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第八話

 エレノア・フォン・アールデムは、ある朝、気分を変えるために普段は足を踏み入れない公爵家の領地奥深くにある、小さな森を散策することにした。


 そこは、手入れもあまりされていない、鬱蒼とした場所だった。公爵家の領地図にも、ただの『森林地帯』と記されているだけの、忘れられたような一画だ。


 エレノアは、こうした誰にも知られていない場所で、ほんのわずかでも、心の疲労を解放できるのではないかという、淡い期待を抱いていた。


 深い森の中は、公爵邸の華やかさとはかけ離れた、静かで薄暗い空間だった。木々の葉が太陽の光を遮り、地面には腐葉土が厚く積もっている。


(ここなら、誰にも見られずに、何かできるかもしれない……)


 エレノアは、落ちていた木の枝を拾い上げ、地面に何かを書き始めた。


 それは、前世でいじめっ子たちの悪口をノートの隅に書きなぐっていた時の衝動に似ていた。


 いま、地面に書いているのは、彼女を称賛する愚かな貴族たちへの罵詈雑言であり、その目は悪意に満ちていた。


 満足して立ち上がった時、エレノアの足元に、奇妙なものが転がっているのに気づいた。


 それは、古い木の根に半ば埋もれた、小さな木箱だった。何の変哲もない、ただの木箱だ。エレノアは、何の気なしにそれを足で蹴飛ばした。


(こんな古ぼけたもの、壊れてしまえばいい)


 木箱はゴロリと転がり、土の中から完全に姿を現した。


 すると、蓋がパカッと開き、中から、古びた地図のようなものと、一通の手紙が顔を出した。


 エレノアは、好奇心からそれを拾い上げた。


 地図は、この公爵家の領地を示すものらしかったが、見慣れない記号や線がいくつも描かれている。


 そして、手紙は、何世代も前のアールデム公爵の筆跡で書かれていた。


「これは……使えるかもしれないわ」




 エレノアはロゼに、公爵家の古地図を全て写し取るように命じた。


 それは膨大な作業量で、通常であれば数人がかりで何週間もかけて行うような仕事だ。


「ロゼ、これは森林地帯で見つけた、公爵家の古地図よ。これを全て、寸分の狂いもなく写し取りなさい。文字も、絵も、全てよ。もし、一つでも間違いがあったら、あなたは公爵家の歴史を汚したことになるわ」



 エレノアは、わざと高飛車に、そして冷たく言い放った。ロゼは、その途方もない作業に、一瞬、絶望に似た表情を見せた。だが、すぐに震える手で羽根ペンを握りしめ、インク壺を前に座った。


「は、はい! お嬢様のご命令とあらば!」


 ロゼは、それから何日も、昼夜を問わず写字室に籠もり続けた。


 エレノアは、その間、何度か様子を見に行った。


 ロゼは、真っ青な顔で、しかし集中した眼差しで、黙々と作業を続けている。


 彼女の指先はインクで汚れ、震えている。睡眠時間はほとんど取れていないようだった。


 エレノアは、そのロゼの姿を見るたびに、心の中で冷酷に笑った。


(これで、この子もようやくはずよ。()()()()()()()()()()、私は『善行の呪い』から解放されるはずだわ)


 そして、予定されていた日。ロゼは、完成した古地図の写しを、エレノアの前に差し出した。


「お嬢様……、全て、写し終えました……」


 ロゼの声はかすれ、その身体は今にも倒れそうだった。エレノアは、受け取った写しを厳しく点検した。細部まで目を凝らし、間違いを探す。


 だが、どんなに目を凝らしても、間違い一つ見つからない。寸分の狂いもない、完璧な写しだった。

 エレノアは愕然とした。


(な、なぜ……!? この子が、こんな完璧なものを仕上げられるはずがない!)


 ロゼは、エレノアが写しを見ている間、緊張した面持ちで、しかしどこか期待のこもった瞳でエレノアを見つめていた。


 その瞳には、エレノアの厳しい「指導」に応えられたことへの、純粋な喜びが宿っているように見えた。


「お、お嬢様……、これで、わたくしは、お嬢様のお役に立てましたでしょうか……?」


 ロゼが、掠れた声で尋ねた。その言葉に、エレノアの心は激しく揺さぶられた。


(違う……! 私は、お前を傷つけたいだけなのに! なぜ、私に感謝を求めるのよ!?)


 ロゼの純粋な言葉と、それでも向けられる好意が、エレノアの心を切り裂いた。ロゼの疲弊した姿と、その裏にある成長という事実。


 エレノアがどんなに悪意を込めても、ロゼはそれを「指導」と受け止め、ひたすら耐え、そして成長してしまうのだ。


 エレノアは、この泥沼のような状況に、激しい焦燥感と絶望を感じた。


 ロゼへのいじめさえも、彼女を成長させてしまう。これは、エレノアにとって何よりも屈辱的なことだった。


 復讐を果たしたいのに、その復讐の手段が、ターゲットを鍛え上げてしまっている。


 これは、悪役令嬢として、あまりにも滑稽な事態だった。


「善行の呪い」は、もはやエレノアの全ての行動を支配し、彼女の存在そのものを「善」の道具として捻じ曲げていた。


 ロゼへの悪行だけが、唯一の「悪」として残っていたはずなのに、それさえもロゼの純粋さによって「成長」という形に変換されてしまう。


 エレノアは、自室に戻ると、静かに泣いた。声を出さずに、ただ涙を流し続ける。

 前世の記憶が、鮮明に蘇る。あの時、いじめられ、どれだけ苦しんでも、誰も自分を理解しようとしなかった。その孤独と絶望が、エレノアの心を蝕み続ける。


(私は……私は、どこまで行っても、独りぼっちなの……?)


 エレノアは、自分が作り出したこの歪んだ関係に、次第に囚われていく感覚を覚えていた。


 ロゼを苦しめることで得られる一時的な「復讐の満足」は、やがて空虚な残骸となり、その後に残るのは、自己嫌悪と、ロゼの純粋さに対する得体のしれない畏怖だけだ。


 彼女は、自分自身が、かつて自分をいじめた人間たちと同じような存在になりつつあることに、深い恐怖を感じ始めていた。


 復讐を果たすはずが、いつの間にか、その憎悪の対象そのものに変貌しようとしているのではないか、と。

 エレノアは、この泥沼から抜け出したいと強く願った。


 だが、その術はどこにも見当たらない。この「善行の呪い」から逃れるには、ロゼへの「悪行」を続けるしかない。そう思い込んでいた。


 この呪われた世界で、唯一自分の悪意が成就する場所。


 それが、ロゼという存在だった。


 エレノアの心の闇は、さらに深く、暗くなっていった。

 彼女は、ロゼを徹底的に打ち砕くためであり、そして何よりも、この「善行の呪い」から逃れるための、エレノア自身の最後の抵抗を、無意識のうちに求めていたのかもしれない。


 エレノアは、やがて、新たな悪行を計画し始めた。


 それは、これまでの「いたずら」や「ものを壊す」というレベルではない。


 もっと、根本的に、誰かの人生を、深く傷つけるような行為だ。


 公爵家から孤児院に多額の寄付がされる日。エレノアはその金を横領し、貧しい子供たちから希望を奪おうと企んだ。


 もちろん、それは公爵家や自身の名声に泥を塗る行為でもある。

(これで、さすがに善行には転じないでしょう……!)


 エレノアの心は、冷たい決意に満たされていた。


 そして、ロゼ。ロゼへの行為も、これからはより明確に、精神的に追い詰める形へと移行させることを決めた。


 彼女が最も大切にしているもの、例えば、孤児院での思い出や、小さな希望を、言葉で踏みにじるようなことをしてやろう。


 ()()()()()()()()()をどんどんやってやる。


 エレノアは、ロゼの疲弊した顔を思い浮かべた。その顔が、絶望に染まるのを想像するたびに、エレノアの心は奇妙な安堵感に包まれた。


 それは、復讐の炎が、まだ完全に消えていないことの証拠だった。


 エレノアは、静かに、しかし確かな悪意を心に秘め、次の機会を伺っていた。


(つづく)

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