標本花の令嬢は、夜ごと地下で咲き返る
王宮の北棟には、古い温室がある。
百年ほど前、今は名も忘れられた王妃が、故郷の森を恋しがって建てさせたものだという。高いガラス天井は昼の光をよく通し、夜になると月を歪めて映した。鉄骨は黒く錆び、柱の継ぎ目にはいつも水滴がついていた。
こつん。
雫が落ちるたび、温室の奥から、誰かが返事をするような音がした。
冬でも湿っていて、夏でも冷たく、香りだけが濃かった。
そこでは、王家の花が咲いていた。
レーヴェンローゼ。
昼は白く、夜は赤く染まる花。
王国の者なら誰でも知っている。王家の紋章にも、王妃の冠にも、婚約発表の招待状にも、その花は描かれている。白く咲き、赤く熟れ、散らずに残る。優美で、気高く、永遠に近い花。
けれど、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは、その花の匂いが嫌いだった。
甘すぎる。
甘すぎて、腐る寸前の果実のようだった。
「エルゼヴィーラ様。顎を少しだけお引きください」
侍女の声で、エルゼヴィーラは鏡の中の自分を見た。
赤い礼装だった。
咲きたての赤ではない。朱色と橙と赤錆を混ぜ、古い絵具で何度も塗り重ねたような色。大きく膨らんだ袖は花弁のようであり、繭のようでもあった。首元は高く詰まり、白い喉をすっぽりと覆っている。胸から腰へかけては細く絞られ、腰下から短く広がる布には、黒糸で蔓が刺繍されていた。
腕は薄紅の透ける手袋に包まれ、指先だけが黒く濡れている。
爪を黒く塗るのは、王家の古いしきたりだという。
花嫁候補は、夜会の前に黒い爪を持つ。
花を摘む手は、土に近い色でなければならない。
その説明を初めて聞いた時、エルゼヴィーラは幼かった。黒い爪を見て、少しだけ怖いと思った。だが怖がることも、嫌がることも許されなかった。
彼女は王太子アルノルトの婚約者だった。
ローゼンヴェル公爵家の一人娘。王国で最も美しく、最も礼儀正しく、最も王太子妃に相応しい令嬢。
誰もがそう言った。
「お美しゅうございます」
侍女が言った。
「まるで王宮の赤い花そのものですわ」
エルゼヴィーラは微笑んだ。
口角は上げすぎない。
目元は和らげる。
歯は見せない。
首を傾ける角度は、ほんの少し。
褒め言葉を受ける時は、謙遜しすぎて相手を困らせてはならない。
「ありがとう」
鏡の中の女は、完璧に笑っていた。
けれど、その笑みを見ていると、エルゼヴィーラ自身でさえ、そこに誰がいるのか分からなくなることがあった。
今夜は、王立温室で花の品評会が開かれる。
そう呼ばれているが、品定めされるのは花ではない。
令嬢たちである。
王太子妃候補、王族の婚約者候補、高位貴族の娘たち。彼女たちはそれぞれ花に見立てられ、王宮の古い温室で披露される。貴族たちは酒杯を持ち、花の香りの中で囁き合う。
あの令嬢は美しいが気が強そうだ。
あちらは可憐だが家格が足りない。
この娘は王宮に映える。
あの娘は田舎臭い。
誰より上か。
誰より劣るか。
誰が選ばれるか。
誰が捨てられるか。
エルゼヴィーラは、毎年その中心にいた。
「エルゼヴィーラ様は、今年も誰よりお美しいことでしょう」
「殿下もお喜びになります」
「今夜こそ、正式な婚約発表がございますね」
侍女たちの声は弾んでいた。
エルゼヴィーラは鏡の中で、静かに目を伏せた。
美しい。
その言葉は、もう何度聞いたか分からない。
美しい。
完璧だ。
王太子妃に相応しい。
あの子より、ずっと。
誰より、ずっと。
けれど、誰も言ってはくれなかった。
あなたがいい、と。
温室の夜会は、古い肖像画の中に迷い込んだようだった。
ガラス天井の向こうに月があり、曇った硝子越しにぼやけている。壁際にはレーヴェンローゼが並び、白かった花弁は夜の湿気を吸って、少しずつ赤く染まり始めていた。ランプの光は橙色で、貴族たちの顔を半分だけ照らした。笑みも、宝石も、扇も、すべてが額縁の中で古びた色をしていた。
エルゼヴィーラが入ると、会場の声が一度止まった。
視線が集まる。
彼女はその視線を受けるために育てられた。
背筋を伸ばし、首元を固く保ち、歩幅を乱さない。赤橙の袖がわずかに揺れる。黒い爪が扇を閉じる。白い脚に絡む蔓の刺繍が、ランプの影で本物の根のように見える。
どこかで、水滴が落ちた。
こつん。
エルゼヴィーラは一瞬だけ足を止めた。
誰も気づかない。
「まあ……」
「今年のローゼンヴェル嬢は、まるで標本のようだ」
「美しい」
「人形のよう」
「花そのものだわ」
エルゼヴィーラは微笑んだ。
標本。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
温室の奥、古い噴水の前に、王太子アルノルトがいた。
金髪に青い目。王国中が褒めそやす端正な顔。夜会用の白い礼服を纏い、胸にはレーヴェンローゼの飾りをつけている。
彼の隣に、一人の少女が立っていた。
リーゼ・ファルケン。
男爵家の娘。つい最近、王太子の慈善活動で知り合ったと噂されている少女。白い小花のようなドレスを着て、落ち着かなさそうに両手を握っている。髪飾りは少し曲がっていた。緊張のせいか、笑うたびに唇が震えている。
その不完全さに、周囲は目を細めていた。
可憐だ。
飾らない。
自然だ。
まるで野に咲く花のよう。
エルゼヴィーラは、リーゼを見た。
リーゼもまた、エルゼヴィーラを見た。
怯えと憧れと敵意が混ざった目だった。
アルノルトが近づいてくる。
「エルゼヴィーラ」
久しぶりに名前を呼ばれた。
その一瞬だけ、エルゼヴィーラの胸に小さな熱が灯った。幼い頃、温室で迷子になったアルノルトの手を引いた夜を思い出す。彼は泣きそうな顔で、ただの少年だった。彼女もまた、ただの少女だった。
あの時、彼は言った。
ありがとう、エルゼヴィーラ。
その名の呼び方だけで、彼女は何年も生きてきた。
だが今夜のアルノルトの声は硬かった。
「この場で、君に告げなければならないことがある」
温室の空気が変わった。
貴族たちは、待っていた獲物が罠にかかった時のように、静かに息をひそめる。誰かの扇が閉じる音がした。レーヴェンローゼの匂いが、急に濃くなる。
エルゼヴィーラは微笑んだまま、軽く膝を折った。
「何なりと、殿下」
アルノルトはリーゼの手を取った。
「私は、君との婚約を白紙に戻す」
誰かが小さく息を呑んだ。
だが誰も止めなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
自分の声は、驚くほど静かだった。
「君は完璧だ」
アルノルトは言った。
「だが、完璧すぎる。君の微笑みはいつも正しい。言葉も、仕草も、涙さえも正しい。だがそこに心が見えない。私は王太子妃としての人形ではなく、心ある女性を隣に置きたい」
リーゼの手が震える。
エルゼヴィーラはそれを見た。
アルノルトは続けた。
「リーゼは違う。彼女は自然だ。飾らず、偽らず、本物の心で私に向き合ってくれる」
本物。
温室のどこかで、水が落ちる音がした。
一滴。
また一滴。
こつん。
返事のように、奥で音がした。
エルゼヴィーラは口の中で、その言葉を転がした。
本物。
「君は美しい。誰よりも美しい。だが、彼女は君より自然だ」
その瞬間、エルゼヴィーラの喉元を覆っていた赤い襟が、ほんの少しだけ締まったような気がした。
呼吸が止まる。
周囲の視線が刺さる。
見ないで。
見て。
暴かないで。
暴いて。
可哀想だと言わないで。
けれど、何も見えなかったふりをしないで。
誰かが囁く。
「まあ、やはり」
「王太子殿下もお気づきになったのね」
「美しすぎるものは、冷たいものですもの」
「リーゼ様の方が、温かいわ」
「あれほど整っていると、かえって怖い」
エルゼヴィーラは笑った。
自分でも驚くほど、綺麗に笑えた。
「本物、でございますか」
その声は温室のガラスに当たり、少し遅れて返ってきた。蓄音機から流れる古い声のように、ざらついている。
アルノルトが眉をひそめる。
「エルゼヴィーラ」
「失礼いたします」
彼女はそれだけ言って、身を翻した。
誰も追ってこなかった。
温室の奥へ進むと、灯りは少なくなった。レーヴェンローゼの鉢植えが並び、赤く染まりかけた花弁が闇に浮かんでいる。湿った土の匂いが強くなり、床石の隙間には黒い水が滲んでいた。
最奥に、錆びた鉄扉がある。
昔からそこにあった。
だが開いているところを、エルゼヴィーラは一度も見たことがない。扉には蔓の意匠が絡み、中央に王家の紋章が刻まれている。下へ続く階段があるという噂は聞いたことがあった。使われなくなった貯蔵庫。古い水路。王妃の隠し部屋。地下墓所。噂はいくつもあったが、誰も確かめようとはしなかった。
エルゼヴィーラは扉に触れた。
黒い爪が、錆に触れる。
こつん。
扉の向こうから、誰かが爪で叩き返した。
エルゼヴィーラは動かなかった。
こつん。
もう一度、音がした。
扉は内側から、ゆっくりと開いた。
地下へ降りる階段は、湿っていた。
壁には古いランプが灯っている。誰が火を入れたのか分からない。橙色の光は揺れ、階段にエルゼヴィーラの影を長く伸ばした。赤い袖が壁に映ると、それは花弁ではなく、何かの羽のように見えた。
下へ降りるほど、匂いが変わっていく。
花の香り。
古い香水。
水の腐った匂い。
湿った絹。
錆びた鉄。
閉じ込められた息。
そして、音。
どこかで爪が鳴っている。
こつん。
こつん。
近いようで遠く、ひとつのようで無数だった。
階段の先には、地下温室があった。
地上の温室よりずっと広い。
天井は低く、ガラスではなく黒い石で覆われている。壁には無数の管が走り、その中を赤黒い液体がゆっくりと流れていた。床には水が薄く張り、そこにランプの光が揺れている。
そして、ガラスケースが並んでいた。
一つ。
二つ。
三つ。
数えきれないほど。
中には、女たちがいた。
美しい令嬢たちだった。
古い時代のドレスを纏った者。王妃候補の白い礼装を着た者。髪を結ったまま眠っている者。首元に真珠をつけた者。唇に微笑みを残した者。
みな、ガラスの中で静かに立っていた。
いや、浮いていた。
足元から根が伸び、脚に絡み、腰を支え、背を覆い、肩から赤い花を咲かせている。肌は白く、目は閉じられている。生きているようにも、死んでいるようにも見えなかった。
標本。
エルゼヴィーラは、その言葉を思い出した。
「お帰りなさいませ」
背後から声がした。
彼女は振り返る。
黒い礼服の男が立っていた。
年齢は分からない。若くも老いても見える。髪は黒く、手袋は白い。庭師のようでもあり、葬儀屋のようでもあり、司祭のようでもある。彼は深く一礼した。
「最後の花嫁候補様」
「あなたは」
「ヴィクトルと申します。この地下温室の管理を任されております」
「ここは何ですか」
「王家の花園でございます」
ヴィクトルは、ガラスケースの列を示した。
「地上の温室で咲くレーヴェンローゼは、ここから養分を得ております」
エルゼヴィーラは一番近くのケースへ近づいた。
金の札がついている。
クラリッサ・ヴァレンシュタイン。
第三王子妃候補。
不適合花。
標本番号二十七。
隣の札には、別の名が刻まれていた。
セシリア・グランツ。
王太子妃候補。
病没。
標本番号三十一。
さらに隣。
オリヴィア・ルフェーブル。
修道院送致。
標本番号三十二。
エルゼヴィーラの喉が、また締まった。
「この方々は」
「王家に選ばれなかった花々です」
ヴィクトルの声は穏やかだった。
「選ばれなかった令嬢は、表向きには病没、静養、修道院送り、あるいは遠縁への嫁入りと記録されます。ですが実際には、こちらで保存されます。未練はよい養分になります。屈辱も、嫉妬も、愛されたいという願いも、長く花を咲かせます」
「なぜ」
「王家を保つためです」
ヴィクトルは、まるで天気の話をするように言った。
「王家の血は、昔から枯れやすい。呪いとも、契約とも呼ばれております。レーヴェンローゼは、その枯れを遅らせるための花。若く美しい令嬢の感情を根に吸わせ、王家の命脈を保つのです」
エルゼヴィーラは笑った。
「では、王太子妃候補とは」
「花です」
「王太子妃になった者は」
「地上で咲きます」
「選ばれなかった者は」
「地下で咲きます」
彼女は中央を見た。
そこに、一番大きなガラスケースがあった。
空だった。
透明な壁。磨かれた金具。赤い絹を敷いた台座。ケースの周囲には、まだ咲いていないレーヴェンローゼの蕾が並んでいる。
金の札がついていた。
エルゼヴィーラ・ローゼンヴェル。
王太子妃候補。
標本予定。
エルゼヴィーラは、札を見つめた。
自分の名が、まるで死者の名前のように刻まれている。
「私は、捨てられたからここに来たのではないのですね」
「はい」
「最初から」
「はい」
「この衣装も」
「標本礼装です」
「香水も」
「身体を花に馴染ませるものです」
「幼い頃から飲まされていた薬湯も」
「保存を容易にするためでございます」
エルゼヴィーラは、赤い袖を見た。
美しいと言われた衣装。
王太子に相応しいと言われた身体。
誰より整っていると褒められた微笑み。
それらは、すべて死後も綺麗に見えるように作られていた。
「先ほど、扉を叩いたのはあなたですか」
エルゼヴィーラが尋ねると、ヴィクトルは白い手袋を見下ろした。
「ええ。こちらへ降りていただく時は、いつもそうしております」
「いつも」
「はい。花嫁候補様は、皆さま最初は扉の前でお迷いになります。ですから、内側から一度だけ叩くのです」
ヴィクトルは人差し指を曲げ、空の上を軽く叩いた。
こつん。
その小さな音が、地下温室の奥まで伝わった。
ガラスケースの中で、眠っていた令嬢たちの睫毛が、わずかに震えた。
「迎えの音でございます」
ヴィクトルは微笑んだ。
「ここでは、名を呼ぶよりもよく届きますので」
エルゼヴィーラは、ガラスケースの列を見た。
「私は、花だったのですね」
自分の声が、遠く聞こえた。
ヴィクトルは少しだけ首を傾げた。
「いいえ」
エルゼヴィーラは彼を見る。
「あなたは、花にされる予定の人間でした」
その言葉は、刃のように入ってきた。
人間。
誰も、そんなふうに言わなかった。
王太子妃候補。
ローゼンヴェル公爵令嬢。
王宮の赤い花。
完璧な婚約者。
美しい令嬢。
そのどれでもなく。
人間。
エルゼヴィーラは、空のガラスケースへ歩いた。
「お入りになりますか」
ヴィクトルが尋ねた。
「入れば、どうなります」
「眠ります。夜ごと花として咲き返ります。やがて、あなたの心は根にほどけ、この温室に満ちます」
「それは死ですか」
「死よりは長く、生よりは静かなものです」
エルゼヴィーラは、ケースの中を見た。
赤い絹。
根。
蕾。
自分の名札。
それは彼女のために用意された棺だった。
美しい棺。
誰もが褒めるための棺。
エルゼヴィーラは、その中へ一歩入った。
ヴィクトルは止めなかった。
ケースの中は、思ったより冷たかった。足元の絹の下から細い根が伸びて、彼女の靴に触れる。白い脚に絡む蔓の刺繍と、本物の根が重なった。痛みが走る。
エルゼヴィーラは膝をついた。
根が手袋の下へ入り込む。
腕を這う。
首元へ近づく。
赤い礼装の内側を、冷たいものが満たしていく。
ガラスケースの外で、他の令嬢たちが一斉に目を開けた。
こつん。
こつん。
こつん。
無数の黒い爪が、内側からガラスを叩いた。
声が聞こえる。
綺麗でいなさい。
選ばれなさい。
比べられても笑いなさい。
泣くなら美しく泣きなさい。
あの子より。
あの人より。
誰より。
誰より。
誰より。
エルゼヴィーラは目を閉じた。
声は彼女を責めていなかった。
同じ場所に落ちてきた者を、ただ迎えていた。
だが、彼女は迎えられるために来たのではない。
根が胸へ届いた時、エルゼヴィーラはそれを掴んだ。
素手ではない。
黒い爪で。
根が暴れた。ガラスケースの中に赤い水が弾ける。痛みは鋭く、喉の奥まで響いた。けれどその痛みで、エルゼヴィーラは初めて、自分の身体が自分のものだと思った。
「私は」
彼女は言った。
「飾られるのは、もう結構です」
根を引き寄せる。
喰む。
歯で噛んだわけではない。口にしたわけでもない。けれど彼女の内側が、根を、花を、そこに溜まった未練を、すべて飲み込んでいく。
ガラスケースの中で、赤い花が咲いた。
その奥で、ヴィクトルが初めて瞬きをした。
こつん。
今度の音は、彼の指からではなかった。
エルゼヴィーラの黒い爪が、ガラスの内側を叩いていた。
翌朝、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは失踪した。
王宮は騒然となったが、騒ぎはすぐに閉じられた。公爵家には、令嬢は心労のため静養に入ったと伝えられた。社交界には、婚約破棄の恥に耐えかねて姿を消したという噂が流された。
アルノルトは沈黙した。
リーゼは何度も、エルゼヴィーラを探した方がいいのではないかと言った。だが王宮の者は、それを許さなかった。
「王太子殿下のご婚約発表を控えております」
「今は騒ぎを大きくしてはなりません」
「ローゼンヴェル嬢にも、お一人になりたい時間が必要でしょう」
そう言われると、リーゼは黙るしかなかった。
彼女はまだ、王宮の言葉に逆らう方法を知らなかった。
その夜から、王宮で奇妙なことが起こり始めた。
最初は、花弁だった。
アルノルトの執務机に、赤い花弁が一枚落ちていた。
窓は閉まっていた。部屋に花は飾っていなかった。従者は首を傾げたが、王宮の花が紛れ込んだのだろうと片付けた。
翌朝、また一枚。
次の日には三枚。
その次の日には、インク壺の中に沈んでいた。
アルノルトはそれを見て、手を止めた。
赤い花弁は濡れていた。
水ではない。
香水でもない。
それは、夜の温室の匂いがした。
夜になると、机の下から音がした。
こつん。
窓のない部屋で、ガラスを叩くような音だった。
アルノルトが振り返ると、誰もいない。
だが翌朝、机の上には赤い花弁が増えていた。
次は、香りだった。
夜会でエルゼヴィーラを笑った伯爵夫人が、朝から気分が悪いと訴えた。自慢の香水瓶を開けると、中身は濁った赤に変わっていた。
部屋中に、甘い匂いが広がった。
甘すぎて、腐る寸前の果実のような匂いだった。
「花の匂いがする」
そう言って、夫人は喉を押さえた。
その日から、彼女は誰かを褒めようとするたびに咳き込むようになった。
美しい、と言いかける。
こつん。
鏡の内側で音がする。
誰より、と言いかける。
こつん。
喉の奥で、何か硬いものが鳴る。
咳の後には、小さな赤い花弁が舌の上に残った。
誰もそのことを噂にしなかった。
噂にすれば、自分のところにも来るような気がしたからだ。
そして、リーゼにも異変は起きていた。
王太子妃教育が始まると、彼女の生活は一変した。
朝の祈り。
礼法。
発声。
歩行。
刺繍。
舞踏。
歴史。
外交。
食事。
沈黙の仕方。
怒りを見せない方法。
涙を落とす角度。
「もう少し、声を抑えてくださいませ」
「歩幅が大きすぎます」
「殿下の隣では、半歩お下がりください」
「お笑いになる時は、口元を隠して」
「無邪気さは魅力ですが、王宮では幼さにも見えます」
「自然なままではいけないのですか」
リーゼが思わずそう言うと、教育係は穏やかに微笑んだ。
「自然であることと、未熟であることは違います」
リーゼは黙った。
その言葉は正しいように聞こえた。
だが、毎日少しずつ、何かが削られていく。
彼女の髪は、ある朝から、エルゼヴィーラと同じ形に結われるようになった。侍女は気づいていないらしかった。白いドレスを選んだはずなのに、部屋に届くのは赤みを帯びた衣ばかりになった。
鏡の前で笑う。
自分の笑みではなかった。
口角の上がり方が、あの夜のエルゼヴィーラに似ていた。
「違う」
リーゼは鏡から離れた。
けれど鏡の中の彼女は、ほんの少し遅れて離れた。
こつん。
鏡の内側から、音がした。
リーゼは息を止めた。
鏡の中の彼女は、まだ笑っていた。
ある夜、リーゼは眠れずに部屋を出た。
王宮の廊下は暗い。燭台の火は小さく、肖像画の目だけが浮いて見える。遠くから、何かを引きずるような音がした。
温室の方角だった。
その音に混じって、硬いものを叩く小さな音がする。
こつん。
こつん。
まるで誰かが、こちらへ来いと扉を叩いている。
リーゼは、行ってはいけないと思った。
けれど足は止まらなかった。
王立温室の扉は開いていた。
中には誰もいない。夜のレーヴェンローゼが赤く染まり、ガラス天井には月が滲んでいた。湿った土の匂い。甘すぎる花の香り。ランプの橙色。
最奥の鉄扉も、開いていた。
リーゼは唇を噛んだ。
「エルゼヴィーラ様」
返事はない。
こつん。
地下から音が返った。
階段を降りる。
一段。
また一段。
地下の空気は冷たかった。
そして、彼女は見た。
ガラスケースの列。
中に立つ、令嬢たち。
眠るような顔。
根に絡まる手足。
肌から咲く赤い花。
リーゼは悲鳴を上げそうになったが、声が喉で詰まった。
最奥のケース。
そこに、エルゼヴィーラがいた。
赤い礼装のまま、ガラスの中で眠っている。黒い髪は整えられ、ぱっつりと切られた前髪の下で長い睫毛が影を落としていた。白い脚には本物の蔓が絡み、赤い花が咲いている。
綺麗だった。
その美しさが、恐ろしかった。
「あなたは」
リーゼの声は震えた。
「私を恨んでいるのですか」
エルゼヴィーラの目が開いた。
こつん。
黒い爪が、ガラスの内側を叩いた。
その音で、地下温室中の令嬢たちが一斉に目を開けた。
ガラスの中で、エルゼヴィーラは微笑んだ。
「いいえ」
その声は、ガラス越しなのに耳元で聞こえた。
「あなたは、次の花ですもの」
リーゼは息を呑んだ。
「次の」
「わたくしの代わりに、選ばれただけ」
エルゼヴィーラはゆっくりと首を傾けた。
「お可哀想に」
その言葉は優しくなかった。
同情でもなかった。
まるで、昔の自分を見ているような響きだった。
リーゼは後ずさった。
背後のガラスケースの中で、別の令嬢が黒い爪を上げる。
こつん。
また一人。
こつん。
また一人。
こつん。
無数の目が、リーゼを見る。
その視線は、かつてエルゼヴィーラに向けられていたものと同じだった。
品定め。
リーゼは逃げ出した。
階段を駆け上がり、温室を抜け、廊下を走る。部屋へ戻り、鍵をかけ、鏡の前で息を荒げる。
鏡の中の自分は泣いていた。
だが、涙は一粒だけだった。
完璧な角度で頬を伝っていた。
リーゼは叫んだ。
その声の代わりに、口から赤い花弁が一枚落ちた。
アルノルトは夢を見るようになった。
毎晩、同じ夢だった。
地下温室。
ガラスケース。
赤い礼装のエルゼヴィーラ。
彼女はケースの中からこちらを見ている。
「殿下」
その声は、昔の彼女の声に似ている。だが、どこか遠い。古い録音のように歪み、濡れた布越しに聞こえる。
「私は、誰より美しかったのでしょうか」
アルノルトは答えようとする。
君は美しかった。
そう言おうとする。
だが口が開かない。舌の上に花弁が積もっている。喉の奥まで、赤い花で埋まっている。息ができない。
エルゼヴィーラは微笑む。
「また、誰よりとおっしゃるのですね」
こつん。
ガラスを叩く音で、目が覚める。
枕元には、赤い花弁。
アルノルトは古い王家の記録を調べ始めた。
最初は罪悪感からだった。
エルゼヴィーラはどこへ行ったのか。王宮は何を隠しているのか。リーゼの様子はなぜ変わっていくのか。
だが記録を開くほど、彼の顔から血の気が引いていった。
王立温室管理録。
妃候補一覧。
適合花。
不適合花。
保存済。
地上移植。
地下保存。
養分転換。
そこに並ぶ名前は、王家の歴史書では病没や静養とされている令嬢たちだった。
その中に、エルゼヴィーラの名もあった。
標本予定。
日付は、婚約破棄の夜より前だった。
アルノルトは椅子から立ち上がった。
自分は知らなかった。
そう思った。
知らなかったのだから、自分の罪ではない。
そう思おうとした。
けれど、あの夜の自分の言葉を思い出した。
君は美しい。だが、彼女は君より自然だ。
あの言葉が、彼女を地下へ落とした。
いや、地下へ落ちるよう作られていた彼女の背を、最後に押した。
その事実からは逃げられなかった。
正式な婚約発表の夜が来た。
王立温室には、再び貴族たちが集められた。あの夜よりも多くの花が飾られている。レーヴェンローゼは不自然なほど赤く、ランプの光を受けて濡れたように輝いていた。
リーゼは赤いドレスを着せられていた。
白がいいと言ったが、侍女たちは困ったように微笑むだけだった。
「王太子妃候補には、赤がよくお似合いです」
鏡の中のリーゼは、自分ではなかった。
エルゼヴィーラにも見えた。
ガラスケースの中の令嬢たちにも見えた。
「嫌」
小さく言ったが、誰も聞かなかった。
温室中央で、アルノルトはリーゼの手を取った。王族、貴族、神官、庭師、侍女、誰もが見ている。
王は婚約発表の言葉を述べようとした。
その時、温室のガラス天井が赤く曇った。
誰かが見上げる。
次の瞬間、すべてのレーヴェンローゼが一斉に開いた。
甘い匂いが爆発するように広がる。貴族たちが咳き込む。床石の隙間から黒い根が伸び、靴に絡む。悲鳴が上がる。
温室の奥の鉄扉が開く。
こつん。
こつん。
こつん。
黒い爪がガラスを叩くような音が、会場全体に響いた。
エルゼヴィーラが現れた。
赤橙の礼装。
大きく膨らんだ袖。
白い脚に絡む蔓。
黒い爪。
完璧な微笑み。
だが、もう人形のようではなかった。
彼女の背後には、無数の赤い花弁が舞っている。温室の影の中に、ガラスケースの令嬢たちの顔が浮かんでは消えた。彼女たちは皆、笑っている。
エルゼヴィーラはゆっくりと歩いた。
誰も逃げられなかった。
根が足を捕らえ、花の香りが喉を塞ぎ、貴族たちはその場で立ち尽くすしかない。
彼女はアルノルトの前で止まった。
「殿下」
アルノルトは声を失った。
リーゼは震えていた。赤いドレスの袖を握りしめ、泣きそうな顔でエルゼヴィーラを見ている。
エルゼヴィーラは二人を見比べた。
「今度は、どちらが本物に見えますか」
その問いに、温室中が凍った。
アルノルトの口が動く。
君だ。
そう言いかけた。
リーゼより君が美しい。
そう言いかけた。
だが、彼は止まった。
エルゼヴィーラの目を見たからだ。
彼女が欲しいのは、それではない。
誰よりでも、あれよりでもない。
アルノルトは、幼い日の温室を思い出した。
迷子になった自分。
泣きそうな自分。
手を差し伸べた少女。
まだ王宮の赤い花ではなかった、ただの少女。
彼は震える声で言った。
「エルゼヴィーラ」
花の香りが止まった。
地下から、何かが一斉に息を呑む気配がした。
エルゼヴィーラは目を伏せた。
ほんの一瞬、彼女の顔から完璧な微笑みが消えた。
そこにいたのは、泣き方さえ決められていた令嬢ではなかった。
傷ついた一人の女だった。
そして、次の瞬間。
その女の口元が、ふ、と吊り上がった。
美しくはなかった。
礼儀正しくもなかった。
王太子妃候補に相応しい微笑みでも、悲劇の令嬢に許された涙でもなかった。
もっと生々しく、もっと浅ましく、もっと長く押し殺されていたものだった。
比べられるたびに飲み込んだ怒り。
飾られるたびに殺した吐き気。
美しいと言われるたび、少しずつ自分の輪郭を削られていった恨み。
それらが、ようやく彼女の顔に出た。
アルノルトは、その表情を初めて見た。
彼女の心が見えない、と言ったのは自分だった。
けれど、今そこに現れた心は、彼が見たかったものではなかった。
「はい」
エルゼヴィーラは答えた。
その声は甘かった。
甘すぎて、腐る寸前の果実のようだった。
「けれど、もう私は、その名前だけでは戻れません」
アルノルトは一歩踏み出そうとした。
根が彼の足首に絡む。
「すまなかった」
「謝罪は、花には届きません」
「君を人として見ていなかった」
「ええ」
「私は」
「殿下」
エルゼヴィーラは静かに遮った。
「最後に一つだけ、お願いがございます」
アルノルトは頷いた。
「何でも」
「私を、花と呼ばないでください」
アルノルトは息を呑んだ。
そして、もう一度言った。
「エルゼヴィーラ」
その瞬間、地下でガラスが割れる音がした。
一つではない。
いくつも。
いくつも。
百年分のガラスケースが、次々に砕ける。
エルゼヴィーラは笑った。
今度は、隠さなかった。
口元が歪む。
頬が引き攣る。
黒い爪が、嬉しそうに震える。
美しいと言われるために整えられた顔が、その美しさを内側から食い破るように崩れていく。
その顔を見て、貴族たちはようやく理解した。
彼女は可哀想な令嬢として戻ってきたのではない。
救われるために現れたのでもない。
自分を飾った者たちを、ひとり残らず見返すために咲き返ったのだ。
こつん。
黒い爪が、夜を叩いた。
その音に応えるように、温室の床から赤い花弁が噴き上がった。壁に飾られた王家の紋章が黒く変色し、レーヴェンローゼの根が玉座の方角へ伸びていく。貴族たちは悲鳴を上げた。口を開いた者の喉から花が咲く。
かつて令嬢たちを品定めした者。
比較した者。
笑った者。
飾った者。
選んだ者。
捨てた者。
彼らの言葉は、花になって口を塞いだ。
リーゼは立ち尽くしていた。
エルゼヴィーラは彼女を見る。
「お逃げなさい」
リーゼは首を振った。
「私は、あなたを可哀想だとは言いません」
エルゼヴィーラの目が、少しだけ和らいだ。
「それでいいのです」
「私は」
リーゼは泣きながら言った。
「私は、あなたの場所を奪ったのですね」
「いいえ」
エルゼヴィーラは言った。
「あなたも、次に置かれただけ」
リーゼは唇を噛んだ。
エルゼヴィーラは黒い爪で、リーゼの赤い袖を裂いた。布が破れ、根が離れる。リーゼの足を捕らえていた蔓もほどけた。
「行きなさい。生きて、見たことを忘れずに」
リーゼは走った。
背後で、温室が軋む音がする。ガラス天井がひび割れ、月の光が赤く滲む。アルノルトは逃げなかった。
彼はエルゼヴィーラの前に残った。
「私も行けと言わないのか」
「殿下は、王家でしょう」
「そうだ」
「ならば、見届けてください」
彼は頷いた。
エルゼヴィーラは、彼の胸元のレーヴェンローゼに触れた。
花は黒く変わった。
「王家の花は、今夜で終わりです」
「君はどうなる」
エルゼヴィーラは答えなかった。
代わりに、温室中の花が彼女へ向かって傾いた。地下から解き放たれた令嬢たちの声が、赤い花弁になって舞う。怒り、悲しみ、嫉妬、未練、愛されたいという願い。すべてが彼女に集まる。
温室の奥で、ヴィクトルが一礼した。
誰も彼を見ていなかった。
王も、貴族も、神官も、侍女たちも、咲き乱れる赤い花と、そこに立つエルゼヴィーラだけを見ていた。
だがヴィクトルだけは、割れたガラスケースの列へ向き直っていた。
「長いお勤めでございました」
彼がそう言うと、地下から風が吹いた。
水の腐った匂い。
古い香水。
湿った絹。
錆びた鉄。
閉じ込められた息。
そして、無数の爪音。
こつん。
こつん。
こつん。
ガラスはもう割れているのに、音だけが鳴った。
ヴィクトルは白い手袋を外した。
その指先は、黒く染まっていた。
「これより先は、あなた様の温室に」
エルゼヴィーラは彼を見た。
「あなたは、何をしていたのです」
「扉を叩いておりました」
ヴィクトルは穏やかに答えた。
「花にされる方々が、迷わずこちらへ降りてこられるように」
「それだけですか」
ヴィクトルは少しだけ、白い手袋の指先を見た。
「それだけを、許されておりました」
その声に、初めて人の疲れが滲んだ。
「止めることも、逃がすことも、名を呼ぶこともできません。ただ、叩く。扉の内側から、こつん、と。百年、その音だけが私の役目でございました」
エルゼヴィーラは黒い爪を見下ろした。
「では、もう必要ありません」
「はい」
ヴィクトルは微笑んだ。
「ようやくでございます」
その声に、喜びはなかった。恐れもなかった。ただ長い仕事を終えた者の疲れだけがあった。
エルゼヴィーラが指先を上げる。
こつん。
何もない空間を、黒い爪が叩いた。
その音に、地下の割れたガラスケースが一斉に震えた。
ヴィクトルの身体から、赤い花が咲いた。
悲鳴はなかった。
彼は最後まで礼をしたまま、花に覆われていった。
エルゼヴィーラは、それを拒まなかった。
彼女はもう、飾られる花ではなかった。
標本にされる令嬢でもなかった。
標本室そのものの主になろうとしていた。
月光が落ちる。
ガラス天井が砕ける。
赤い礼装が、花弁のように広がる。
アルノルトは最後に見た。
エルゼヴィーラが笑っていた。
その笑みは完璧ではなかった。
少し歪んで、少し寂しく、少し浅ましく、けれど確かに彼女自身のものだった。
こつん。
黒い爪が、夜を叩いた。
翌朝、王宮は静まり返っていた。
火事は起きていなかった。
建物も崩れていなかった。
ただ、王宮中の窓という窓に、赤い花が咲いていた。
扉にも、玉座にも、肖像画にも、王太子の部屋にも、謁見の間にも、王立温室にも。花瓶も水も土もない場所から、赤い花が咲いていた。
王太子アルノルトは行方不明。
エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルも行方不明。
ヴィクトルという名の管理人もまた、王宮の記録から消えていた。
地下温室の入口は、どれだけ探しても見つからなかった。
王家は急速に衰えた。
王は病に倒れ、王族たちは次々と王宮を去った。レーヴェンローゼは二度と白く咲かず、昼も夜も黒に近い赤のままだった。温室は封鎖されたが、封鎖の札の隙間から、毎夜甘い匂いが漏れた。
そして、夜ごと音がした。
こつん。
こつん。
封じられた温室の奥から。
窓のない部屋の内側から。
赤い花が咲いた扉の向こうから。
黒い爪で、ガラスを叩くような音だった。
リーゼ・ファルケンは王宮を去った。
修道院へは行かなかった。遠い地方の小さな屋敷で暮らし、二度と赤い花を部屋に飾らなかった。彼女は長い年月をかけて、王宮で見たものを書き残した。
だが、その記録の最後には、同じ言葉が何度も繰り返されていた。
美しいと言ってはいけない。
誰かより美しいと言ってはいけない。
可哀想だと言ってはいけない。
花のようだ、と言ってはいけない。
人形のようだ、と言ってはいけない。
その言葉は、褒め言葉の顔をして、人を箱に入れる。
彼女は同情を嫌う。
比較を嫌う。
品定めを嫌う。
もし夜、王宮の古い温室で赤い礼装の令嬢を見たなら、逃げてはいけない。悲鳴を上げてもいけない。褒めてもいけない。憐れんでもいけない。
もし、こつん、と音がしたなら。
扉でも、窓でも、鏡でも、胸の奥でも。
その音が二度鳴る前に、言わなければならない。
あなたです、と。
誰よりでもなく。
花でもなく。
可哀想な誰かでもなく。
あなたです、と。
それだけなら、彼女は微笑むだけで見逃してくれる。
言葉を間違えれば、翌朝、その人の部屋には赤い花が一輪咲く。
花瓶も水もない場所に。
まるで、そこに誰かが一晩立っていたように。
それから五十年後。
王宮は廃墟になっていた。
新しい王朝が立ち、古い王家の名は歴史の隅へ追いやられた。王立温室も長く閉ざされ、ガラス天井は曇り、鉄骨は黒く腐食していた。
ある秋の夜、学者たちが調査のために温室へ入った。
彼らは古い記録を頼りに、地下室を探していた。王家の植物標本が残っているなら、歴史的価値がある。そう考えたのだ。
温室の最奥で、彼らは錆びた鉄扉を見つけた。
鍵はなかった。
扉は、内側から待っていたように開いた。
地下へ降りると、そこには割れたガラスケースの残骸が並んでいた。水は枯れ、管は空になり、ランプも消えている。ただ、奇妙なことに、花の匂いだけが残っていた。
最奥に、一つだけ無事なケースがあった。
中には、赤い礼装が飾られていた。
咲きすぎた花弁のような袖。
首元まで詰まった襟。
黒い爪の手袋。
白い脚に絡む蔓の刺繍。
だが、そこに遺体はなかった。
金の札には、かすれた文字が刻まれていた。
エルゼヴィーラ・ローゼンヴェル。
標本花。
未完成。
若い学者の一人が、ランプを掲げて笑った。
「保存状態は悪いが、美しい。ほかの標本よりずっと――」
こつん。
音がした。
学者たちは振り返った。
誰もいない。
こつん。
また、音がした。
ガラスを、内側から黒い爪で叩くような音だった。
だが、ケースの中に人はいない。
赤い礼装だけが、暗闇の中で揺れていた。
若い学者の唇が震えた。
「誰より、美しい」
その言葉を言い終える前に、彼の喉から赤い花が咲いた。
ランプが消える。
暗闇の中で、女の声がした。
「違います」
こつん。
今度は、彼のすぐ背後で鳴った。
黒い爪が、彼の耳元で、見えないガラスを叩いた。
「あなたです、と言わなければ」
その夜、地下でまた、花が咲いた。
今回も、とある曲と一枚のビジュアルから着想して書きました。
「美しい」と言われ続けることが、祝福ではなく標本箱になる話です。
もしどこかで、こつん、と小さな音がしたら。
その時は、どうか言葉を間違えませんように。
お読みいただきありがとうございました。




