妹に婚約者を奪われましたが、新しい旦那様と幸せなのでもう関わらないでください
自分の中で一番好きなお話が書けました。
とある国に、建国当時から続く歴史ある貴族、スタンウィリー伯爵家という家がありました。
その名と血筋は高貴なものであり、故に高いプライドがありました。
しかし、実際の所は名ばかりの貴族でした。
災害によって領地の作物は育たず、かつて持っていた銀山は枯渇。表では見栄を張っていましたが、今にも首が回らなくなるほどの借金を抱えておりました。
そして、それにいち早く気づいたのは、ポーラット男爵家。貿易商で得た莫大な資金で爵位を買った目ざとい新興貴族です。借金を全て肩代わりする事を条件に、息子のブラッドを婿として送り込みました。実質、血筋の乗っ取りです。
というのも、スタンウィリー伯爵家は男児に恵まれず、二人の娘しかおりませんでした。
姉の名はノエラ。妹の名はエメル。
一言で言えば、姉は清楚、妹は妖艶。二人とも艶やかな黒髪を持っておりますが、印象は違いました。
ポーラット男爵家のブラッドは、家を継ぐ予定である姉のノエラと婚約しました。
ノエラとエメル、姉妹の仲はお世辞にも良いとは言えませんでした。
体裁ばかり大切にする伯爵は、ノエラに最高の教育を与え、エメルにはあまり干渉しませんでした。
また、エメルが女児で産まれた為に、母親はストレスに耐えかね病死。その事でエメルは陰口を叩かれることもありました。
「落ちこぼれの妹」「奥様を殺したくせに」
「また男遊びですって」
一方、ノエラは伯爵の期待を一身に受け、めきめきと模範的な令嬢として頭角を表しました。
そして時に、妹の陰口を叩いている者に言うのです。
「エメルの陰口はお辞めください。大切な妹なのです」と。
エメルはノエラが憎くて仕方ありませんでした。
ノエラの優しさすら、煩わしいのです。
ノエラの婚約者であるブラッドは、癖のある茶髪の、人の良さそうな男でした。裕福なだけあって、身なりが良く、洗練された雰囲気がありました。
「東の国で、簪という珍しい髪飾りを見つけてね。この装飾は桜という花をモチーフにしているらしい。ノエラさんの瞳の色に似ているから、買ってきたんだ」
「ありがとうございます。とても綺麗です」
ノエラはいつものように口角を少しだけ上げて清楚な笑みを浮かべます。そんな様子を見ていたエメルは、姉に一矢報いたい一心でブラッドに近づきました。
「ブラッドさん。外国の話、聞きたいなあ。教えてくださらない?」
ブラッドの話は、流石貿易商を生業としている生まれだけあって、とても面白いものでした。そして、エメルに笑顔を向けて、こう言うのです。
「エメルさんには、この簪を。装飾のスミレ色のガラス玉が貴女の綺麗な瞳にそっくりだと思って」
エメルは思いました。ああ、初めて私の目をしっかり見てくれる人に出会った、と。
それから、エメルはブラッドを誘うようになりました。
最初は断っていたブラッドも、次第にエメルのことが気になるようになりました。
「ブラッドさん遊びましょ」と時に艶かしく誘ったかと思えば、「私っていらない子なの」と寂しそうな顔をしたり。
「だってお姉様の婚約者じゃない!」と強がって離れたかと思えば、「今だけで良いの、側に居て」と恥ずかしそうに甘えたり。
「男遊びしてるって噂……本当か試してみる?」と誘われた時、ノエラには無い色を感じ、ブラッドはエメルを押し倒しました。ノエラへの罪悪感や背徳感が、二人の最高の興奮材料でした。
そして、エメルは涙を流して、屋敷を飛び出しました。
「私、ブラッドさんのこと、本当に好きになっちゃった。だからここを出ます」と言い残して。
ブラッドの心は完全に傾きました。
皆から慕われているノエラには、将来がある。でもエメルには僕しか居ない。と。
一切表情を崩さない完璧なノエラと、いじらしく葛藤する人間らしいエメル。
ブラッドは何もかもを捨ててエメルを追いかけました。
「爵位も無いし、仕事も探さねばならない。裕福な暮らしはできない。それでも良いなら、遠い国に行こう。二人で密かに、幸せに暮らそう」
エメルは喜びの涙を流しました。
そうして二人は、小さな田舎町で静かに愛を育みました。
「……という、まるで酷い通俗小説の様なお話なのですが」
「うーん?僕には良い物語に聞こえるけどねえ。良いじゃない、何もかもを捨てて愛に生きるって」
私の名はノエラ。この物語に出てくる、一切表情を崩さない姉です。
目の前で私の話を聞くのは、ベイラル侯爵家の五男坊、私の二つ上の歳の、エリオット・ベイラル様。
金色の髪は緩く後ろで束ねられていて、綺麗な顔でヘラヘラと笑っています。五男坊なだけあって適当に生きてる遊び人という噂の彼は、たしかに軽薄な雰囲気を醸し出していました。
そしてここは、繁華街の夜のカフェ。
こんな場所と時間に貴族令嬢がいるのはおかしいとお思いでしょうか。そうですね、貴族令嬢なら——
「エリオット様がこの話を快くお思いでしたら、別視点でお話しいたします。
……あるところに地味な女、ノエラという娘がいました。幼少期から厳しい教育を受け感情を制限され、自由に生きる妹を羨ましく思いながらも責務をこなし、曲がったことが許せず妹に降りかかる理不尽を払っていたら逆に憎まれ、好きでなくとも人の良い男性と将来を築くと思えば妹に略奪され駆け落ち、持参金目当てで金を使っていた伯爵家は遂に爵位返上。そして、突然平民として放り出され、夜の街を彷徨うのでした。お終い」
「あはは! 確かに酷い話だ」
大きな声で笑うエリオット様をみて、こちらまで少し心が軽くなるような気がします。常に口角を三ミリ上げて暮らす事を言いつけられた私は、声を出して笑うなどした事がありませんから。代わりに笑ってもらえている気分になるのです。
「それで、自暴自棄になって夜の街を彷徨い、運悪く柄の悪い男に絡まれてしまったところ、丁度通りかかった色男に救われた……ってわけだね」
「色男……随分と自信に満ち溢れておりますね?」
「そうでしょ?」
「……そうかもしれません」
はあ、とため息をつく私の思考は、エリオット様の事ではなく、これからどうしようと言うことだけです。幸いマナーは身についているので家庭教師……それか使用人、修道女という手もあります。
でも、気乗りしないのです。
きっとどこへ行っても、”綺麗な妹に婚約者を寝取られたプライドの高いスタンウィリー伯爵令嬢の成れの果て”……と馬鹿にされて生きていくのでしょう。
だからと言って、他に手はないので諦めるしかありませんが。
「ねえノエラちゃん」
「ちゃん……」
「そこ引っ掛かる?」
「初めて言われましたので……」
エリオット様は「そりゃあ、そうか」とニコニコ笑って話を続けました。
「ノエラちゃん行くとこあるの?」
「これから探すつもりです」
「じゃあさ、僕と結婚しない?」
「けっ……こん、?」
今、手に扇子がないのが悔やまれます。きっと驚いた顔をしているでしょうから。まだ人に表情を見せるのは、はしたない事と思ってしまうのです。
いえ、そんな事はどうでも良くて……この方は、何を仰っているのでしょうか。私が狼狽えていることに気づいたエリオット様は、片手を取って甲に口付けを落としました。
「どう? 僕は君と結婚したら遊びまわらない。侯爵家の五男だから爵位は継げないけど、それなりに個人の資産はあるよ。僕たちも、二人で自由に暮らしてみない?」
エリオット様は美しい方なので、大層人気があったようですが、一人の女性を見つけず結婚をする気はないらしいという話を聞いた事があります。
貴族の五男坊らしく、手持ちの資産で死ぬまでフラフラ遊び回ると……。
「何故、突然初対面の私に……?」
「君のことは元々知っていたし、……価値のある果実だから」
貴族の比喩表現は、時に理解に悩むことがあります。
疑問をそのままに返事を考えました。私が今日、自暴自棄になって夜の街に飛び出したのは、今まで制限されていた初めての体験をすれば、この鬱屈した気持ちが変わるのではないかと思ったからです。
もしここで頷けば……それこそ人生が変わるかもしれません。ああ、眩しい。エリオット様の笑顔がとても眩しい。
「私……結婚します」
「ほんと? じゃあ、これからよろしくね、ノエラ」
「よろしくお願いします……」
深く考えることをやめ、ただ、勢いのままこれから始まる未知の生活に期待を寄せました。
そうして、私たちの結婚生活が始まりました。
流石にベイラル侯爵家に反対されると思っていたのですが、五男坊となると本当に放任主義らしく、「好きにしろ」とだけ言われていました。
それから、エリオット様と王都のタウンハウスに住むことに決め、教会で二人だけの結婚式を挙げました。
◇
「その服、窮屈じゃないの?」
「コルセットは女性の嗜みです。リボンのない花束が味気ない様に、私たちに欠かせないものです」
「僕たちはもう貴族じゃないんだ、好きな服着ようよ」
エリオット様に手を引かれ洋服店に行くと、勧められたのは丈の長い白のワンピースでした。金の縁取りが上品で美しい刺繍も入っていましたが、緩く絞られたウエストは、今まで息苦しさと闘いながら着ていたドレスとは全く違いました。
一度この服を着てしまってから、私は呆気なくコルセットを棚の奥にしまってしまいました。
「今日は市場に出かけるなんてどう?」
またもやエリオット様に手を引かれて行ったのは街の中心にある市場でした。
カラフルな果物、肉が焼かれた香ばしい匂い、パーティーのような騒がしさ。何もかもが新鮮で、目が回るほど辺りを見回しました。
「ねえ、凄い」「お貴族様かな?」「綺麗な方……」
そんな声が聞こえ、どき、と胸が鳴りました。
「エリオット様が噂されています」
「ん? どうだろうね、ノエラのことじゃない?」
エリオット様は手をぎゅっと握って、私が注意深く見ていたパン屋に入りました。
「ええと、ここで食べるのですか?」
「そうだよ、そのままぱくって、咥えて」
「そんな、はしたない……」
迷っていると、ふわりと優しい香りがして、口元に温かい感触が当たりました。ほんのり甘くて、香ばしくて、美味しい。しかし状況を理解して、顔が熱くなりました。
「エ、エリオット様……」
「わあ、餌付けしてるみたいで楽しい」
「……おやめください」
こういう時も、扇子があれば良かったのですが……。
「ノエラもそろそろ大人になろうか」
そう言ったエリオット様が次に私を連れて行ったのは街の酒場でした。昼の街とは違った騒がしさでとても活気があります。
初めてお酒を口にしました。甘くて、後味がほろ苦くて……ちらりとエリオット様を見れば、「美味しい?」と首を傾げて仰るので、心臓がドキドキしました。これが、お酒に酔うということなのでしょうか。
エリオット様は人好きのする性格で、あっという間に酒場の人と話を弾ませていました。
「兄ちゃん! ポーカーしようぜ、美人の姉ちゃんも!」
「いや、ノエラは——「します」
私は新しいことに触れるのが楽しくなっていました。ルールを教えてもらって、初めてカードゲームをしました。
結果ですか? 私の圧勝です。心理戦と無表情は、貴族の基本ですから。
「ノエラにゲームの才能があるとはね」
「どうしましょう。とても楽しかったので、私はギャンブラーになってしまうかもしれません」
少し冗談を込めて言えば、エリオット様がたくさん笑ってくださったので、私も少し声を漏らして笑ってしまいました。
「新婚旅行に行かない?」
「新婚旅行……」
そう言えば私たちは結婚していたのでした。
寝室は別ですし、とても清い関係でしたので、よく遊びに行く悪友くらいの感覚でした。
「外国まで、どう?」
「行きたいです」
長旅でしたが、初めて乗る船はとても楽しいものでした。
海水が太陽の光を受けてキラキラ輝いて、陸に降りれば初めて見る景色、言葉の訛り、不思議な模様に囲まれて、世界は広いのだと思いました。
「あ、あれ……」
「なに? 気になるものあった?」
「簪、です」
「可愛い棒だね」
「髪飾りなのです」
「へえ、よく知ってるね」
「ええ、以前、ブラッド様がお土産で……」
買ってきてくださいました、と言おうとすれば、エリオット様からの強い視線を感じました。
「エリオット様?」
「ああ、何でもないんだ。まだ持ってるの?」
「いいえ、借金返済の足しにするために売りました」
「あはは! そうなんだ、いいね」
エリオット様は愉快そうに笑いながら、商品をじっくり見つめ、それから一つ手に取って購入なさいました。琥珀がついたチャームが揺れる綺麗な簪。その色はまるで——
「僕の髪と瞳の色。どうやって付けるかわからないけど……付けれる?」
「……はい」
髪を持ち上げれば、ヒヤリとした冷たい風がうなじを撫でてくれましたが、全然冷静になんてなれなくて……。きっと私、また顔が赤くなって、それでいて口角も三ミリ以上、上がっている気がするのです。
————……
愛があれば全てを乗り越えられる。
そうでしょう?
「ねえ、ブラッド! 今日はこの辺にしましょ」
「ああ、そうだね」
私が声をかけると、鍬を持ったブラッドが顔を上げた。
あの日、あのまま、私たちは国を出てこの田舎町に来た。
もちろん、生活はガラリと変わった。
ドレスじゃなくて、薄い麻の服。
ブラッドが畑仕事をして、私は洗濯をする。
ふわふわなパンなんてものは無くて、質素なご飯だけれど。
でも、愛があれば乗り越えられる。
「よお! ブラッド!」
「あ、レンさん! お疲れ様です!」
ブラッドはボロボロの服についた土を軽く払って、レンという近所の八百屋と話しはじめた。
私は髪に刺さった簪を抜く。……愛があれば、大丈夫。
「ごめんね、レンさんとの話が長引いちゃって」
「ううん! 私も明日出掛けるから一日いないし、おあいこ様」
「ああ、そうだったね。寂しいな」
「ふふ……ねえ、ブラッド、私、幸せ」
「うん、僕もだよ」
私は毎日のようにこの会話をする。
「でも、お姉様はきっとそうじゃないよね。あの家はあるのかしら……、もし没落してたら、お姉様は……」
「あんなに家が嫌いだったのにエメルは優しいね」
「だって、私がお姉様の幸せを奪ったようなものじゃない?」
毎日、毎日。まるで言い聞かせるように。
◇
「エメルー! 来たよ、行こ!」
ここに来て仲良くなった同年代の女の子、メイは、この静かな田舎町にしてはマシな部類の子だった。
「はあ、田舎なんて面白くない。エメルは外国の貴族だったんでしょ? 凄いなあ、キラキラしてたんだろうな」
「まあね、私は割と遊んでいたけれど……」
「ここら辺の酒場じゃあ面白くないよね」
「たしかに、老人しかいないものね」
「でも、エメルにはブラッドさんがいるじゃない!」
「……ええ! 大好きなの」
本当よ。二人でここに来られて、私は幸せなの。
「ねえ、エメル、ちょっと遠くの街まで出てみない?」
「……ええ」
街までと言っても、そこまで栄えてはいない。
ただ、日を跨がずに来れる範囲内では一番活気のある場所。
メイと二人で酒場に入る。私が着ているのは着古した麻の服だけれど、ここにいる人たちは皆同じだから、気にしない。男性もパッとしない人ばかりで、あまり身だしなみを気にしなくなった。それに私は元が良いから、少々服が古くても髪の艶が減っていても、この田舎で一番綺麗な女だった。
「みて、あっち。なんかあるのかな?」
「なに?」
「ほら、みんなチラチラ見て……わあ、嘘、綺麗……」
私は息を呑んだ。カウンターに座っている身なりのいい男性。それは明らかに私が元いた国の貴族の風貌だった。
豪華な服を着ているわけではないが、質の良い布地に、繊細な刺繍。シワや汚れがひとつもないジャケットは労働の色を感じさせない。
緩くまとめられた金の髪も、艶の具合から大層良い暮らしをしているのだとわかる。
それよりも、あの美貌。綺麗に整った甘さを含む顔——私はどこかで見たことがある。
はっと思い出して、席を立った。
「もしかして——」と声をかけると、金色の瞳が私を捉える。
「エリオット様でしょうか」「エリオット様、ここの御手洗いは……」
ほとんど、同時だった。
背後から女性の細い声がして振り返り、言葉を失った。
「お、お姉様……?」
いや、お姉様じゃない。お姉様は清楚だったけれど、もっと野暮ったかった。古臭いドレスをピシッと着こなして、いつも感情のない顔と目をしていた。
だから、きっと違う。
ふわふわの白い上質なワンピースなんて着こなさない。
髪を色っぽく崩して纏めたりしない。
こんなに生気の宿った顔をしていない。
こんなに、美しいわけ、ない……。
「まさか、エメルですか……?」
首を傾げる所作は、貴族のそれだった。シャラ、と艶やかな黒髪に刺さった簪の装飾が揺れる。綺麗な琥珀色が光を反射して、私の目に突き刺さる。
「エメル……?」
お姉様だなんて、思いたくないのに。それなのに、たまに見せる本気で私を気遣うような桃色の瞳は……お姉様そのものだ。
————……
まさかこんなところで、エメルと会ってしまうなんて。外国に行ったという情報は知っていましたが、この国だったとは。
随分と見た目は変わっていました。白かった肌は健康的な肌色になっていて、髪の毛も肩上までの短さになっています。
服は随分と着古されているようで、綺麗な顔も少しやつれているような気がしました。
私は……エメルを憎んでいるのでしょうか。いつも自問自答していましたが、答えはまだ出ていません。
エメルがブラッド様と隠れて逢瀬しているのを知った時、ブラッド様と体を重ねているのを見た時、二人がこの屋敷を出た時……私は何故か止めませんでした。
もちろん、片目から一筋の涙を流すという貴族らしい悲しみ方をしましたが、それだけでした。
でも今、エメルの表情を見て私の背筋がゾクゾクと震えているのが、分かります。
この表情を、私は知っている……これは、私がブラッド様から簪をもらった日に見せていた、まるで飢えた肉食獣のような、獲物を狙う表情。
「お姉様……! 私、ずっと、お姉様に会って謝罪がしたいと思っていたの! 是非、是非……うちの家へいらして?」
◇
私達はエリオット様が呼んだ馬車で、エメルが住んでいるという家へ向かっていました。
あの時——断ろうとしたのにうまく言葉が紡げないでいると、エメルがエリオット様に言ったのです。「エリオット様も、是非」と。
エリオット様はいつもの明るい笑顔で「じゃあ、遠慮なく」と言いました。
エリオット様のお考えがわかりません。
先ほど、エメルがエリオット様の名を呼んでいましたし、元々知り合いだったのでしょうか。
私は手が震えてしまうのを、ぎゅっと握って押さえました。
「エメル! おかえり! 随分と早かっ……え?」
出迎えたブラッド様が、顔を青ざめさせて驚くのも無理はないでしょう。ブラッド様の見た目もかなり変わっていました。土に汚れた服に、日に焼けた肌。茶色の髪の癖は以前よりも強くなっているように見えます。
「ああ、ブラッド。お姉様と、こちらエリオット様。偶然お会いしたの」
「……お久しぶりです。ブラッド様」
「あ、ああ、なんだか見違えたね……。それよりエメル、これは一体どういう」
ブラッド様に問いかけられたエメルは、寂しそうな顔で呟きました。
「私……毎日言っていたでしょ?お姉様に申し訳ないって。ブラッド様を取ってしまって、ごめんなさいとずっと謝りたかったの。そして、仲直りがしたい。だって私の唯一の姉なんだもの。ブラッド様も、謝るべきよ。私を選んで、お姉さまが不幸になってしまったことを」
「……そうだね」
「ブラッド、お姉様と二人で話してきたら? ね?」
随分としおらしく話すエメルは、綺麗とは言い難い身なりです。でも、あの時のような可憐さがありました。
ブラッド様が、私を見ました。ふむ……何の感情も湧きません。分かるのは、おそらく私が馬鹿にされているということだけです。
「ノエラ、話をする?」
「……どちらでも」
「じゃあ……」
ブラッド様が、おずおずと私に手を差し出してきました。
その手を取ろうと、私が手を伸ばせば——、パシッと手を取ったのは、エリオット様でした。
「さっきから話聞いてたらさあ……僕が君と話したくなっちゃった。ブラッド君、僕と行こう?」
「……え?」
有無を言わさず、エリオット様がブラッド様の手を引きます。予想外の展開に、私たちは黙り込みました。
「……二人になりましたね、エメル」
沈黙が気まずくなって話しかければ、エメルはびくっと体を震わせ、「そうね、お姉様」と歪んだ笑顔で答えました。
「そういえば、伯爵家はどうなったの?」
「没落しましたよ」
「……っ、エリオット様とはどういう関係?」
「結婚しました」
「は……はは、そう。そうなの」
それから突然大きな声で笑い始め、私が呆気に取られていると、「なあんだ! そうだったの」と大きな声で私に向かって叫び始めました。
「じゃあ、あんたも浮気してたんだ?清楚ぶってたくせに、やる事やってたんじゃない!
ああ、だからあんたは一つも表情を動かさなかったのね。
私がブラッドと出て行って、都合よかったんじゃないの?」
「そんなこと、」
「内心、私を見下してたんでしょ!? ざまあみろって思った!? 家が没落したってあんたは何も変わらない。綺麗な服を着て、私は汚い服!あんたには素敵な旦那がいて、私は、私は……!」
「エメル! 私はそんな事思っていません」
「……そう、じゃあ代わって?」
「え?」
「頂戴よ、エリオット様を」
「エメル……?」
エメルの目は、まるで当たり前かの様にこちらに向けられていました。何か言わなくてはと私が口を開いたその時……ザッと背後で音がして、咄嗟に振り返りました。
そこにいたのは、顔色のないブラッド様と、屈託のない笑顔のエリオット様でした。
「ブラッド君〜、ほらね? 僕の言った通り! 君の奥さんはこう言ってるけど、どうする?」
「エ、エメル……、いや、きっと激昂しただけで、」
ブラッド様が狼狽えます。手を震えさせて、一歩、また一歩とエメルに近付きました。エメルは動じていません。
「……言った通りよ、私、エリオット様がいい」
「は、? いや、エメル、君は何を……」
「エリオット様は貴方と違って、かっこいいもの。服も綺麗で、お金も持っていそうで、こんな田舎で暮らす必要もない。毎日柔らかいパンを食べて、旅行に行くの」
「エメル……、そんな、」
「ねえ、エリオット様……、私たち、王都にいた頃よくお会いしてましたよね?気が合うと思うんです、私たち」
エメルはエリオット様に縋るように撓垂掛りました。
怒りか、悲しみか……ブラッド様は全身をブルブルと震わせてエメルに怒声を浴びせました。
「エメル! 好き勝手言うな!
僕がお前のために何を捨てたと思ってるんだ!? 地位も! 金も! 全てだ! 僕だってお前と出会わなければ今頃ノエラと王都で裕福に暮らしてたんだ!お前の、お前の為にそれを……!」
「はあ? 勝手についてきたのは貴方でしょ? お似合いじゃない! 地味でつまらないお姉様と、冴えないブラッド! 代えてやると言ってるのよ!」
ぎゃあぎゃあとお互いを貶し合う二人を見て、私は限界を迎えました。
手を大きく振り上げて、エメルの頬を叩きました。
ぺちんっと軽い音が鳴りました。……人を叩くのは初めてだったので仕方ありません。
私の頬を伝う熱い雫は、きっと涙です。
貴族は片目から一筋。でも今は貴族じゃないので、いくらだって流していいのです。
「わ、わたし、ひっ、わたしはっ、エメ、ルっうぅ、ひっ」
……はじめて気付ました。こんなにも伝えたいことがたくさん溢れているのに、泣いている時は呼吸が乱れてうまく声を発せないなんて。
「ああもう、ノエラは感情を出すことに関しては赤ちゃんと同じなんだから。ほら、息を吐いて、吸って、」
ああ、なんて情けないのでしょう。声が引きつれている私の背中を、エリオット様がゆっくりさすってくださいました。
「ひっ、く、けほっ、」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
「んん……、ひっ、……」
何とか時間をかけ呼吸を落ち着かせて、唖然としているエメルとブラッド様を睨みつけました。
「……私っ、だって、エメルがずっと羨ましかった!」
「……は?」
「好きなことができて、好きな人と接して、先生に叩かれることもプレッシャーもない、思い切り笑って、泣いて、本音を話すことができること……羨ましかったのです!」
私は初めて、エメルに本心を曝け出しました。
エメルが私を妬んでいることも知っていましたし、その理由も分かります。だから——
「あなた達の関係を見て、何も言わなかったのは、二人が心から愛し合っている様に見えたからです。私には知らない……一生知ることのない恋をしている、あなた達が羨ましくて、妬ましくて、でも、何だかとても素敵に見えて……だから、止められなかった。今、それに気付きました」
慈悲をかけたわけではありませんが……唯一の妹が幸せになれる道がこれならば、と自分から手を引きました。
だからと言って、純粋な気持ちで応援しているわけではありませんが。二人のせいで家を失いましたし、私を裏切ったのは事実。だから知らないところで、私が手放した愛を育んでほしい。知らないところで幸せになってほしい。
そして、私が今でもそんなふうに二人に優しくなれるのは、全部、エリオット様のお陰なのです。
「流されるまま、感情を殺していましたが、心はいつも荒れていました! そして今こそ、我慢せずはっきり伝えたいと思います! ブラッド様は渡してもエリオット様は、渡しません! 私、エリオット様のこと、す、……好きなのです! 大好き!」
エリオット様が私に色んなことを教えてくれたから。悲しむまもなく、連れ出してくれたから。だから今日二人を見ても何も思いませんでした。
むしろ、エリオット様と出会えたので、あの時の私は良い決断をしたな、とも思います。
妹の幸せの為と言った癖に、ブラッド様をお渡ししてもエリオット様だけは渡したくないなんて……私も随分と我儘で、あまり筋は通っていないかもしれませんが。これだけは絶対に譲れません。
エリオット様をちらりと見ます。
……そういえば、エメルがエリオット様を頂戴と言った時、”君の奥さんはこう言ってるけど、どうする?” なんてブラッドに言っていました!
まさか交換に賛成派なのでしょうか?
それならまずいです。ああ、また鼻の奥がつんと痛くなって、視界が揺らぎます。
「エ、エリオット様、お願いします! 私を選んでください。確かに、性格や趣味趣向は、エメルの方が合っているかもしれませんが! でも、私だって、お酒を飲むのが楽しいと思いますし、食べ歩きも、ポーカーだって! 教えてもらったこと、全部好きで、大切なのです。貴方に見合う相手に、なります、だから」
男性に縋り付く今の私は、
常に姿勢を伸ばし、口角を三ミリ上げて、必要なことだけを比喩で話し、扇子で表情を隠すかつての私とは違います。当時のマナー教師に見つかれば、三日は食事を抜かれるでしょう。
エリオット様は笑いました。いつもの様に笑い飛ばす様なものではなく、浸る様な、噛み締める様な微笑みでした。
状況に似合わず、息を呑んで見惚れてしまいました。
「まさかノエラが、そこまで僕のことを好きだなんて、思わなかったなあ。
勿論、ノエラ以外の女性を選ぶ気はないよ。見合う見合わないなんて、関係ない……むしろ、君は僕には勿体無いくらいの美しい人だから、僕が君に近付かなきゃならない」
そう言ってエリオット様は私の肩を抱き、頬に口付けを落としてくださいました。
ざく、と土を踏む足音が聞こえ、完全にエメルとブラッド様を置き去りにしていることに気付いて、赤らめていた顔を精一杯戻します。
「エメル、ブラッド様。私があなた達と会う事は、もうありません。ここでお二人、末長くお幸せに暮らしてください」
「お、お姉様、待って! エリオット様! 話を聞いてください!」
「そうだ、ノエラ! この女も連れて行ってくれ!」
待ちません。どうか、お幸せに……。難しいのかもしれませんが、衝突があってこそ、愛は育つのです。きっと。
◇
「あの、エリオット様。どうしてあの時、初対面で結婚を持ちかけてくださったのですか?」
旅行が終わり、二人の寝室で私はずっと気になっていたことを再度問うことにしました。遊び人だった彼が身分を捨てて初対面の女と身を固めるだなんて、よく考えなくとも不思議な話です。
「前にも言った通り、僕は君のことをずっと前から知ってた」
「……ずっと前から?」
「うん。あれは、いつだったか……退屈な社交パーティーの時——」
そうして、エリオット様は、私の頭を優しく撫でながら教えてくださいました。
————……
侯爵家の五男に生まれた者に爵位が回ってくることなど、余程のことがない限りあり得ないので、大抵は軍に入るか、聖職者になるか、どこかの貴族に婿入りする。
元々要領の良かった僕は、上の兄達を見下していた。
僕ならもっと上手く立ち回れるのに。僕が侯爵家を継げばもっと……。でも、現実はそうじゃない。誰も僕が成果を上げることなど期待していない。名を汚さない限り気にも留められない存在だ。
退屈な社交パーティーで適当に時間を潰していた僕は、とある令嬢とぶつかった。
すらっと伸びた姿勢、計算され尽くした礼の角度、感情の見えない笑み、扇子を広げる所作……ああ、スタンウィリー伯爵家の長女か。
他愛もないやり取りで謝罪しあって、別れる。
人形みたい。従順でつまらなそう。あの伯爵家の長女だ。きっとさぞ期待されて良い教育を受けているに違いない。
侯爵家に生まれながらも将来のない僕の様な男とは一生関わらず、ぬくぬくと生きていくのだろう。
それに、綺麗な顔だけれど、どちらかといえば次女の方が気になる。破天荒で、遊び人で、どこか影があって、自分と重なるところがある気がした。
先ほども言った通り、僕は要領がいい。あと、顔も良い。稚拙な男にやっかまれることが多々あった。
軽薄な遊び人、侯爵家の恥晒し、所詮五男だから……。
ただ愚痴るだけの奴もいれば、令嬢達に言いまわる奴もいた。まあ全部ごもっともなので放っておいた。
放っておいたのだが……また、いつだか別のパーティーの日、少しだけ驚くことがあった。
「お言葉が過ぎますよ。美しい薔薇の花園も、一滴の毒を混ぜれば全て枯れ落ちてしまいます。私はこのパーティーを美しいまま楽しみたいのです」
それを発したのは、スタンウィリー伯爵家の長女だった。男の適当な愚痴など、放っておけば良いのに。従順なだけかと思っていたけれど、割と肝が座った女性だったみたいだ。
そして、彼女はそれからも続けた。
「実った果実を鳥が突つくのは、それが甘く価値があるからに他なりません。そして価値のある果実は、それ相応の育ち方をしているものです」
貴族女性らしい気が遠くなるほど回りくどい話し方だ。
きっと相手には伝わっていないだろう。
……でも、僕には伝わった。そして僕はそんな良いものじゃない。
彼女の言葉が妙に頭から離れなくなった僕は、次第にじゃあその “価値のある果実” に本当になってやろうじゃないか、と躍起した。
市場を調査し「パンの味が落ちた気がするんだよなあ、店主の腕が鈍ったか?」という会話を聞いた時、他領の不作を調査して、父上に進言した。「豊作地から、大量の穀物を買い占めましょう」と。結果、それは大当たり。
侯爵領は不況を免れ、隣領に恩を売り、巡り巡って莫大な利益に繋がった。そうして、父上に交渉した。
「別に、兄様を押し除けようとしているわけじゃありません。今回得た利益の少しを僕にくれませんか? ……例えば、スタンウィリー伯爵家の借金が回るくらいには」
スタンウィリー伯爵家の長女、ノエラ。あの家が火の車だということは、人形の様な彼女の綻びを探し続けて得た情報。
ノエラは曲がったことが嫌いな女性で、彼女が庇うのは僕だけじゃなかった。
そんな気高い彼女は、時折、ほんの少しだけ、勘違いかもしれないが——明るく笑う妹に、羨ましそうな目を、憧れの様な目を向けるのだ。
取るに足らない侯爵家の五男が、突然大金を持って政略結婚を持ち出し、従順な”人形令嬢”の仮面を壊す——うん、中々気持ちの良い話じゃないか。
そんなことを思っていた矢先、僕の計画は全て失敗した。
先を越されたのだ。ポーラット男爵家に。
格下の貴族とはいえ、一度決められた契約をこちらからどうにかすることはできない。出来たとしても婚約破棄は醜聞になるし、彼女も不満そうではなかった。
全てのやる気を失った。もうどうでもいい。結婚もしない。これだけの金があれば適当に暮らす分には十分だ。どうせ僕が頑張ったって、侯爵家の連中にも、ノエラにも見てもらえないのだから。
……なんて思っていた矢先に、突然の爵位返上。
ノエラに関する情報を遮断していた為、スタンウィリー伯爵家を救うことは間に合わなかったが、僕は勝利を確信した。
居場所を突き止め、夜の街を歩こうとする彼女を見て、チャンスだと思った。貴族社会のことしか知らないお嬢さんは、自分の美しさも下町の怖さも分かっていない。あんな子が無防備に外を出歩くなど、下賤な男共に声を掛けられるに決まってる——ああ、ほら、やっぱり。
それからのノエラは可愛いの一言に尽きる。
まだ抜けない貴族仕草も、時折見せる年相応の女性らしさも、慣れていない子どもっぽさも、全てが可愛い。
旅行中に偶然会った妹に誘われ、僕が行こうと言ったのは、ノエラを選ばないという愚かであり僕にとって最高に都合のいい決断を下したブラッドという男に、美しいノエラと裕福な僕の仲を見せつけたかったからだ。まあつまり、僕のくだらないプライド。
ただ勝ち誇りたかっただけ。
彼女はそんな気が一切なさそうだった。怒り狂っても良いのに、どこまでも他人事。そんなところも好きなのだが、僕のことに関しては、全然、他人事じゃなかったみたいだ。
ああ、ここに来てよかった。
やっと彼女が、僕を見ていると確信が持てた。
——なんて話を全てする訳にはいかないので僕が言ったのはこれだけ。
「退屈な社交パーティーの時、君が僕を庇ってくれたこと、忘れられなかったんだ」
「そんなことで、ですか」とノエラは笑った。
眉を下げて目を細め、控えめに声を出しながら。
————……
かつてスタンウィリー伯爵家の長女だったノエラという女性は、王都のタウンハウスに住んでおりました。
窓辺の椅子に深く腰掛け、幼い子供たちが床で積み木に興じる姿を穏やかな目で見守っていました。
ノエラの夫であるエリオットは貴族のコネと平民から得る情報、人好きのする態度と交渉術で投資家、投機家として頭角を表しました。
その名を知っていた者は皆驚きました。彼は軽薄な遊び人と有名だったからです。例外として驚かなかったのは彼の父である侯爵だけ。数年が経った頃には、莫大な資産を得ておりました。
彼は仕事から帰るなり上等な外套を無造作に脱ぎ捨て、妻のノエラの元へ向かいキスを落とします。
いつもはそこから他愛もない話をするのですが、その日は違いました。
「ねえ、皆。貴族になれるなら、どうする?今の僕ならスタンウィリーを買い戻すことだって、新たな爵位をもらうことだってできるけれど」
子供たちは、まだあまり分かっていない様でした。
「きぞくって?」と長女がいいます。
「偉い人になるということです。領地を治めて、お屋敷に住み、綺麗なドレスを着て、お勉強をして、素敵な結婚を目指します」
「ザイアと、けっこんできる?」
「そうですね、出来なくもありませんが……」
隣で父親の顔をしたエリオットが苦々しい表情を浮かべましたが、長女は気にせずに、ザイアという近所の男の子の話をし始めました。
そして、思う存分話した後に出した結論は、「分かんないけど今のままがいい」でした。
裕福な家でしたから、綺麗なドレスも着られますし、教育はノエラが充分担っていました。満たされた生活で、貪欲に地位を高める向上心はまだ育っていない様でした。
子供の話をニコニコと聞いていたノエラは、タイミングを見てエリオットに言いました。
「私はこのまま、自由に皆で幸せに暮らしたいです」
エリオットは満足げに目を細め、彼女の頬をそっとなぞりました。
「そうだね。君や子供達が鳥に食われてしまわないように、ずっとここで暮らそう」
「何の話ですか?」
「果実の話」
「もう、ますます分かりません」
茜色の夕陽が街を包む中、一軒のタウンハウスから一際楽しそうな家族の笑い声が、今日も街中に響き渡りました。
「——とっても良い物語でしょう?」
「うーん。娘とザイア君のくだりさえ無ければ、完璧かな?」
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