第九話
エレノア・フォン・アールデムは、自室の窓辺に立ち、差し込む陽光を忌々しげに睨んでいた。
暖かく、慈愛に満ちたその光は、まるで自分を嘲笑っているかのようだ。
前回の隠し財産の件も、結局は公爵家の名声を高める結果に終わり、エレノアの心は深い絶望に沈んでいた。この世界で、私は一体何ができるというのか。
どれだけ悪意を込めても、全てが善行に転じてしまう『善行の呪い』。
それは、エレノアの復讐心を嘲笑うかのように、彼女を『慈愛の聖女』という偽りの偶像に祭り上げ続けていた。
しかし、エレノアは諦めなかった。この呪いを打ち破る、決定的な「悪行」を成し遂げなければ。
エレノアは、公爵家から孤児院への多額の寄付金横領を計画した。貧しい子供たちから希望を奪い、公爵家の名声に泥を塗る。
これならば、さすがに善行には転じまい。エレノアの心は、冷たい決意に満たされていた。
寄付金が孤児院へ運ばれる当日。エレノアは、護衛の目を盗み、寄付金が積まれた馬車の経路に罠を仕掛けた。
道中にある小さな橋が、ちょうど老朽化していることを事前に調べていたエレノアは、その橋の根元に、馬車が通過する際に崩落するような細工を施したのだ。
馬車が転覆し、金貨がばら撒かれ、回収が困難になる様子を想像し、エレノアは歪んだ笑みを浮かべた。
(これで、慈善事業は滞り、公爵家は民衆の信頼を失うだろう。そして、私への称賛も、さすがに消え失せるはずだわ……!)
エレノアは、遠くからその様子を伺った。馬車が橋に差し掛かり、エレノアが息を呑んだ、その時だった。
グオオオオオォォォォォ!
突然、森の奥から、巨大な魔物の咆哮が響き渡った。寄付金が積まれた馬車が橋を渡りきる寸前、森の奥から凶悪な魔物の群れが飛び出してきたのだ。魔物は橋へと向かって突進し、護衛の騎士たちが慌てて応戦する。
しかし、エレノアが仕掛けた橋の細工が、思わぬ形で魔物の侵攻を食い止めた。
魔物の群れの先頭を走っていた巨大な魔物が、エレノアが細工した部分に体重をかけた途端、橋の一部が崩落し、魔物はそのまま深い谷底へと転落していったのだ。
先頭の魔物が落ちたことで、後続の魔物たちは一瞬足止めされ、その隙に護衛の騎士たちが体勢を立て直し、残りの魔物を撃退することに成功した。
寄付金は無事だった。魔物から孤児院を守ったとして、騎士たちはエレノアの「橋の細工」を絶賛した。
「まさか、エレノア様が、事前に橋の強度を計算し、魔物の襲撃に備えて、わざと橋の一部を弱め、落とし穴として機能するように仕向けられていたとは……!」
「ああ、まさに神の御加護! エレノア様は、未来を見通す力をお持ちなのですね!」
エレノアは、その言葉に、全身から血の気が引くのを感じた。
(違う……! 私は、橋を崩して寄付を妨害したかっただけなのに! なぜ、またしても、こんな形で善行に転じるのよ……!)
エレノアは、その場で崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
彼女の悪意は、この世界において、あまりにも無力だった。自分の人生全てが、この理不尽な呪いに支配されている。
彼女は、もはや自分の意志で「悪」を成すことができない。それは、前世でいじめられ、人間への復讐を誓ったエレノアにとって、最も耐え難いことだった。
公爵家に戻ったエレノアは、自室に閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。
そして、ロゼ。
ロゼへのいじめも、これからはより明確に、精神的に追い詰める形へと移行させることを決めた。
彼女が最も大切にしているもの、例えば、孤児院での思い出や、小さな希望を、言葉で踏みにじるようなことをしてやろう。
エレノアは、ロゼの疲弊した顔を思い浮かべた。その顔が、絶望に染まるのを想像するたびに、エレノアの心は奇妙な安堵感に包まれた。
それは、復讐の炎が、まだ完全に消えていないことの証拠だった。
エレノアは、静かに、しかし確かな悪意を心に秘め、ロゼを自室に呼び出した。
「ロゼ。あなた、確か孤児院の出身だったわね?」
エレノアは、わざと冷ややかな声で尋ねた。ロゼは、一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに居住まいを正した。
「は、はい。お嬢様。わたくしは、王都の裏路地にある『陽だまりの家』という孤児院で育ちました」
ロゼの声は、少しだけ震えていた。彼女にとって、孤児院での思い出は、決して裕福ではなかったが、それでも温かく、大切なものだったのだ。
「ふふ……そう。陽だまりの家、ね。なるほど、だからあなたのようなメイドは、妙に素直で、それでいてどこか、この公爵家には似合わない、浮いた存在なのね」
エレノアは、嘲るように言った。ロゼの顔から、さっと血の気が引く。
「あなたのような、何の教養もない、世間知らずな孤児が、この公爵家でメイドとして働けること自体、奇跡のようなものだわ。本来なら、街の片隅で、飢えに苦しむのがお似合いでしょう?」
エレノアは、ロゼの瞳を真っ直ぐ見つめ、さらに言葉を続けた。ロゼの小さな身体が、僅かに震え始める。
「公爵家に来る前は、どうせ泥棒でもして生きていたのかしら? それとも、物乞いでもしていたのかしらね? ふふ、どんな惨めな生活をしていたのか、想像もつかないわ」
エレノアの言葉は、ロゼの心の奥深くに、確実に突き刺さっていく。ロゼの瞳には、明らかに動揺と、そして深い悲しみが浮かんでいた。
「お、お嬢様……」
ロゼの声は、もうほとんど聞こえないほど小さかった。
「この公爵家は、あなたのような汚らわしい人間がいていい場所ではないわ。あなたは、この邸の品格を貶めている。あなたの存在そのものが、私にとって不愉快なの」
エレノアは、ロゼの顔が真っ青になり、今にも泣き出しそうなのを見て、心の中で冷たい笑みを浮かべた。
(どう? 苦しいでしょう? それが、私が前世で味わった苦痛の一部よ)
エレノアは、復讐を実感する歪んだ満足感に浸っていた。他の全てが善行に転じてしまう中、ロゼを傷つけるこの行為だけが、唯一の「悪」として成立している。
しかし、その満足感は長く続かなかった。ロゼの瞳に浮かぶ悲しみは、エレノア自身の心の奥底にある、癒えない傷と共鳴しているような気がしたのだ。エレノアは、自分がロゼに与えている痛みが、かつて自分が受けた痛みと寸分違わないことに気づき、激しく動揺した。
「それに、あなたは、この公爵家で、一人前のメイドになれるとでも思っているの? そんな夢物語、笑わせるわね。あなたは所詮、孤児院育ちの、何もできない役立たず。どう足掻いても、一流のメイドになんてなれないわ」
エレノアは、ロゼの小さな希望を砕くような言葉を浴びせた。ロゼの顔は、さらに血色を失い、その瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ始めた。
「……っ!」
ロゼは、声も出せずに、ただ静かに泣き続けた。その涙は、エレノアの心を、鈍器で殴りつけるような衝撃を与えた。
エレノアは、ロゼが本当に泣いている姿を見て、愕然とした。これまでは、どんなに辛くても、ロゼは涙を見せることはなかった。だが、今、彼女の目から溢れる涙は、エレノアの言葉が、確かにロゼの心を深く傷つけたことの証だった。
エレノアの心臓が、激しく脈打つ。復讐が、成就した。しかし、そこに喜びはなかった。ただ、鉛のように重い罪悪感と、胸の奥が締め付けられるような痛みだけが残った。
(私は……なんてことを……)
エレノアの脳裏に、前世でいじめられ、泣き崩れていた自分自身の姿が鮮明に蘇る。ロゼの流す涙は、あの時の自分の涙と、寸分違わなかった。
エレノアは、ロゼに伸ばしかけた手を、震えながら引っ込めた。その手は、まるで汚れたかのように感じられた。
エレノアは、自分がロゼに与えた痛みと、それが自分自身に跳ね返ってくるような感覚に、激しい混乱と自己嫌悪に苛まれていた。ロゼの涙は、エレノアの心の奥底に、深い傷痕を残した。




