水入らずの食卓
家に帰り着いたとき、ちょうど鐘が鳴った。地球でいえば午後9時に相当する時刻だ。玄関ホールのソファで所在無げに待っていた『本物の編集者』バートン氏はぼくらを見てようやく愁眉を開いた。
「やれやれ、これでやっと王都へ帰れます。とはいえ今夜はもう、出発は無理ですな」
妻たちの何人かが彼に向かってうなずいた。その眼には同情の色が浮かんでいる。
中世ヨーロッパ風都市の例にもれず、この町も夜は治安のため門を閉めきってしまうのだった。ましてや夕方の騒ぎがある。
「無理でしょうねえ。空き部屋はありますが、泊まっていかれます?」
僕の申し出はしかし、丁重に断られた。
「いや、私は市内で宿を探しましょう……今からでも一軒くらいは、たぶん。その……どうもこの屋敷で安眠するのは難しそうですから」
町の噂は遠来の客の耳にも届いているらしい。ばつの悪い思いで眉根をもむぼくの視線が流れた先で、マーガレットとステラが思い入れたっぷりな笑みを浮かべて、首をがくがくと縦に振っていた。この肉食どもめ。
バートン氏にモーヴのねぐらを紹介するのは流石にためらわれた。少し考えて、ぼくは街中の比較的お高い宿の名を告げた。
「少し宿賃がかさみますが、オゼイユ通り三番地の『モーゼス侯の金時計亭』がおすすめです。亭主が潔癖症の気がありましてね、リネン類は一日に一回必ず洗うし5回使ったら中古業者に流してる。あと、食事が凝ってます。今日は聖アンゴルモアの記念日だから、仔牛肉のパイがつくはずだ」
「ほう、ほう!」
バートン氏はちょっとした食道楽らしく、揉み手をして相好を崩した。オリヴィアの原稿を丁重に防水の書類ケースに収め、ジーナが掲げた角灯の明かりを頼りに馬にまたがる。彼がそのままとことこと坂を下りて行くのを、ぼくたちは総出で見送った。
「さて、遅くなったけど晩ごはんにしようじゃないか」
「今からですか」
ぼくがみんなを見まわしておもむろにそう切り出すと、ジーナが顔をしかめた。彼女はぼくら全員の健康管理について極めて厳格だ。
「私は賛成、お腹すいたわ」
メリッサが胃のあたりをさすりながら微笑んだ。
「シロガネダイのお刺身、今日のうちでないと味が落ちちゃうんじゃないかしら?」
まさにそれこそ目下の最大の懸案だ。ぼくはメリッサとジーナを連れて台所の奥へ向かった。足を踏み入れるにつれて強まる冷気――我が家の自慢の設備、特大の冷蔵庫。
その正体は『霜が島』の地下洞窟から切り出された、魔法の永久氷だ。青い光を帯びて見えるほどに凝縮された分厚い氷塊は高さ6m、奥行き4mほどもある中空構造。氷そのものにボルトを打ち込んで蝶番式のドアに仕立てた、その透明な壁の向こうに今夜の主役たる魚の女王の柔肉が収められている。
「早々と引き上げたバートン氏には少し気の毒だが、取り分が減らなくてよか……ああ、今日の私はどうも浅ましいな」
マーガレットが少し恥ずかしそうに俯いたが、その表情は美味への期待ではちきれんばかり。
「お刺身もですが是非、焼き物もお願いします」
ジーナが珍しく自分の好みを主張した。
「あまり一気に食べきっちゃうのも気が進まないけど、今日はジーナに辛い思いをさせたからね。お望み通り、スキレットを使おうか」
ぼくは彼女の肩にぽんと手を置いてさすった。その行為が彼女に心地よいものかどうかは確証がない。ジーナは本質的にぼくらとは別種の生物だからだ。ともあれ彼女は幸せそうな表情を浮かべて見せた。
「嬉しいです。昼間の会話を覚えててくださったんですね。焼いて火を通した食べ物は最高です」
味覚というか食べ物に対する嗜好も人類のそれとは基準が違う。彼女が言うには、生肉や生野菜はまだどこか食材になる前の記憶のようなものを持っていて、ジーナに同化吸収されるのを嫌がる、というのだった。
ちなみにこの冷蔵庫はもともと、初めて出会ったときにジーナが眠っていた氷の棺でもある。まあ、それはおいおいそのうちに詳しく話そう。
さて、午後のうちにすでに下ごしらえは半ばまで済ませておいた。鱗板と皮は取り除いて別にしてある。これを熱湯にさらした後、鱗板はニンニクの香りを付けたオリーブ油でカラッと揚げ、言うなれば骨せんべいのような感じに仕上げる。
皮は少し長めにゆでて余分な脂を取り除き、ふるふるとした歯ごたえになったそれを細くひも状に切って、リンゴ酢とマスタードを併せて練ったペーストであえ、ケイパーを散らした。皮に残った金色の斑点が美しい。
最高の腹身、その中でも最も脂がのる尻びれの前方の部分を適量切り取り、包丁の根元で肋骨を引っかけて慎重に引き抜く。嬉しいことに市場の解体職人はこの魚をよくわかっていた。
腹腔内側の分厚い腹膜部分には、表皮とはまた別次元の歯触りをもたらすゼラチン質がある。この切り身にはそれがそぎ落とされることなく完全に残っていた。それでいて苦みや生臭さの原因になる内臓は一切取り除かれている。
4mmほどの厚さに薄く引いていく。愛用の包丁はぼくの注文をもとに、メリッサが鍛造技術の粋を尽くしたものだ。地球のタイによく似た身はしっかりした肉質でありながら脂がのって、ほんのりと虹色に光を反射した。
「ご執心の『お刺身』ね。これにはどんな味付けを? あなたの言う『醤油』は……」
メリッサがこちらを心配そうに見上げた。




