其ノ一 ぬばたまのとばり
私の古めかしい部屋にある、これまた古めかしい風呂場の戸。
それをカラカラと引きますと、その先にはいささか手狭ではありますが、それなりのお風呂があるのでございます。
しかしそれは、忘れもしない初夏の他そ彼時。
あの日をもってソレは失われ、そして代わりに、幻想商店へと続くドアが開いたのでございます。
左手に葡萄、右手に金貨を持った猫が、美しいステンドグラスで描かれたアンティーク調のドアが私の前方にある。
暗闇の中、暖かい光が漏れ出すそのドアはついつい開いてしまいたくなる不思議な魅力を持っており、このような非現実的な状況でなかったならすでに開けていたかも知れない。
と、言うのも・・・そのドアが、私の住んでいるボロ、もとい古めかしいアパートである夕凪荘202号室の風呂場へと続く引き戸をカラカラと引いた先に、突如として広がってたぬばたまに染められている空間の中のその先で、まるで絵本の世界を切り取ったかのような面持ちで、ぽつん・・・と存在していたからである。
風呂場のタイルの代わりに細い石畳の道が、つきの悪い電球の代わりに古めかしいランタンが、暗闇の中でそのドアへと伸びる導となっている。
あぁ、ちいさなあの浴槽はいったい何処にいったのだろう?近所の銭湯は何時まで開いているのだろうか?こう見えても花の女子大生なのだ、流石に風呂に入らないのはマズイだろう・・・などと無理矢理日常へ戻ろうとする己が思考を、何となく情けなく思ってしまう。
しかし、このままという訳にもいくまい・・・が、かと言って手を出すほどの胆力は持ち合わせていないので後回しにしようではないか。
そう、明日には元通りになっているような気がする。
こういう不思議な出来事は、得てして長続きしないものだ。
今日は銭湯に行こう。
そして帰りに茄子を買おう。
冷蔵庫に枝豆があったから、焼き茄子と枝豆で風呂上りの一杯を楽しもうではないか・・・。
季節は夏・・・・夕焼けで緋色に染まった部屋の中、あふれそうなぬばたまをカラカラと古い引き戸で閉じ込めると、私は銭湯へ行く準備をするのだった。