付けた大型のバスは停車すると、扉を開けた。そして、一人の青年が降りた。運転手は停留所にいる男を一瞥すると、何も言わずに扉を閉め発進した。
「お久しぶりです」
スーツを着た青年は男に挨拶をした。
「よう、遅かったな」
「バスが1日に3回しか出ないなんて、思ってもいませんでしたから」
青年は困ったような顔をした。
「前はもう少し多かったんだがな」
薄暮の中、男は遠ざかっていくバスを眺めた。
「先輩、戻ってくる気はないんですか?」
感情を抑えるような声だった。
「今更戻れないだろう」
男の声は平淡だった。
「あの1件は僕が片付けました。多少は辛い目に遭うでしょうが、復帰は可能です」
「そうか」
停留所の照明に蛾が集まりだしていた。涼しげな夜風に乗って、羽虫が寄ってくる中、男は黙り込み何かを思案しているようだった。青年は沈黙を破るように言葉を発した。
「先輩は優秀な殺し屋です。ずっと尊敬していました」
「それはありがとう」
「……ですが、先輩は一人の男を殺し損ねた」
「ああ」
男は機械的に相槌を打った。
「どうして先輩が失敗したのが、ずっと疑問に思ってました」
青年がそう言うと、男はじっと彼の眼を見た。
「殺せなかったんじゃない。殺さなかったんだ」
男はその時初めて、強い意志を見せた。
「……理由を聞いてもいいですか?」
青年は強張った表情をした。それとは対照的に男は穏やかな雰囲気で言った。
「尊敬と憧れ、だよ」
男はそれまでずっと、冷酷に仕事をこなしていた。他の同業者からも信頼されるほどだった。しかし、かつて人生の目標としていた人物に会い衝撃を受けることになる。向上心の原動力となった人物に、なぜ銃を向けなければいけないのか。
その時初めて、自分の仕事に戸惑いを覚え、その標的を生きたまま逃がすことにした。
「でも、無駄だった。お前が代わりに殺したんだろう?」
「はい」
青年の声は冷たく響いた。
「……もし戻らないのであれば、僕も仕事に移らなければなりません」
「そうだろうな」
男の態度に、青年は苛立った。
「なんでそう平然としていられるんですか」
「優秀な後輩がいるからだよ」
「僕は、出来ることなら、先輩を殺したくないです」
青年の表情は苦しそうなのを我慢しようとして歪んでいた。しかし、彼の手は言葉とは裏腹に拳銃を取り出していた。その銃身はゆっくりと、男のほうを向いた。
「お前は仕事のできる良い後輩だ。俺とは違う」
「……何か、言い残すことはありますか?」
青年は努めて冷静であろうとしていた。そんな後輩に、男は最後に1つわがままを思いついた。
「別の場所に移動してもいいか?ここは思い出の場所なんだ」
青年は肯い、男は停留所から出て行った。