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異世界チート主夫と六人の妻  作者: 茅葺
オリヴィア・オレインシュピーゲルと三人の訪問者
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拍子抜けの顛末

「二階の、こちらの部屋です」

 漆喰で塗り固められた狭いながらも清潔感のある廊下を、モーブさんが先に立って歩いていく。ぼくはこの店の二階、宿屋部分に立ち入るのは初めてだった。なぜかといえば大きくても二人部屋までで、五部屋しかないからだ。

 妻たちのうち、オリヴィアだけに来てもらった。ほかのメンバーはその間にほかの宿屋を見て回っている。ああ、もう一人。クレアムはずっと僕の肩の上だ。


「お客って、どんな人だい?」

「戦士、ですかねえ……腰には立派な剣を提げてましたし。物腰も上品で、申し分なしの上客だと思ったんですがね」


「名前は?」

「前払いで三日分の部屋賃を頂いたもんで、細かくは。アルフレッドさんとしか」

「大当たりの予感がしてきたな」

「なのじゃー」


 この世界、さすがに二一世紀日本での常識が全く通じない部分がある。こうした宿屋のルーズさがその一つ。


 識字率が低いせいだ。誰もかれもが宿帳を記帳できるわけでもない。加えて戸籍や人別帳の類もいい加減。貴族や聖職者、富豪など社会的重要性の高い人間、もしくは各都市に人相書きが出回るほどの犯罪者を別にすれば、どこから来て何をしていたところでさほど気にされない。



 ああ、君は今、魔物が変身の魔法を使う可能性について危惧したことだろう。その疑問は至極当然、しかしそんな魔法が簡単に使えるならステラだって気軽に街へ出られるし、ぼくがあのあばら屋で着替える必要もない。魔法について王国でもトップレベルのノウハウを持っているぼくらが、あえて地味な変装や印象操作の魔法で留めるのには理由がある。


――変身の魔法は、あるにはある。だがそれは使用すれば比較的短期間で、被術者の存在そのものを変化させてしまうのだ。変身が高精度であればあるほど危険。


 考えてみてほしい。君が仮に犬に変身したとする。目はほとんど弱視で色彩も限定的にしか感じることができず、嗅覚と聴覚が拡大された状態で前肢を地面について走る生活だ。そして犬の大脳皮質の容量と、特有のホルモン分泌に思考を制限される。さあ、君の精神と魂はいつまで人間のそれであり続けられるだろうか?


 魔物であればなおのこと。彼らはその強壮な身体と超自然、あるいは準自然のパワーを鮮明に感知、あるいは行使する能力にアイデンティティーのかなりの部分を依存している。魔法で人間の姿に化けて潜伏している間に、ひ弱で鈍感な人間そのものに変化してしまうようなリスクを、彼らは取らない。


 結局のところ人間社会に人間として生活しながら、周囲に知られることもなく陰で悪事を働く手合いが一番恐ろしい。だがそういうやつの相手は基本的にニューコメン男爵のようなお役人の領分だ。

 

 というわけで宿屋であれば関心ごとの核心は宿賃の回収、これに尽きる。このクラスの安宿なら大抵の場合は、とりはぐれが無いように前金で客を入れる――ぼくも旅をしていたころはその気楽さの恩恵にあずかったものだ。



 オーク材の厚板でできた重い扉をノックすると、中から返事があった。


「開いてますよ、どうぞ」


 何の悪びれる風もない、穏やかで人の良さそうな声。間違いない――ゆっくりとドアを開けると、洗いたてのシーツで覆われた清潔で小ぢんまりしたベッドの上に、ヘルツォーク氏が腰かけていた。


「ああ……勇者シワス。どうしました?」


 どうしました、もないだろうと思うが、この様子だと彼にはまったく悪気がなさそうだ。


「ああいや、ええと、すみません。どうも誤解がありまして……あなたは『マンスフェル王立学会報』の編集者ではなかったんですね?」


 そうだ。少なくとも彼は自分では一言もそういわなかった。


「ああ……もしかして、それで私にこの論文を? いや、面白い読み物でしたがいつまで借りていてよいものかと、少し悩んでいたんです」

 彼の手にはオリヴィアの原稿があった。手元の様子から察するにどうやらちょうど読み終わったところだったらしい。


「まさか……こんな短時間でもう読み終えてしまったんですか?」


 オリヴィアが膝から落ちそうになったのを、ぼくは辛うじて右腕で支えた。ぼく自身もその場に座り込みたいような気分だった。ヘルツォーク氏には何の意図もない。ただただふらりと屋敷に現れてお茶を振舞われ、読み物を借りて宿に帰った、それだけだったというのか?


 とすれば徹頭徹尾、ぼくの勘違いと一人相撲。挙句にニューコメン男爵とその配下にまで、大騒ぎをさせてしまったというわけだ。だがそうなると最後に疑問が残る――


「……あなたは一体、誰なんです?」


 品のよい好人物、という概念そのものを形にしたようなこの男は何者なのか? 彼の答えはさらに奇妙なものだった。


「私にも、よく分からないんですよ」

 彼は困ったように首を傾げた。ほとほと困った、というふうでもないのが逆に説得力をかもしだす、そんな物言いだ。ぼくは一声唸って頭を抱えた。


「……どういうことなんだ。あなたはぼくを知っているようだった。オリヴィアの顔にも見覚えがあると言った。それでいて、自分のことが分からないと?」


「ええ。具体的には三日前よりさかのぼった過去の記憶がありません。気が付いたらこの格好で剣を持って埠頭に立ってました。その時点でわかっていたのはうろ覚えな自分の名前――『アル』で始まる前半と『ヘル』で始まる後半でできているそれと、あなた方一家の顔ぶれと、この町にいるということだけです。お宅に伺えば何かわかるかと思ったんですが」


「滅茶苦茶だ」

 言っていることを信じるとすれば、この人物は記憶喪失の類に陥っている。名前を言いよどんだりしたのはそのせいか?


「わかったのじゃ! ヘルヘルはうちの子なのじゃ」

 クレアムが満面に笑みを浮かべてとんでもない結論をぶち上げる。

「さすがにそれはないよ、クレアム」

 言下に否定したが、正直ぼく自身もその結論に飛びつきたいほどだった。わが家にぼくらが成した子はいないが、うちの誰かの親族、あるいは世界を旅する中で一時的に行動を共にした誰かということならあり得る。記憶喪失だとして頭に残っている情報が自分のおぼろげな名前とぼくらのことである以上、そう考えるのは自然だ。だが、どうしてもそれを受け入れる邪魔をする事実がある。


――この人物には、今日が初対面。全く見覚えがない。


 それなのに、困ったことに壁に掛けられた彼の剣にはどこかで見覚えがあるのだ。ぼくはため息をついた。さっぱりわからない。


「とにかく、原稿は返してください。一尋館で本物の編集者が待ってるんで」

『ヘルツォーク』氏から羊皮紙の束を受け取ると、オリヴィアは枚数と通し番号を確認した。一枚の抜けもなかった。


「一旦帰ろう、オリヴィア、クレアム。みんなにも伝心の指輪で連絡を。今日はまだチャージを使ってないからね」

 戸口へ向かうぼくの肩の上で、クレアムがお尻を弾ませながら叫んだ。


「ヘルヘル、また遊びに来るといいのじゃー!」


「ええ、差し支えなければ是非。私はもうしばらくこの宿にいますから」

 記憶喪失の男はどこか茫洋とした表情で、穏やかにそう言った。

  

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