1話 氷の刃と紅の火花
月は厚い雲に覆われ、竹林は底知れぬ深い闇に沈んでいた。
笹の葉が夜風に擦れる乾いた音だけが不気味に響く中、一筋の影が、獣のように風を切って疾走する。
「……はぁ、はぁ、っ……!」
望月陽葵は、乱れる呼吸を必死に抑えながら、背後の気配を探っていた。
肩口の装束は鋭い刃物で鮮やかに裂かれ、そこから滲む鮮血が夜の冷気に触れて、急速に体温を奪っていく。痛みはもはや慣れたものだが、止まれば死が待つ。
彼女が胸元に強く握りしめているのは、古びた一巻の巻物。没落した「望月衆」の再興を賭けた、唯一無二の希望だ。
これを里の長老に届けるまでは、例え四肢がもげようとも、心臓が止まるその瞬間までは止まるわけにはいかなかった。
しかし、その背後には、決して逃げ切ることのできない「死」が静かに迫っていた。
音もなく、空間そのものが歪んだかのように、その男は現れた。
陽葵の進路を塞ぐように、一本の太い竹が音もなく一刀両断にされる。切断面は鏡のように滑らかで、その一撃の凄まじさを物語っていた。
「無駄だ。お前の歩法では、私の足跡さえ消せはしない」
頭上から降ってきたのは、心臓を凍りつかせるほどに冷徹な声。
陽葵は反射的に横へ飛び退いた。
着地し、低い姿勢でクナイを構えた陽葵の前に立つのは、幕府直轄の隠密組織「黒鴉」の筆頭、九条蓮だった。
漆黒の装束に身を包んだその姿は、夜の闇そのものが形を成したかのよう。端正な顔立ちは彫刻のように無機質で、その切れ長な瞳には、生命を慈しむような光は微塵も見当たらない。ただ、獲物を追い詰めた獣のような、冷たい光だけが宿っている。
「九条、蓮……。本当にしつこいわね、幕府の飼い犬さんは」
陽葵は強がりを口にしながら、奥歯を噛み締めた。
勝機は絶望的に薄い。目の前の男は「忍びに感情はいらぬ」という鉄の掟をそのまま体現したような、血の通わぬ殺人兵器だ。過去、幾多の熟練の忍びが彼の手によって、断末魔すら許されぬまま闇に葬られてきた。
「巻物を置け。そうすれば、苦しまずに死なせてやる。抵抗すれば、その四肢を断ってから連行するだけだ」
蓮の声には、怒りも憎しみも、ましてや高揚感すらもなかった。ただ、事務的に「処理」を行おうとする冷徹な意思だけが、凍てついた空気となって場を支配する。その声音は、獲物の命を摘み取ることに微塵の躊躇もない、絶対的な自信に満ちていた。
「断るわ。これは私の……私たちの誇りなのよ! あんたみたいな、主君の命令だけで動く人形に渡してやるもんですか!」
陽葵が地を蹴った。
彼女の武器は、火遁の術を組み合わせた変幻自在の体術だ。懐に隠した火薬玉を炸裂させ、目くらましの煙と共に至近距離から連撃を繰り出す。
しかし、蓮は抜刀すらしていなかった。鞘に収まったままの刀を使い、その死角からの一撃すらもすべて最小限の動きで見切って受け流していく。陽葵の渾身の連撃が、まるで児戯であるかのように簡単に捌かれていく。
「……脆い。誇りなどという実体のないものに縋るから、お前の剣はこれほどまでに鈍るのだ」
蓮の言葉と共に、重い衝撃が陽葵の腹部を襲った。
鞘による容赦のない一撃。それだけで陽葵は数メートル後方へ吹き飛ばされ、太い竹に背中を激しく打ち付けた。肺から無理やり空気が搾り出され、視界がチカチカと火花を散らす。
「がはっ……っ……!」
朦朧とする意識の中、蓮がゆっくりと歩み寄ってくる足音が聞こえた。
それは彼女にとって、確実な死のカウントダウンに他ならない。
蓮は、地面に倒れ伏した陽葵を見下ろした。本来なら、ここで喉笛を掻き切って終わりの密命だ。彼は今まで、一度として命令に迷いを抱いたことはなかった。命じられれば、相手がどのような境遇であろうとも、赤子であれ老人であれ、等しく闇に葬ってきた。
だが、今、彼の足が止まっていた。
「……何をしている。立て。それとも、そのまま果てるか」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
陽葵は震える腕で地面を突き、泥に汚れ、血を流しながらも、なお彼を睨みつけていた。その瞳は、絶望に染まるどころか、燃えるような紅い光を放っている。死の淵にありながら、それでもなお「生きよう」とする、純粋で激しい炎。
「……死んで、たまるもんですか。あんたみたいな……心のない、ただの道具に、負けるわけにはいかないの……!」
陽葵は吐血を拭い、ふらつきながらも再び立ち上がった。その瞬間、蓮の胸の奥で、二十数年の人生で一度も経験したことのない奇妙な動揺が走った。
彼は知っている。この女は、自分が守るべき「忍びの道」の対極にいる存在だ。
感情を剥き出しにし、無謀な希望を抱き、泥にまみれてもなお「生」に固執する。その熱量が、彼の凍てついた世界を、わずかに、だが確実に侵食し始めていた。
「心、か。そんなものは任務の邪魔でしかない。それを持った忍びから順に、死んでいくのがこの世の理だ」
蓮はついに刀を抜いた。名刀『氷雨』の刃が、雲間から差し込んだ月光を浴びて冷たく輝く。
彼は陽葵の首筋に、冷ややかな刃を突きつけた。あと数ミリ、手首を動かすだけで、すべてが終わる。
「最後だ。巻物を渡せ。さもなくば、その首を落とす」
「嫌……よ。殺したければ、殺しなさい」
陽葵は逃げなかった。それどころか、自ら刃に近づくようにして一歩踏み出し、蓮の瞳を真っ直ぐに見つめた。
至近距離。二人の呼気が重なる。
蓮は、陽葵の瞳の中に、自分自身の凍りついた無機質な顔が映っているのを見た。そして同時に、彼女の瞳に宿る、震えるような「生命」の輝きに、視線を逸らすことができなかった。
(なぜ、斬れない……)
蓮は心の中で自問する。殺気は十分。技術も完璧。相手は満身創痍。
なのに、腕が鉄のように重い。彼女の激しい鼓動が、触れてもいない刀の鋼を伝わって、自分の掌を不自然に熱くさせているような錯覚に陥る。
その時だった。竹林の奥から、複数の殺気が二人を包囲するように広がった。
「……っ、黒鴉の増援!? 卑怯ね……!」
陽葵が身構える。だが、蓮は即座にその気配を否定した。
「違う。……あれは、雇われの野良忍びどもだ。この騒ぎを聞きつけ、漁夫の利を狙いに来たか」
闇の中から現れたのは、奇怪な仮面をつけた五人ほどの集団。彼らの狙いもまた、陽葵の持つ巻物、あるいは幕府の要人である蓮の首に懸けられた莫大な賞金だろう。
「九条蓮! 貴様の首と望月の娘、まとめて貰い受けるぞ!」
無数の手裏剣が、二人を目がけて降り注ぐ。陽葵は負傷した足で避けようとするが、バランスを崩してよろめいた。
その瞬間、蓮は思考よりも先に体が動いていた。彼は瞬時に陽葵の腰を抱き寄せると、背後の竹を強く蹴って大きく跳躍した。
「……えっ!? ちょっと、何を――」
陽葵の困惑を無視し、蓮は空中で手裏剣を鞘で弾き飛ばしながら、冷たく言い放つ。
「勘違いするな。お前を殺すのは、私だ。……こんな雑兵共に、お前の命を奪う資格はない」
強引に抱き寄せられた蓮の腕は、岩のように硬く、そして陽葵が想像していたよりもずっと熱かった。その温度に、彼女の心臓は、傷の痛みとは全く違う理由で激しく脈打ち始めた。
敵対するはずの二人の忍び。
殺意と、まだ名前のない感情が交錯する中で、運命の歯車が回り始めた。




