空転
静かだった宿の中から、ごそごそいう物音が聞こえた。
ぼくはちらりとジーナのほうを見た。勢いで連れてきてしまって心配だったのだが、特に何か外部からの精神的な影響を受けている様子はうかがえない。
ほっとしつつも昨日に続いて自戒の念を抱く。彼女を人間として扱おうとすることと、その弱点に配慮しないこととは別なのだ。
ともあれ、ジーナに変化が見られないことも、この宿にいる人物が『本人』でないことの傍証ではある。
剣を吊り帯に止める金具がカチャリとなる音とともに、ヘルツォーク氏が姿を現した。昨日会った時そのままの姿だ。要所にだけ板金鎧の部品を付けた短いコート風の上着。
多分表と裏地の間に細かな金属片が鋲止めされた、街向けの防具だろう。地球でもブリギャンダインなどという名前で使われていたものだ。
「……おはようございます。連行とは、また穏やかじゃないですね。奥様方まで総出でお出迎えとは、いったい……」
ここに至っても、彼の様子は心底わけがわからないといった風に見える。だが確かに腰の剣はステラが見せてくれた絵図と寸分たがわぬ形状だ。違いは毒気の有無だけ――つまり、困ったことに決め手がない。
彼の後ろ、戸口ではモーブ氏が身をよじるようにして体を半分突き出していた。
「し、シワス様!? うちのお客が一体何をしたっておっしゃるんで」
おろおろと僕らの間に割り込もうとする彼を、僕は厳しく目で制した。
「危険です、さがってて下さいモーヴさん。彼は黒竜王かもしれないし、そうでないかもしれない。ぼくが今からそれを確かめます」
「こ、黒竜王だって!?」
宿の主人の口から悲鳴というにはやや震え過ぎの声が漏れた。
言葉を交わしているだけではどうしても判断しきれないことがある。嘘や演技は人間およびそれに準じる知的生物のごく標準的な能力だからだ。
(ならば、生死の境に追い込んで確認するしかない)
ぼくは腰に提げた剣の柄に手をそえた。かつて勇者として戦った頃、カーナム群島の海底神殿で身の毛もよだつ試練を経て手に入れた一振りだ。
その名は『渦潮の舌』。武器自体に固有の必殺技が秘められ、使用者が使う攻撃呪文の威力をわずかながら増幅する能力と不浄な存在を退ける加護が備わった、世に二つとないレアな装備――分類上は『霊剣』と呼ばれるものだ。
「シワス! その剣を抜くのは待て! まず私がその男を試す――」
ぼくを押しのけて前へ出ようとするマーガレット。だが僕は抜き放った剣をかざして彼女の進路を遮った。
「駄目だよ、マーガレット。君の『量子の騎兵刀』は確かにすごい剣だけど、あれが本当にニムダだったら致命的に相性が悪い」
「ぐ……」
マーガレットがぼくの言わんとするところに気が付いてうめいた。彼女の剣はひとたびその力を解放した時、生き物の肉体以外の、あらゆる物体を傷つけることなく自在にすり抜ける。つまり、剣を絡めての防御や鍔迫り合いと言った技法が成立しないのだ。
刃が触れただけで猛毒をもたらすニムダに対するには、せめて円盾クラス、中サイズ以上の盾が必要だ。
「ここは装備規定443・『重拠点突入/決戦』を発令すべきだったね。ごめんよ、だがここはぼくに任せてくれ」
「シワス……お前というやつはどうしてそう、いつもいつも自分で抱え込む……分かった、存分にやれ。だが約束しろ。負けてもいいが絶対に死ぬなよ」
「君たちを置いて一人で死ねるわけないだろう」
想いの強さがそのまま勝敗を左右する世界だとしたら、ぼくはこの世のだれにも負けない自信がある。
――まあ、いかんせんここは割合いに現実的な法則性に支配されていて、だからこそ僕は妻たちを前に出したくないんだけれどもね。
「なんだかさっぱり話が見えないんですが、つまり、私はあなたと一戦交えなければならないんですね?」
ヘルツォーク氏が少し不本意そうに言った。
「何ででしょうね。つい数日前より昔の事がろくに思い出せないのに、あなたのことを知っている気がするし……剣の使い方も体が覚えている」
『ニムダ』を抜き放った彼の動きには一分の無駄も隙もなかった。少なくともこの男は、剣に関して並の戦士をはるかに上回る技量の持ち主だ。
「だとしたら、なおのことあなたを放置できないな――この剣で確かめさせてもらう!」
いまだ戸惑いを見せたまま立ち尽くすヘルツォーク氏に向かって、ぼくは全身のバネを解放しほぼ水平に跳躍した。
――岩雪崩の演舞!
ダッシュから生じた運動量を着地と同時に下方向への沈み込みに転換し、上段に構えた剣を振り下ろすその瞬間に腕を引き寄せ、円運動の半径を瞬時に縮め速度を上乗せする。
岩雪崩が旅人を巻き込んで粉砕するごとき圧力が超至近距離で炸裂。初撃でこれを放てばほとんどの場合相手は死ぬ。
殺すつもりで放った。だがヘルツォーク氏は顔を青ざめさせたものの、信じがたい方法でそれをかわした。
尻餅をつくようにぐにゃりとへたり込み、そこから剣を持たない左手の肘から先だけの力で、前方――爪先方向へと地面すれすれに跳んだのだ。
「なっ!?」
その軌道はぼくの低く腰を落とした股下を通っていた。彼が視界から消えた瞬間、背筋にぞくりと冷たいものを感じて、たまらず前方斜め上へと飛ぶ。空中で前転。
――その先には、当然ながら宿屋の壁があった。辛うじて壁面に着地し、そのまま反動でさらに上へ。
空中では人間はジャンプの軌道を変えられない。ゆえに対手は必ずそこを狙って攻撃してくる。
しかし。
ぼくの手から生み出される石鹸は、泡だろうと香料と研磨剤入りの練り状、つまり歯磨き粉としてだろうと、自由自在だ。
――Bubble Bubble Foil and Paddle!
(かき混ぜ、泡立て、刃と櫂よ!)※高速詠唱
ブバッ!
左手のひら中央から噴きだす、大量の高圧石鹸液! 一瞬ではあるがそれはほぼ消防用ポンプの放水に匹敵する水圧で、ぼくの体に新たな運動モーメントを加えた。
(八年前の力がなくとも、今ある能力だけで何とかして見せる! これでぼくはあんたが予測した位置にはいない!)
空振りで体勢を崩してくれればこっちの物だ。あとはこの剣の固有必殺技で吹き飛ばす――
「もらった! 渦動ぅ――あれ?」
空前のテンションで技を放とうとしたぼくの前には――誰もいなかった。
ヘルツォーク氏は先ほどの神業的股くぐりを披露した後、そのまま着地点に突っ立って、ぼくの曲芸を見ていたのだ。
その手前には、空中へ射出されたぼくの石鹸液をべっとりとかぶった、哀れな姿のモーヴさんが立っていた。




