蟷螂蟹
(昔、親父が古いゲーム機でこんなのやってたっけなあ……)
この世界に召喚される前の記憶が久しぶりによみがえる。地球でのぼくの家族は両親とさつき姉さんとぼく。姉さんが他県の短大へ進学するまでは、狭い家に親子四人で仲良く暮らしていた。
父は自分の若いころに発売されたTVゲームを偏愛していて、食後ののんびりした時間は大抵、迷宮探検を題材にしたほの暗い雰囲気の3Dダンジョンを睨みながら、無心に決定ボタンを連打していたものだ。
今いるこの迷宮は、偶然とは思えないほどにあのゲームに酷似していた――細く急な階段を下りたところにがらんとした広間があるところまで。
『心の灯』の呪文が作り出す柔らかな光で照らされた、回廊のずっと奥からは、硬いものがこすれ合う音がガサガサ響いてきていた。
「何かいる。十中八九、蟷螂蟹だ」
「ふん……私の出番だな」
マーガレットが盾を構えて前に出た。彼女の『量子の騎兵刀』は装甲を纏った相手にこそ真価を発揮する。ぼくもその後詰の位置で進む。
光の中に浮かび上がったのは、全長5m、甲羅の幅2.5mほどに及ぶ甲殻類だ。『蟹』と呼ばれてはいるが、体節の構成や足の数からはむしろヤドカリ類を思わせる。
地球の生物で一番近い印象の物はヤシガニ、ただし前肢は鋏肢ではなくカマキリやシャコのように折りたたまれた、鋭い棘を備えた俊敏な器官だ。
薄茶色の体表にはシマウマを思わせる黒い縞模様が走り、模様の辺縁部には光の回折で生じる虹色の輝きを帯びている。さほど広くない回廊に、それが四匹うごめいていた。
身体の前半部をグッと持ち上げてこちらへ向けた彼らの、太い鉤爪状の足が並ぶ下には、おぞましいことに人間の身体らしきものがあった。
頭にカッと血が上りかけたが、マーガレットがそれを指さして冷静に僕に告げる。
「見ろ、シワス。あの死体、頭に角矢(クロスボウの矢)が刺さってる。たぶんウェスト兄弟――ジェイクが倒した敵だ」
「ああ……すると、カイルたちが見たっていう盗賊の……」
ぼくらとほぼ入れ違いになったウェスト兄弟とは、ステラ救出に気がせいていたせいでほとんど情報交換ができていない。だが、差し当たって彼らが一階だけを一通り見て回ったことは確認していた.。第二階層はまだだ。
すると、彼らはおそらく帰り際にこの死体の原料と遭遇したわけだ。後始末もしないというのはいささか感心しないが――
「来たぞ!」
夜行性の蟷螂蟹は、強い光を嫌う。ぼくらの存在は彼らにとって排除すべき脅威と判断されたらしかった。
プロボクサーのジャブめいて繰り出された前肢の一撃を、マーガレットが盾で巧みに逸らした。延びきった瞬間に、その中間部を騎兵刀で薙ぐ。甲殻の内側で筋肉が断ち切られ、その肢は力を失ってだらりと垂れ下がった。
蟷螂蟹の口元で触腕がカチカチと打ち合わされ、緑色を帯びたあぶくがブクブクと盛り上がって弾ける。続いて別々の個体から都合三本の前肢が飛んできたが、それはぼくが『渦潮の舌』で処理する形になった。
幅広い剣身に次々と重いものがぶつかる衝撃――きちんとさばけていても、冷や汗が出る。
質の悪い剣ならこの二発目あたりで折れてしまうし、次の瞬間にはぼくの鎧は陥没するか穴が開く程度のダメージ、兜なら中の頭がつぶれてお陀仏だ。だが、信頼できる武器と一度高みを極めた経験はぼくを裏切らない。
斬り飛ばされた前肢と割れた甲羅が床に転がる。マーガレットが二匹目を無力化し、オリヴィアがメリッサから手渡された錬鉄の小球を床に転がして短い詠唱を敢行した。
「鉄棘の杭!」
鉄球を触媒に、周囲の石材から鉄分がかき集められて巨大な鉄菱のような形に成長していく――蟹の甲殻を貫くのに十分な強度とスピードを伴って。10秒ほどもがいた後、滅茶苦茶に刺し貫かれた蟹たちは体液を失って動きを止めた。
「食べられないのよね……蟷螂蟹」
メリッサが微妙な表情で、早くも分解による悪臭を発し始めた蟹の死骸を一瞥した。
「思い出すからやめてくれ」
経験の浅い時期、何とか倒したこいつを食材に、と色気を出した所為でひどい目に遭ったことがある。
こいつらは幼生の段階では水中の微細なプランクトンや水底の腐植、大きくなってからも専ら腐肉を漁って食う。
前肢の強烈なパンチで生き物を殺すのは確かだが、隠れ家に引きずりこんだ動物の死骸を長期にわたって抱え込み、腐っていようがお構いなしに貪り続ける。蟷螂蟹の肉はほとんどの場合、汚物由来の病原菌で汚染されているとみて間違いない。
足元の人間の死体だけ、色々と我慢しながら検分――さすがに『スケイル』らしきものは所持していない。死体は二人分だけ。
「どういう状況だったんだろう? ウェスト四兄弟との遭遇は」
「何かの用事で、出てきていたんじゃないでしょうか。この回廊に」
ジーナが首を傾げた。
「つまり……どこかに二十人程度の人間が隠れられる、ある程度独立した区画がある?」
「そんな場所があるとすれば、おそらく、そう遠くないところだ」
マーガレットが石壁の向こう側を見通そうとするかのように、周囲を見回した。
「気になるけど、あまり余計な調査に時間はかけられないな。ジーナ、隠し通路の類がないかどうかだけ確認を頼む。このまま回廊沿いに進もう」
ジーナが最後尾に回る。階段から北へ進んだぼくたちは、蟹がたまっていた部屋とも広間ともつかない場所を抜けて東へ進み、十字路へ出た。後からジーナが声をかけてくる。
「シワス様、今通った回廊の北側、おそらく隠し通路があります。空気が動くのを感じました。あと人間大の熱源が複数」
「分かった。帰りに鉢合わせする可能性があるが、今は心に留めるだけにしよう」
人間相手なら、無駄に殺戮を働く必要はない。利害が対立しなければ友好的にその場を離れられる可能性は高いのだ――ウェスト四兄弟は違う判断をしたのだろうが。
ステラの情報によれば、この階層は大まかに正方形をしているが、所々でその外郭は窪んでいる、ということだった。ということは、外周部を囲む回廊は多分、全部は繋がっていない。この十字路を基点に動くのがよさそうだ。
十字路をまず左に折れて北へ。しばらく行くと突き当たってT字路がある。ぼくは少し考えた末、左へ進むことにした。その先はさらに左へ曲がる通路。角を曲がった瞬間、、ジーナの手が伸びてき手ぼくとマーガレットの襟首をつかんだ――5m後ろから。
「停まってください。気を付けて。その先、床がありません」
「落とし穴か!」
ぞっとして一歩下がり、改めて足元に口を開けた奈落をのぞき込む。かなりの深さだ。
もしかするとここを伝って下の階層へ行けるかもしれない――




