蘇る悪夢
誰かドアをノックしている。そのひそやかで執拗な音に、ぼくは目を覚ました。ワインを飲み過ぎたのか少しだけ頭痛がある。
目の前には奇妙なものがあった。鏡で見るのと寸分たがわない、ぼく自身の顔だ――ただし、真珠を思わせる白い輝きを帯びて、所々に金色の斑点。
――なんだ、こりゃ?
16歳で異世界に召喚されてそのあと二年で世界を救い、六人の妻と暮らすこと八年。地球にいた頃と明らかに変わったのは、異常事態に対する精神的耐性だった。
普通なら目の前に自分の顔があるだけでも息をのむだろう。だがぼくの場合はこんな時でもしげしげと目の前のものを観察する余裕と好奇心が先に立つ。
「ははあ。シロガネダイですよな、この表皮の輝きは……つまり、これは」
ぼくは目の前のぼくの頬を指でつついた。
「ジーナ。寝ぼけてないでそろそろ起きて。どんな夢を見てたか丸分かりだよ」
つまりこれは、睡眠というか休眠状態で深層意識が表に出た結果、ジーナが変身してしまった姿なのだ。
「……シワス様。おはようございます。いやだ、私とんでもないことになってますね」
ジーナは眼を開くとベッドの上に身を起こし、首から下の全身を見まわして顔を赤らめた。身体を覆ったシロガネダイの光沢が消え、肩の上のぼくの顔が消えていつものジーナになった。
彼女の正体は古代人が奉仕種族として使役した不定形の擬態生物だ。変幻自在で強壮無比な身体をもって主人のあらゆる要求に応える。地球の創作物にもしばしば登場する類のアレ。
その気になれば彼女は正面からぼくを受け止めながら背中に二つの丸い塊を押し当てることもできるし、ぼくを丸ごと飲みこんで無数の舌でなめまわすこともできる。
だが、ぼくはジーナが望まない限り、決してそうした人外異形の戯れを強いないことにしている。彼女がかつての主人だった古代人をそしてその末裔である人類を深く愛し敬い、同じになりたいと憧れている事を知っているからだ。
昨日の一件はそんなぼくらにとって、まさに痛恨の事態だった。相手にとって侵されたくない一線をとっさの感情に任せて踏み破る――世間の夫婦ならば往々にして離婚に至る一歩だ。
だからこそぼくは昨夜マーガレットとステラの熱烈なアピールを退け、地味で素朴な人間の男女のやり方でジーナと一夜を過ごしたのだったが。
「お魚が美味しくて、シワス様が優しかったので、頭の中がそれでいっぱいだったみたいです……」
恥ずかしそうに顔を伏せて見せるジーナはとてもかわいく見えた。彼女の言葉の尻尾の部分はぼくが唇をふさいでかすめ取った。
「……うん、ぼくも君の夢を見ていたよ。名残惜しいけど服を着ようか、誰かが急用があるみたいだ」
素早く下着をつけガウンを羽織って、ドアの外の人物に呼びかける。この屋敷にいわゆる使用人はいない。いずれにしても妻の誰かだ。
「いいよ、入って」
――ぎぃ。
「ごめんなさいね、朝早くから」
ドアを開いて現れたのはオリヴィアだった。昨夜、晩餐の時に着ていた膝丈のワンピースのままだ。髪もセットしなおした様子がない。どうやらまた睡眠をないがしろにして何かしていたらしい。
「おはよう。また寝てないんじゃないのかオリビィ。知ってるぞ、徹夜明けは一回仮眠をとった後が一番つらいはずだ。一体何を――」
「この際私の睡眠なんかどうでもいいわ……いやもちろん今すぐでもベッドに倒れ込みたいけど」
「すみません、オリヴィア様。差し支えなければすぐにこのベッドを整え直します、シーツも新しいものに……」
ジーナが珍しく自覚なしにおかしなことを言っている。
「まあ、この一件が片付いたらそのベッドに3日くらい居座りたいわね、できるものなら。それはともかく、ヘルツォークさん、いや、昨日のあの人の正体に思い当たったのよ」
「何だって!?」
「みんないるところで話しましょう、二人とも来て」
魔術師はぼくらの先頭に立って歩き出した。
食堂にはステラを除いた全員が集まっていた。
今朝の朝食の当番はマーガレット。彼女は家事があまり得意でないが、当番が回ってきたときはとにかく頑張ってくれる。テーブルの横には街中の屋台よろしく車輪のついたかまどが寄せて据えられ、炭火の上で大鍋が湯気を立てている。その横では焼き串に刺さった大きなベーコンが塩と粗びきのコショウ、ニンニクのみじん切りをまとって回転していた。
「昨夜は皆、少々飲み過ぎたからな。シワスの好物のコメを、軍でよく作る香草入りの粥にしてみた。だがさすがにそれだけでは物足りんかと思って、肩ベーコンをあぶり焼きにしたぞ。粥に乗せてもよし、そのままかじっても美味いと思う」
マンスフェル王国陸軍制式53年型フィールドキッチンの横で、マーガレットが腰に手を当てて胸を張った。
「あらまあ、軍隊風なのね」
「面白いしゅこーなのじゃ!」
メリッサとクレアムが好意的寸評を口にした。
だが、オリヴィアの表情からは緊張が取れない。全員の椀に粥が取り分けられて皆が席につくと、スプーンを手にした一同を制して彼女は話を始めた。
「食べてる途中で言うと、みんな絶対に口の中のものを噴きだすわ。だから手を止めて聴いてちょうだい。昨日うちに来たあの人……ヘルツォークさん。多分、いいえ、間違いなく黒竜王と関係があると思う」
オリヴィアが妙なことを言い出した。
左隣で「ブッ」と妙な音がしたのは、たぶんマーガレットだ。彼女は食事の始めに必ず水かワインを一口すする癖がある。どういうわけか電光石火の早業でだ。
「もしかすると、黒竜王その人かも」
「まさか……奴は確かに、ぼくたちがこの手で討ち果たしたはずだ」
右手にあの最後の一撃を放った感触がよみがえる。そのさらに一年前、黒竜王の軍団がしかけた策略によって命を落としたユズ――ユージニー王女がぼくの腕の中で消えていったその慟哭も――




