元勇者のにぎやかな朝 その1
左腕が温もりに包まれている感覚――血の色をした夢の世界から今日もお目覚め。眠りと夢が安らぎを保証するものでなくなって久しいが、こればっかりは仕方のないことだ。
温もりの正体は知っている。クレアムのぷにぷにしたお腹なのだ。
温もりはやがてゆっくりと蠢きをはじめ、肘から肩のあたりまで腕伝いに這い上ってきて、毛布の海を抜け枕の上に浮上した。
「ぷはぁ……おはようなのじゃー」
50mプールを潜水で泳いできたといった風情で、クレアムが目覚めの挨拶をする。
目の前に現れたのはおおよそ八歳程度に見える、薄緑色の髪をした女の子だ。シナモンとシュガーとその他もろもろでできているたぐいの幼い笑顔。
「おはよう、クレアム」
ぼくは彼女を抱き寄せて、ミルクのような甘いにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。『妻』の一人ではあるしそう自称しているけれど、この子は実質的に娘のようなものだ。彼女がベッドにやってくる週に一度の夜は、貴重な癒しの時間なのである。
そしてそれは、たったいま幕を閉じた。
「起きてベッドから降りるけど、どうする?」
「おんぶにするのじゃ」
「ほいほい」
クレアムを背中に回して背負い、窓辺に歩み寄って鎧戸を開け放つ。町の南西に面して広がった港には、昇り始めた太陽が今まさに金色の光を投げかけているところだった。
林立する船のマストから海鳥が飛び立つ。その無数の白い翼が集まって水中の魚群のようにゆらりと動き、一瞬だけ日をさえぎって灰色の影に変わった。
眼下に広がる町は、おおむね中世ヨーロッパをイメージさせるものだ。それもどちらかと言えば地中海に面した南欧の雰囲気だった。
しっくいで白く塗りあげられた家の壁が、それぞれの影とで複雑な入り組んだ模様を描き、屋根瓦の青やオレンジ色の輝きが目を打つ――いつもと同じ、美しい朝だ。
「よし、洗面所に降りて歯を磨くぞ。それから朝ごはんだ」
ぼくは背中のクレアムに告げる。
「ごしごしのぶくぶくなのじゃ?」
「うん、ごしごしでぶくぶくだ」
かれこれ八年以上繰り返してきた会話だった。ぼくの第五夫人、クレアムがぼくの存命中に成人することはない。ずっとこの調子だろう。
彼女は人間よりはるかに長い長い寿命を持つ、竜族の幼生体なのだ。
既に三百年近く生きているはずだが、生きてきた時間相応の老成したところなどこれっぽっちも感じられない。
洗面所は一階の南東、鍵手に曲がった廊下の先にある。水盤の前でクレアムを背中から降ろし、いつもの呪文を唱える。
――Bubble Bubble Foil and Paddle!
(かき混ぜ、泡立て、刃と櫂よ!)
呪文にさしたる意味はない。だが効果は抜群だ。ぼくの手指の先からは白いクリーム状の物質が芳香とともににじみ出し、あふれる。それを二人分の歯ブラシに盛り上げ、それぞれの口の中へ。
睡眠中、唾液分泌の減少した口内でここぞとばかりに繁殖した雑菌をこすって洗い落とし、歯肉をマッサージ。
しばらくの間洗面所には、水盤の水が湧きだすさらさらという音のほかには、ゆったりと繰り返される二人分の歯磨き音だけがしゃこしゃこと響いていた。
「へはのひょうふぃほうわんは、られらっふぁはな?」
「へいっふぁはのひゃー」
何が何だかわからないのが普通だろうが、ぼくらは八年連れ添った仲だ、このくらいは容易に通じ合える。今日は第四夫人のメリッサが朝食を作ってくれている、とクレアムは言ったのだ。
メリッサの料理は庶民的で素朴だが、味は折り紙付きだし量もたっぷり。本人が体力を使う仕事をするだけに、パンの切り分け方一つ取っても豪快で気前がいい。
魚介で出汁をとった熱いスープにオーブンで温めた分厚いパン、それに多分昨晩出た肉の残りを詰めて焼き上げたパイ。そのくらいのボリュームは軽く期待できるだろう。
たっぷりした朝食を想像しながら洗面を終え、タオルを使っているところへ、すぐ横の階段をふらふらと降りてくる人影があった。
ハイエルフに見まがう長身、八頭身の完ぺきなプロポーション。
首が長く小顔で、控えめな胸と左右に大きく広がった豊かな腰は、さながらちょっとダイエットに励んだミロのヴィーナスと言った風情――ぼくの第一夫人である高位魔術師、オリヴィア・オレインシュピーゲルその人だった。
それはそうとして顔色が悪い。そういえばここ数日、姿を見ていなかった気がする。確か――
「オリビィ、おはよう。調子が悪そうだけど、大丈夫かい? その様子だとひどく寝不足なんじゃないのか?」
「ああ、シワス……おはよう、もう朝なのね。ようやく王立学院の機関誌に寄稿する論文が書きあがったのよ。徹夜三日目でね」
(やっぱりか……)
彼女は優秀な魔術師で、理論面でもつとにその名を知られた研究者でもあり、入門書から高度の専門書まで手掛ける魔道書編纂者としても有名だ。我が家の重要な稼ぎ手であることは間違いない。
ただ、困ったことに――とにかく筆が遅いのだ。まず取り掛かるのが致命的に遅い。ギリギリまで思い悩んで文章の構成から何からが頭の中に整うまで待ち、それを何度も何度も脳内で反芻してからえいやっとペンをとる。
そこからはもう休まず迷わず飲まず食わず。恐ろしい集中力を発揮するのだけれど。
「『ジャーナル・アカデミア・マンスフェル』だっけな。編集者は何時に原稿をとりに来る?」
「夕刻の鐘の刻限よ。あなたの言い方でいえば午後四時」
「たっぷり九時間はある。ぬるめのお湯で一風呂浴びてさっぱりして、少し寝なよ。起こしてあげるから」
「ありがとう……そういえば、私、今夜当番だったわね。でもさすがに今日は無理だと思う。誰か……そうね、マーガレットかステラにでも代わってもらおうかしら」
「いや、マーガレットは一昨日当番だったし、ステラは明後日だ……さすがに接近し過ぎで拙いだろう。ねえオリヴィア、この輪番制はぼくにとっては神聖な義務だが、君たちにとってはそういうわけじゃない。余計なことは考えずに休めばいいよ」
「……意地悪。私、先週の当番もあなたのところへ行けなかったのよ」
オリヴィアは恨めしそうに先をつづけた。
「あなたには六人の妻がいるかもしれないけど、私には一人の夫しかいないの。考えずに休め、なんて――」
ぼくは内心でため息をついた。同輩の妻の一人に代わってもらうのはよくて、僕の傍らがやむを得ない事情で一晩空くことが耐え難い、というのはどうにも分からない。
だが、女心は複雑だしハーレムというやつは――持ってみなければわからないことだが、これでなかなか楽なものじゃない、ということだ。
「よしわかった。一緒に風呂に入ろう。ぼくが君を全身くまなく洗ってやる」
むろん、直接この手でだ。オリヴィアは寝不足の青白い頬をうっすらと染めてうなずいた。
――Bubble Bubble Foil and Paddle!
(かき混ぜ、泡立て、刃と櫂よ!)
浴室に、呪文がこだまする。
……ああ、そうそう。君が今ぼくに割とライトな感じで取り憑いていることは、既に知覚している。昨晩からだったかな? 夢でちょっとだけお会いしたのも覚えているのさ。
元いた世界、21世紀の日本からのご観覧とは嬉しいね。懐かしいよ。
君の立場はいうなれば『傍観者』ってところだ。ぼくの行動に干渉することはできないし、直接何かをすることもできない。だが、君がそこにいることは僕にも分かるんだ。
まあ、楽しんでいってくれたまえ。
次回はクリスマスくらいにお届けします。読んでね。