魚の女王との華麗なる逢瀬
「ああ、ないさ。それは知ってる、嫌になるほどね。だけどこの世界にも代わりになる物はあった」
台所の収納戸棚から取り出したものは、半透明な焼成ガラスの小瓶に入った液体。
「それは?」
ジーナが訝しげにぼくの手の中をのぞき込む。
「テレレテッテレー♬! 魚醤!」
日本の国民的キャラクターである某猫型ロボットがポケットから怪しげな道具を取り出すときの効果音を口で真似ながら、僕はその中身を少量、小鉢にぶちまけた。
ロッツェルよりももう少し南の地方で作られる、地方色豊かな発酵調味料だ。ニシンに似た小骨の多い魚の幼魚をはらわたを取り除いて塩漬けにし、少なくとも3か月の間涼しい場所で保存して熟成させる。
「ひゃあ! 臭いのじゃ! 臭いやつなのじゃー!」
嗅覚の敏感なクレアムが血相を変え、ジタバタと腕を振り回しながら僕から遠ざかった。
「確かにこいつは臭い。だが、そのまま使うようなへまはしないさ」
白ワインを少々とオレガノ、ディルの粉末を加えて小鍋に移し、さっとひと煮立ち。
臭みが和らいで香ばしい匂いと仄かなハーブの香りが立ち上がった。さらにカゼイ山脈に自生する希少なグリフォン・ラディッシュの根と南方の島で産するサラマンダー唐辛子を、かつては拷問にも使われたという珍獣ヤマヤスリの腹の皮ですりおろして添える。これは絶対にこの魚に合うはず。
「わあ。いい匂いになったのじゃ?!」
クレアムが目を輝かせた。
「少し時間を置こう。そうすればほどよく唐辛子の辛み成分が揮発する……次は焼き物だ」
スキレットをよく熱して無塩バターを溶かし、ニンニクとタイムを刻んだものを炒める。
刺身に使わなかったやや脂の乗りが落ちる部分は、適度な大きさに切り分け振り塩をした後、キャッサバに似た芋のでんぷんをムニエルよりは薄目にまぶしてあった。午後に行った下ごしらえのメインはこいつだ。
狐色に焼きあがったらいったん皿にとり、さてここからが速度を要求される勝負どころ。切り身が冷えないうちに食卓に乗せなければ。スキレットに残った脂に、刻んだパセリと殻をむいたエビと細い二枚貝、2㎝角程度に切った小玉ねぎをぶち込み、塩を加えて強火で炒める。
脂が濁らない様に気を付けつつ、玉ねぎがしんなりしたら白ワインを適量掛けまわしてさっと蓋をして蒸らす。エビと貝の味が出た汁を布で漉して生クリームとバジルを加え、熱いうちに先ほどの切り身に掛けた。
ソースを作るのに使ったエビと貝、玉ねぎにはもれなく皿の上にご同伴いただく。
あとはカリッと焼いたグルテンの強いパン、おおむねバゲットに近いものを薄く軽く切って並べ、少し遅めの晩餐が始まった。
妻たちは皆思い思いの普段着でくつろいだ姿。格式ばったディナーよりも内輪で囲むこんな食卓のほうがぼくらにはふさわしい。
「少々野菜が少ないけど、ま、明日埋め合わせをすればいいさ」
料理は我ながら素晴らしかった。魚醤で代用した刺身醤油は他の魚ならややきつすぎる味だが、シロガネダイの濃厚な旨みにはよく合っていた。
グリフォンラディッシュの辛みも絶妙。この数年に試した薬味の中ではこれが一番、本わさびに近づけられる。ややパンチに欠ける嫌いがあるがそこはサラマンダー唐辛子が補ってくれた。
官能的な抵抗感を残して歯が肉に埋まり、その一方で口内の粘膜を、くにゅくにゅとした弾力ある感触の薄い腹膜がくすぐっていく――粘膜同士の接触から生まれる味覚は、エロティックですらあった。
同様の快感は湯引きした皮でも味わうことができた。辛さが不快感にならないギリギリの量でとどめられた辛子の刺激のあとに、リンゴ酢のさわやかな香りと仄かな甘みが駆け抜けていく。
「な、なあ、ステラ」
「ん、何よマーガレット」
「その、提案があるんだ。今日の私はとことん浅ましくてどうかしていると思うが……」
「何? あんた顔真っ赤だしすごい淫らな顔してるけど」
「昼間の試合は決着がつかなかったことだし、今夜は……いっそ二人でシワスの、いや、ええい私は何を言ってるんだ!」
口腹の快感が何か違う欲求を刺激したらしい。だが、僕はその一瞬前に、ジーナと目配せをかわしてしまっていた。
「済まない、二人とも。今日はジーナに来てもらうことにする」
「ええ!?」
「何でよ」
「理由はわかってるはずだよ。今夜の僕には彼女をいたわる義務がある」
「そんな、シワス様……私はこのお料理だけで充分です」
困惑を表明するジーナだが、その表情はひそやかな勝利の歓喜に輝いている。
「美味しいのじゃー」
テーブルで繰り広げられそうになった女の戦いは、クレアムの一声が吹っ飛ばした。
鼻孔をくすぐる香りとともに、ぼくもあつあつの焼き魚を頂く。バターを吸って弾けた粉が金色の輝きを湛え、さくっと崩れたその薄衣の下からしみだす肉の味。ゼラチンに抱え込まれた脂と旨みが舌の上で転がった。そこへ薄切りのパンに行儀悪くエビと玉ねぎを盛り付けて頬張り、冷えた白ワインで舌を洗う。うむ、豊かなる繰り返し。
ぶうぶうと不平を漏らしていたマーガレットとステラも、酒の酔いが回るにつれ機嫌を直して陽気になっていった。
だが、そんな団欒の中で、一人オリヴィアだけはどこか遠くを見つめるような目で、何か考え込んでいるようだった。




