倒立した世界
「黒の紀元314年 第一節期 32日――」
オリヴィアの声が馴染みのない書き出しの文面を読み上げていく。ぼくは先ず、その日付に今馴染んでいる月の名前がないことに違和感を抱いた。
果実月、麦刈月、狩猟月――この世界の暦では、各月には1年の生活サイクルに根差した魅力的な名前がついている。ぼくにとってそれはフランス革命暦などを連想させる。
たとえば今は狩猟月。地球でいえば10月初めに当たるくらいの、涼しさの増す気持ちのよい季節だ。
では、オリヴィアが読み上げているこの手記の奇怪な暦法は、いったいいかなる時代の物なのか――
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黒の紀元314年 第一節期 32日
今日から私がこの施設の責任者になった。厄介払いされたのだと嘲笑する向きがあるのは知っている。だがここは我々にとって重要な最前線、回帰への第一歩だ。できることをやっていこう。
志願者と(判読不能)との融合を試みることにする。
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薄片は見かけよりずいぶん丈夫だが、それでも長い年月に耐えて判読可能なページはほんのわずかだった。オリヴィアは細い指でその薄片をめくり、読み取れる文字を拾って読み上げた。
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第一節期 42日
委員会は『卵』の使用許可を出してくれない。(判読不能)が遂げられたあかつきに備えて温存したいのだ。それはわかる、もはや正常に動くものは数少ないのだから。
だが、『卵』の力を借りずに我々の目的を達成することはおそらく非常に困難だろう。それでも(判読不能)
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「この、『卵』というのは?」
顔を上げてオリヴィアに視線を向ける。文字通りの意味ではないだろうが、その単語は淡々とした手記の中で妙に場違いな印象があった。
「えっと、よくわからないのよ。現代の言葉にそれに相当するものはないし、類語も一切存在しないの。ただ、古代語の『萌芽』を表す言葉と、幼く小さい形態を表す接尾語が合成すると、音韻が似たものになる事が類推できるのね」
「なるほど、それで暫定的に?」
「ええ。その何かを、『卵』と呼びましょう。元の言葉は発音しづらいから」
オリヴィアが読み上げを続ける。どうやらこの手記を残した何者かは、想像したよりもまともで、どちらかと言えば英雄的な精神性を持つ人物だったらしい。
記録を最大限好意的に解釈すれば、何か困難な状況から同族が失地回復するために、個人的には得られるものの少ない仕事に部下を鼓舞しながら取り組んでいた、ということのようだ。
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第一節期 58日
実験はまた失敗した。貴重な人命が失われたことに呆然とする。これで二十人。せめて彼らが食事をともにした人々のいる所に少しでも近い場所に葬ろう。安らぎのあらんことを。
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第二節期 15日
外の影響はここにも及んでいるらしい。新たに2つの死体が再生を遂げた。恐ろしいことだ。我々はともかく、死者には奴らの力から身を守るすべはない。(判読不能)などの対策を講じなければならない。
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唐突におぞましい内容。彼らが作ろうとしていたのは少なくとも不死生物ではないらしかったが――うち捨てた死体がとげた再生、とは不死生物としてのそれに違いない。
「『奴ら』って、なんだろう?」
「気になりますね……内容からすると、死体を不死生物モンスターに変えるような、超自然的影響力を及ぼす存在が、この外を徘徊していた、とでもいうことでしょうか」
ジーナが恐ろしいことをさらっと口にする。君主級のバンパイアでも、眷属を増やすには吸血という直接的な接触を必要とするのだが、この手記で言及される存在はさらに想像を絶する。
「ここは最前線、とあったな……」
マーガレットが唇を舌で湿してそうつぶやいた。
「すると、ここは迷宮の最も浅い階層ではなく、彼らにとっては、逆に……」
「最も危険な、絶望に近い場所――」
ぼくらは顔を見合わせて、オリヴィアに続きを促した。
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第二節期 (判読不能)
……通路の制御は正しく働いている……下にも制御レバーを……『掃除屋』……(大きな紙面損傷)
皮肉にも、こんなものだけは成功した。これもまた奴らの(以下判読不能)
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これは、下の一方通行のことか? それを指摘するとオリヴィアは消極的に肯定した。
とすれば、通路のトラップを解除してステラたちを救う可能性があることになる――
妻たちの表情が少し明るくなったのがわかった。
「まだ何か、情報はある?」
「どうかしら? 最後のページは読めるけど、かなり錯乱した感じよ」
そう前置きして、オリヴィアは再び読み始めた。
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最悪だ! 地震で南東のエリアが崩れ (判読不能)
居住区との連絡が断たれてしまっては、我々はもう長く生きられない。委員会が救助を派遣してくれる可能性は低いが、できる限りのことをやってみよう。
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(人名のようだが判読困難)が起き上がった。何とか振り切ろうとしたが今ドアの外にいる。私も、もはや、これで
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「何か恐ろしいことが、この手記が書かれた時代に地上で起こっていたらしいな」
「そうね。この手記はこれ以上風化が進まないような処置を早急に施して持ちかえりたいところよ。これまで存在さえ知られていなかった、太古の災厄……」
オリヴィアが夢見るような表情になった。
メリッサがうなずく。
「この迷宮が、存在意義としては私達が考えるのと逆の構造になっていた、というのが興味深いわ……どうやら、ステラたちがいる下層よりさらに奥があるってことになりそうね」
ぼくの脳裏には奇怪な光景が描き出されていた。闇に閉ざされた世界。人類かあるいはまた別の何かが地底に居住区を築いて細々と寄り集まり、不死生物を作り出すおぞましい存在が地上を闊歩して彼らとその死者を脅かす。
恐ろしいビジョンだ。黒竜王との戦争がのんきなままごとに思えるような、絶望的な状況が想像された。だが、この記録の中で今僕らに必要な情報はごく一部だ。それさえわかれば良かった。
「この小部屋を探索した意義はあったな。下層での方針もこれで決まったようなものだ。降りて、まずは通路を制御するレバーとやらを探そう!」
太古に何があろうと、こんなところでステラを失うわけにはいかない。失ってたまるか。
ぼくはもう、愛する女たちを決して手放さない。誰一人として、残忍な神の手に戦わずして引き渡しはしない――あの日、そう決めたのだから。




