8話 巻物の禁忌、あるいは愛という名の逃避
朝靄が立ち込める河原で、二人は身を寄せ合っていた。
崖下への決死の跳躍は、蓮の驚異的な受身と陽葵の火薬玉による緩衝によって、奇跡的に命を繋いでいた。しかし、その代償は小さくない。蓮の肩口からは依然として血が滲み、陽葵もまた、疲労と負傷で立っているのがやっとの状態だった。
「……陽葵、その巻物を出せ」
岩陰に身を隠すと同時に、蓮が静かに、だが重みのある声で言った。
陽葵は一瞬、警戒するように胸元の巻物を抱きしめたが、蓮の曇りのない瞳を見て、震える手でそれを差し出した。
「……父様は、これを届けさえすれば、望月は再興できるって言ってたわ。でも、これのどこにそんな力が……」
蓮は、これまで一度も開こうとしなかったその巻物の封印を、指先で注意深く解いた。
中から現れたのは、色褪せた絹布に記された、複雑な家系図と、いくつもの隠し印だった。
蓮はその記述を追うごとに、端正な顔を険しく歪めていく。
「……これは、望月の再興のための秘術などではない」
「えっ……? じゃあ、何なの?」
「……『禁断の血脈』の証明書だ」
蓮の声が、微かに震えていた。
巻物に記されていたのは、現将軍家がかつて、ある有力な大名を暗殺し、その地位を奪い取ったという凄惨な歴史の裏側。そして、その大名の「正当な後継者」が、実は望月衆の血筋に繋がっているという、幕府の正当性を根底から覆す、生きた証拠だったのだ。
「望月が滅ぼされたのは、単なる忍び同士の抗争じゃない。幕府はこの秘密を……自分たちの正体を葬り去るために、お前たちを皆殺しにしたんだ」
陽葵は、言葉を失った。
自分が信じていた「里の再興」という希望。それは、幕府という巨大な龍の逆鱗に触れ続けるための、あまりに残酷な生贄の看板に過ぎなかった。
「……そんな、じゃあ、父様も、仲間たちも……みんな、この紙切れ一枚のために死んだっていうの!?」
陽葵の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼女がこれまで支えにしてきた「誇り」が、音を立てて崩れ去っていく。
蓮は、泣き崩れる陽葵を、その大きな腕の中に力強く引き寄せた。
「……陽葵。もう、望月の名は捨てろ。……この巻物は、私が処理する。お前がこれを持ち続ける限り、幕府は地の果てまでお前を追い続けるだろう」
「でも……これがないと、私は……私は誰でもなくなっちゃう!」
「……私がお前を、ただの『陽葵』として守る」
蓮の言葉は、氷を溶かす春の陽光のように、陽葵の凍りついた心を包み込んだ。
彼は巻物を握りつぶし、その場で火を放った。
望月衆の宿命が、赤い炎となって朝の空気の中に消えていく。その光景を見つめる蓮の横顔は、もはや「死神」ではなく、大切なものを守り抜こうとする、一人の決然とした男のそれだった。
「……さあ、行くぞ。この先に、伝説の隠れ里『不知火』があると言われている。そこなら、幕府の手も届かないはずだ」
「……蓮……。本当に、いいの? 組織を捨てて、名前を捨てて……私と一緒にいて」
蓮は、陽葵の涙を親指でそっと拭うと、初めて、陽葵の前でかすかな笑みを浮かべた。
それは、夜明けの光よりも美しく、陽葵の心臓を激しく揺さぶった。
「……お前に団子を奢るという任務が、まだ残っているからな」
二人は再び歩き出した。
もはや宿敵でもなく、追跡者と標的でもない。
偽りの夫婦という役割さえも脱ぎ捨てた、裸の心を持つ二人の男女として。
不知火へと続く山道は険しく、空には再び影森の放った忍鴉が舞っている。
だが、蓮に握られた陽葵の手は、もう震えていなかった。
絶望の果てに、二人はようやく、自分たちだけの「真実」を見つけ出したのだ。
「……好きよ、蓮」
陽葵が小さく囁いた声は、風に消された。
けれど、蓮の耳には確かに届いていた。彼は何も答えなかったが、その繋いだ手に、さらに強い力が込められたことが、陽葵には何よりも雄弁な答えだった。




