其ノ二 おとなりさんと甘露飴
緋色に染まった夕凪荘の踊り場にて、私はおとなりさんと出会うのでございます。
甘い芳香と温い風がとても心地よい初夏の他そ彼時。
夢か現か曖昧な・・・彼の語りは私を、不思議な心持ちにさせるのでございます。
「あ、おとなりさん、こんにちは。」
自室を出たところ、偶然にも同じタイミングで201号室から出てきたお隣さんに声をかけられた。
彼は、私が夕凪荘に来たときには既に201号室の住人だった。
性別は彼、歳は見た目二十歳前後、背はスラリと高く、女性としては高めな私よりも頭一つ分はありそうだ。
栗色の頭髪はくせっ毛なのだろうか、緩やかなウェーブがかかったおかっぱがよく似合っている。
人懐っこい笑みと、中性的な顔立ちは優しい雰囲気をかもし出しているがその実、飄々として掴み所がない性格をしている。
彼の名前は知らない。そして彼も私の名前を知らない。
「どうもおとなりさん、こんにちは。」
かと言って、私は名前を聞くほど人付き合いが達者ではなく、彼も私の名前を聞いてこないので、いつしか互いにそう呼び合うようになり、そしてそのまま名前を聞く機会を失ってしまったのだ。
しかし私は、そう呼ぶのも呼ばれるのもなかなかに気に入っている。
「あ、そうそう、おとなりさんにお裾分けしようと思ってたものがあったのですよ、ちょっと待っていて下さいな。」
そう言うと彼は自室に戻り何かを持ってきた。
「あ、綺麗な和紙ですね。」
彼が自室より持ってきたそれは、水面と金魚が描かれた柄和紙だった。
蒼と朱が美しい色合いの和紙は、小さな何かを内包しており、巾着のような形になっている。
「おとなりさん、甘露って知ってますか?」
「かんろ・・・・たしか、おいしいお茶やお酒の事を甘露と言うって聞いた事があるような、ないような・・・曖昧な知識ですが。」
「はい、昔の人が美味しい飲み物や、甘いものなんかを甘露とよんでいまして、他にも古来より中国やインドでは神々の飲む不死の霊薬とも言われています。まぁ、ようは甘くて美味しいものの代名詞ってところでしょうか。お酒ももちろん、甘露とよばれますね。」
彼の話はよくよく私の琴線に触れる。
古めかしい伝承や、神秘的な小話をあいさつのように私に吹き込んでくれるのだ。
この前してくれた『歌う猫』の話もよかった。今度、ゆっくり話をする時間でもとってもらおうか・・・。
「おいしそうな響きですね、甘露って。そんなお酒飲んでみたいものです。」
「好きなのですね、お酒が。」
笑う彼に私は慌てていいわけを口走る。
「い、いえ!!そんなに飲まないですよ?ただ、最近覚えまして・・・なんと言いますかその・・・」
「残念ながら、“今回の”甘露はお酒ではなく、飴なんですよ。」
「へ?」
言いよどむ私に彼は少し申し訳なさそうに告げる。
「でも、とてもおいしい飴なんですよコレ。アサヒコガネという幻の花がありましてね、その花より採れる蜜でつくった飴なんです、これより甘い飴はないと言われるほどにおいしいのです。」
そう言うと彼は、綺麗な和紙で包まれたソレを私の掌の上にそっと乗せた。
「え?いいのですか?とても貴重なものじゃないのですか?」
「貴重ですよ~それ一粒で城が建つなんて言われるほどに・・・」
彼が真顔で言うものだから、私の心音が少しばかり大きくなる。
「冗談です。あれ?騙されました?意外に乙女なんですね、おとなりさんは。」
そう言い、無邪気に笑う彼に少しだけ腹が立つ。
「・・・・・・・『意外に』は余計です。」
棘を含ませて言ったのだが
「あぁ、そんなにふくれないで下さい、可愛くてしかたがありませんから。」
などと切り替えしてくる。
「か、かわいいとか嘘言って、からからかうのもいい加減にしていただきたいものです!」
「からからかってはいますが、嘘は言ってませんよ?おや?長くなってしまいましたね、では、私はこれにて。」
「あ・・・・ちょっと!その・・・・・」
逃げるように夕日に染まる町内へと駆け出した彼のせいで、この、もやもやとした思いは私の中に留まったままとなってしまうではないか!!上手い、さすがイケメン上手い。
私が無垢な少女だったら、心を抜き取られていたに違いない。
「しかもこのような置き土産を・・・」
掌の上に乗せられた美しい柄和紙からは、内包した甘い香りが漂っている。
夕焼けで緋色に染まった町の中、あふれる香りを裾に閉じ込めると、私は銭湯へと歩を進めた。