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第七話

 エレノア・フォン・アールデムの心は、深い霧の中にいるようだった。


 どんな悪行も善行に転じてしまう『善行の呪い』。それは、彼女の人生を完璧な淑女のレールに乗せ、あらゆる称賛と名声を強制する。


 しかし、その「完璧」は、エレノアの心を蝕むだけの、空虚なものだった。彼女が望むのは、前世で自分を奈落の底に突き落とした人間たちへの、確実な復讐だったのだ。


 この数日、エレノアはより大規模な「悪事」を企てた。公爵家主催の慈善晩餐会で、貴族たちの食事にこっそり強烈な下剤を混ぜ込もうとした。


 しかし、その下剤は、たまたまその日出された珍しい食材との組み合わせで、貴族たちの長年の持病を癒やす妙薬となり、


 「エレノア様が、病に苦しむ我々を御救いくださった!」と、またしても大々的に祭り上げられた。エレノアは憤怒に震えながら、虚ろな笑みを浮かべるしかなかった。


 そんな中、唯一、エレノアの悪意が純粋な悪として成立しているはずのロゼへの行動は、エレノアの予想とは裏腹の展開を見せていた。


 エレノアがロゼに与える無理難題は、日増しに苛烈になっていた。


 さらに重い物を運ばせたり、大人でも理解に困る要求をしたり、彼女の肉体では明らかに不可能な無理難題を与えたり。


 ロゼは疲労と睡眠不足で、顔色が悪く、目の下には深い隈が刻まれ、その小さな身体は見るからに衰弱しているように見えた。


 エレノアは、そのロゼの姿を見て、復讐の確かな手応えを感じていた。


(苦しみなさい。もっと、もっと苦しみなさい。それが、()()()()()()()の、当然の報いよ)


 しかし、ロゼは、エレノアのいじめに屈するどころか、奇妙な形で「成長」を始めていた。


 エレノアが複雑な指示を出せば、ロゼは必死に頭を働かせ、他のメイドでは理解できないような指示も、最終的には完璧にこなすようになっていた。


 重い物を運ばせるたびに、ロゼは最初はよろめいていたが、次第に身体の使い方を覚え、効率よく運べるようになっていた。


 手が届かない場所に物を置かせれば、背伸びをしたり、踏み台を探したりと、工夫する術を身につけていた。


 そして何よりも、ロゼはエレノアへの「好意」を失わなかった。


 疲弊した顔にも関わらず、エレノアに呼ばれると、その瞳は期待に輝き、少しの笑顔を見せることさえあった。




 ある日の午後。エレノアは、わざとロゼに、公爵家の一角にある広大な温室の手入れを命じた。そこは湿気が多く、複雑に入り組んだ構造で、熟練の庭師でも手こずる場所だ。


「ロゼ、この温室の全ての植物を、私が納得するまで磨き上げなさい。葉の一枚一枚まで、塵一つ残さず。ただし、枯れた葉を一枚でも残したり、植物を傷つけたりしたら……分かっているわね?」


 エレノアは、ロゼの困惑した顔を見るのを楽しみにしていた。


 ロゼは、その途方もない作業量に、一瞬顔色を青ざめた。だが、すぐに決意したように頷いた。


「は、はい! お嬢様のご期待に応えられるよう、精一杯務めさせていただきます!」


 そう言って、ロゼは埃まみれの温室へと入っていった。


 エレノアは、数時間後に温室を訪れた。温室の中は、湿った空気と土の匂いが充満している。


 ロゼは、汗だくになりながら、黙々と植物の葉を一枚一枚、丁寧に拭き上げていた。その手の動きは、以前よりも格段に無駄がなく、流れるようだった。


 エレノアは、ロゼの背中に声をかけた。


「どうかしら? 進んでいる?」


 ロゼは振り返った。その顔は泥と汗で汚れていたが、その瞳には、以前のような怯えだけでなく、確かな自信と、微かな誇りが宿っていた。


「お嬢様! ご覧ください! わたくし、全ての植物の葉を磨き上げました! そして、枯れた葉も全て取り除きました!」


 ロゼは、そう言って、磨き上げられた巨大なシダの葉を指差した。


 その葉は、水滴を弾いてきらめき、まるで生きている宝石のようだった。温室全体が、以前よりも明るく、生き生きとして見える。


「これは、わたくし一人ではできませんでした。お嬢様が、わたくしに『丁寧に、細部まで気を配りなさい』と常々ご指導くださったおかげでございます! お嬢様のお言葉がなければ、わたくしはここまで成長できませんでした!」


 ロゼは満面の笑みでそう言うと、エレノアに向かって深々と頭を下げた。その瞳は、エレノアへの感謝と、揺るぎない尊敬の念で満ちていた。


 エレノアは、言葉を失った。


(な、なんなのよ、これは……!? 私がやったのは、ただの嫌がらせよ! この子を苦しめて、挫折させたかっただけなのに、なぜ、感謝されるの!? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ロゼの純粋な言葉と、その瞳に宿る尊敬の念が、エレノアの心を激しく揺さぶった。


 ロゼの成長は、エレノアが与える「いじめ」によって引き起こされている。この事実が、エレノアにとって何よりも屈辱的だった。


 彼女はロゼを傷つけたいのに、ロゼは傷つきながらも、それを糧に成長してしまう。


 エレノアは、この泥沼のような状況に、強い焦燥感を覚えた。復讐を果たしたいのに、その復讐の手段が、ターゲットを成長させている。これは、悪役令嬢として、あまりにも滑稽な事態だった。


「善行の呪い」が、ロゼへのいじめの領域にまで浸食し始めているのではないかという、漠然とした恐怖がエレノアの心を支配し始めた。


 もし、ロゼへの行いまでが善行に転じてしまったら。その時、エレノアに残されるのは、何一つ復讐を果たせない、絶望的な現実だけだ。


 エレノアの心は、深い矛盾に苛まれ続けた。


 彼女はロゼを傷つけたい。


 だが、傷つけているはずのロゼが、なぜか自分を慕い、自分の「いじめ」によって成長していく。この異常な状況は、エレノアの精神を深く蝕んでいった。


 エレノアは、自室に戻ると、衝動的に高価な花瓶を床に叩きつけた。美しい陶磁器が砕け散る甲高い音が、部屋に響き渡る。


「ああ、もう嫌だ……!」


 エレノアは、床に散らばった破片を見つめながら、全身の力が抜けていくのを感じた。どれだけ悪事を働いても、全てが善行に転じる。唯一の希望だったロゼへの悪行でさえ、彼女を成長させてしまう。


 エレノアは、自分の存在そのものが、この世界の「善」を強制する呪いに囚われているような気がして、絶望した。


 彼女は、もはや自分の意志で「悪」を成すことができない。それは、前世でいじめられ、人間への復讐を誓ったエレノアにとって、最も耐え難いことだった。


 彼女は、この歪んだ状況から逃れたいと、強く願うようになっていた。


 しかし、その術は、どこにも見当たらなかった。エレノアは、この「善行の呪い」と、ロゼの純粋さという、二重の鎖にがんじがらめにされ、もがき苦しんでいた。


 エレノアは、その夜も眠れなかった。


 寝台に横たわり、天井を見つめながら、前世の記憶が洪水のように押し寄せる。


 あの時、誰も自分を助けてくれなかった。


 誰も、自分の苦しみを理解しようとしなかった。


 クラスメイトの嘲笑、教師の見ないふり、親の「我慢しなさい」という言葉。


 その全てが、エレノアの心を氷のように冷たく凝り固まらせた。


 人間への深い憎悪と、自分は常に「被害者」であるという強固な自己認識。それが、彼女の復讐心の原動力だった。


 しかし、今のロゼはどうか。エレノアは確かにロゼを苦しめている。ロゼは、間違いなく「被害者」だ。


 だが、ロゼはエレノアを恨まない。それどころか、エレノアの「いじめ」を「指導」と捉え、感謝すらしている。


 そのロゼの姿は、エレノアの凝り固まった心を、まるで熱い針で刺すように痛みつけた。


(私が本当に望むのは、こんな結果だったのか……? この子が苦しんで、私が満足する。ただそれだけだったはずなのに、なぜ、こんなにも心がざわつくの?)


 エレノアは、自分の感情が理解できなかった。


 復讐を成就させるはずの行為が、なぜ自分自身をこれほどまでに追い詰めるのか。


 ロゼが疲弊し、顔色を悪くするたびに、エレノアの胸には、奇妙な罪悪感がのしかかってきた。


 それは、これまでの「善行の呪い」による不本意な称賛とは全く異なる、生々しい痛みだった。


 エレノアは、自分が作り出したこの歪んだ関係に、次第に囚われていく感覚を覚えていた。ロゼをいじめることで得られる一時的な「復讐の満足」は、やがて空虚な残骸となり、その後に残るのは、自己嫌悪と、ロゼの純粋さに対する得体のしれない畏怖だけだ。


 彼女は、自分自身が、かつて自分をいじめた人間たちと同じような存在になりつつあることに、深い恐怖を感じ始めていた。復讐を果たすはずが、いつの間にか、その憎悪の対象そのものに変貌しようとしているのではないか、と。


 エレノアは、この泥沼から抜け出したいと強く願った。だが、その術はどこにも見当たらない。この「善行の呪い」から逃れるには、ロゼへの「悪行」を続けるしかない。そう思い込んでいた。


 この呪われた世界で、唯一自分の悪意が成就する場所。それが、ロゼという存在だった。


 エレノアの心の闇は、さらに深く、暗くなっていった。


 彼女は、ロゼを徹底的に打ち砕くためであり、そして何よりも、この「善行の呪い」から逃れるための、エレノア自身の最後の抵抗を、無意識のうちに求めていたのかもしれない。


(つづく)

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