アカン勘違い
「早かったじゃないか、オリビィ――ちょうどいい、新しい編集さんが見えられてるところだよ。こちら、アルフレッド・ヘルツォークさんだ」
「あら」
オリヴィアはまだ少しとろんとしていた眼をしゃっきりと見開いて、仕事をする時の表情になった。
「そういえば、今回から原稿をとりに来る編集さんが変わられるって、先週に連絡があったわね。ごめんなさい、あなたに伝えてなかったわ。混乱しなかった?」
ああ、やっぱりそういうことだったか。ヤマ勘を働かせたのがどうやらどんぴしゃりだったわけだ。
「大丈夫、この通りさ。ちょっと別の混乱はあったけどね」
マーガレットとステラがビクッと首をすくめ、恐る恐るこちらを見る。ぼくは微笑みを浮かべて彼女らに目配せをし、気にすることはない、と手振りで伝えた。
「初めまして。お早いお着きでよかったです。夕刻の鐘からまたすぐ発たれるということになったりしたら道中大変じゃないかって、心配してたんですよ。それで、少し早く起きてしまいました」
オリヴィアは優しく微笑んでそういった。彼女は寝室からここまで来る間に、髪をくしけずり化粧を整えて、朝とは別人のような出で立ちになっている。
この細身のヴィーナスが妻の一人だという事実に、ぼくは背筋を陶酔の波が駆けあがるのを感じた。
「ヘルツォークさん、こちらが僕の妻、そしてあなたの担当執筆者、オリヴィア・オレインシュピーゲルです。妻ともども、よろしくお願いしますよ」
「あ、どうも。ご尊顔はその、以前に……」
「あら?」
オリヴィアがいぶかしげな表情になる。
「どこかで、お会いしたかしら……?」
「ああ、いえ。遠目にお見かけしたというだけですので」
アルフレッドははにかんだ表情で俯いた。
「ああ、そういうことでしたの。終戦からしばらくはなにかというと園遊会やパレードに召し出されてましたから、きっとその時ですわね」
オリヴィアが納得顔でうなずく。
「あー。たぶんそうだろう。それにしてもあのころは私生活なんてないに等しかったなあ……」
ぼくのあいづちは我ながら少し恨めしげなものだった。正直冷静さを欠いていたと思うが、これは仕方のないことだ。
今思い出しても歯ぎしりをしたくなる。遍く世界をめぐる苦難の旅の果てに黒竜王を見事征伐し、報酬として二年間親睦を深めたパーティーの仲間たち全員と婚姻の許可を得たというのに、数か月にわたってほとんど自由な時間が取れなかったのだから。おあずけもいいところだ。
「すまんシワス。アレはまず間違いなく、うちの父上の差し金があったのだ。最後まで私たちの結婚に反対していたからな」
マーガレットが心底申し訳なさそうに肩をすくめた。
「仕方ないよ。お父上にしてみれば、一粒種の跡取り娘をさ、一切の特権や栄達を放棄した男のハーレムに取られたわけなんだから」
マーガレットの実家、リンドブルム伯爵家は爵位こそやや低いが、広大な領地と先代からの外戚としての隠然たる発言力を持つ、実力派の大貴族なのだ。
間の悪いことに今に至るまで伯爵家の嗣子はマーガレット一人。本来なら女子相続人として入り婿を迎えるのが順当だ。
「それはわからんでもないが……なあ、シワス。子供を作るならまず私に頼む! 孫ができれば父上も、少しは軟化するのではないかと……」
――エヘン
さすがに咳払いで会話を止めた。
「マーガレット、そこまで。お客様の前だし、それは君とぼくだけで決めていいことじゃない」
「あッ……す、すまん」
マーガレットは顔を真っ赤にしてうろたえた。
「あたしは全然かまわないけど、ねえ」
ステラが生温かい視線をマーガレットに向ける。エルフ種のご多分に漏れず、彼女たちダークエルフも寿命と出産可能な期間が人間に数倍する長さ。焦る必要が全くないのだ。
ヘルツォーク氏はぽかんと口を開けているばかりだった。なんだこれ気まずい。
「そ、それじゃあ原稿をとってきますね」
オリヴィアは会釈しながらそういうと、半ば逃げ出すように階段のほうへと小走りに去っていった。
数分後、原稿の入った包みを抱え、ヘルツォーク氏は屋敷の門を出た。僕とオリヴィア、それにステラとマーガレットが見送りに出た。
「どうも、ごちそうさまでした」
原稿を小脇に抱え、ヘルツォーク氏が会釈をして丘を下りていく。彼の剣はジーナの手から返還され、柄頭の宝石が肋骨の下あたりの高さで輝いている。それが町中で佩くにはやや不釣り合いなほどに豪壮な造りの大きな剣であることにぼくは気が付いていた。
「お気を付けて、またのご来訪を!」
ぼくは心の底からそういった。野暮ったいまでに無口で訥弁、世慣れない感じ満載だが、新しい編集者は好ましい人物と思えた。末永く付き合いができそうな気がする。
彼の姿が坂の下で角を曲がって見えなくなったその時、ふとオリヴィアが不審そうに首を傾げた。
「ねえ、シワス。あの方、お名前は何と?」
「ん? アルフレッド・ヘルツォークさんだよ。さっきそう教えただろ」
「そ、そう……」
「どうした?」
オリヴィアの様子がちょっと気になる。僕は彼女の手首にそっと手を触れ、すみれ色がかった瞳をのぞき込んだ。
「先週届いた手紙に、編集さんの名前、書いてなかった気がするのよね」
ふむ。
「……確かにちょっと変だ。急遽決まったのかな、人事が。ほら、ここって辺鄙な町だし――」
そういいさしたぼくを、オリヴィアがさえぎった。
「何だか心配になってきたわ。取り越し苦労だといいけど。ねえ、シワス。あなたには一つ、良くないところがあるのよ。自覚してる?」
オリヴィアがかすかに眉をひそめてこちらを見た。口元は笑っているが、内心の懸念を隠せていない様子だ。
「何だい、それは」
「あなたの人の好さと一体になってると思うんだけど……なんというか、物事をとても好意的に解釈して、それに従ってものすごく迅速に動くでしょ」
「あ、うん」
「ヘルツォークさん、ご自身の口から編集だっておっしゃったわよね?」
「……あ」
そういえば、彼の口からは一言も言ってない。
夕刻の鐘が響いた。丘の下から馬が二頭、駆け上がってくるのが見えた。