第六話
エレノア・フォン・アールデムの心は、得体のしれない飢餓感に苛まれていた。
どんなに悪事を働いても、それが善行に転じてしまう『善行の呪い』。
それは、エレノアの公爵令嬢としての評価を天井知らずに高めていく一方で、彼女の復讐心を満たすことを決して許さなかった。
まるで、どんな美食も砂を噛むような味に変わり、喉の渇きを潤すことができないかのように、エレノアの魂は満たされないままだった。
唯一、自分の意思通りの「悪行」として成立したロゼへの行いと態度。前回の出来事、ロゼの指から流れた血は、エレノアに本物の罪悪感を植え付けたが、同時に、この呪われた世界で、唯一自分の悪意が成就する場所だという、歪んだ確信を与えてもいた。
エレノアはロゼに、さらに無理難題を押し付けるようになった。
例えば、ロゼの小さな身体では持ち上がらないほどの量の洗濯物を運ばせたり、誰もいない深夜の執務室で、何時間も絨毯のシミ抜きを命じたりした。
「ロゼ、この絨毯のシミ、明日の朝までに消しておきなさい。もし少しでも残っていたら、あなたは公爵家の恥よ」
エレノアは冷酷な眼差しで言い放った。ロゼの顔色は青ざめ、目の下には常に深い隈が刻まれるようになった。
睡眠不足と疲労で、彼女の動きは鈍く、ますますドジが目立つようになった。エレノアは、そのロゼの姿を見て、確かな「成功」を実感した。
(これでいい。この子が苦しんでいる。これこそが、私が望んだ結果だわ)
エレノアの心は、復讐の成就に近づいていることに、冷たい満足感を覚えていた。
しかし、エレノアの心は、その「成功」だけでは満たされなかった。
ロゼは、どんなにエレノアにいじめられても、決して恨み言を口にしなかった。むしろ、傷つき、疲弊しながらも、エレノアへの忠誠心と、あの「淡い好意」を失わなかったのだ。
ある日の昼下がり。エレノアはロゼに、公爵家の広大な庭園の雑草を全て抜くように命じた。それも素手で、だ。
「ロゼ、あの庭園の雑草を全て抜きなさい。明日までに終わらせるのよ。ただし、植物を傷つけたり、土を汚したりしてはいけないわ」
ロゼは、太陽が照りつける中で、小さな身体で黙々と雑草を抜き続けた。エレノアは、涼しい日陰から、その様子を観察していた。ロゼの手は泥だらけになり、いくつもの擦り傷ができていた。
日が傾き、夕焼けが空を染める頃、ロゼは、力尽きたようにその場にへたり込んだ。エレノアは、近づいて、ロゼを見下ろした。
「どう? もう音を上げるかしら? あなたのような役立たずには、これくらいの仕事もできない?」
エレノアは嫌味を込めて言った。ロゼは、荒い息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖と疲労が色濃く浮かんでいたが、それでもエレノアを真っ直ぐに見つめていた。
「お、お嬢様……。わたくし、もう、少しで……終わります。お嬢様が、わたくしに、この庭園を美しくするように、と……」
ロゼはそう言うと、震える指で、泥だらけの雑草をもう一度掴んだ。
エレノアは、その姿に激しい苛立ちを覚えた。
(なぜこの子は、こんなにもけなげなの……!? なぜ、私を恨まないのよ!? 人間は私のことが嫌いなくせに!)
エレノアのロゼに対する行為は明らかに一線を越え、確実にロゼを傷つけている。
しかし、ロゼはそれを「お嬢様のご指導」として受け止め、ひたすら耐え、そして「成長」しようとしていた。
エレノアの心は、深い矛盾に苛まれ続けた。
彼女がどんなに悪意を込めても、世間はそれを「善行」と祭り上げる。「善行の呪い」は、彼女の公爵令嬢としての評価を、ますます高めていくばかりだ。
例えば、彼女は公爵家の食料庫を荒らして、食料を腐敗させようとした。それは、貧しい領民に食料を届けるための経路を、図らずも効率化することにつながり、飢えに苦しむ人々を救ったとして、エレノアは「慈愛の聖女」と崇められた。
また、彼女は公爵家を護る結界を弱めようと、密かに魔力で干渉を試みた。しかし、その行為が結果的に、結界の脆弱な部分を強化することになり、魔物の襲撃から領地を守ったとして、「神の御加護を持つ聖女」と称賛された。
エレノアは、この「善行の呪い」が、ロゼへの行いにまで浸食し始めているのではないかという、漠然とした恐怖を感じていた。
もし、ロゼへの行動までが善行に転じてしまったら。その時、エレノアに残されるのは、何一つ復讐を果たせない、大嫌いな人間たちとともに、善良な公爵令嬢の仮面を被って、偽りの人生を続けるだけの絶望的な現実だけだ。
だからこそ、エレノアはロゼへの行動に執着した。ロゼが傷つく姿だけが、唯一、エレノアが「人間への復讐」を実感できる瞬間だったからだ。
夜。エレノアは、誰もいない自室で、鏡の中の自分を睨みつけた。
その瞳は、日中の「慈愛の聖女」のそれとは全く異なり、深い闇を宿していた。
「私は……私は悪役令嬢なのに……!」
エレノアは、鏡に映る自分の顔に、思わず手を伸ばした。完璧な美貌。しかし、その裏には、前世で受けた壮絶ないじめの記憶と、それが生み出した深い憎悪が渦巻いている。
彼女は、前世の記憶を鮮明に思い出した。
体育の時間。鬼ごっこで追い詰められ、転んだところに、わざと足を踏みつけられたこと。
昼休み。給食のパンに、知らないうちに画鋲が仕込まれていたこと。
休み時間。トイレに閉じ込められ、外から「臭い」「出てくるな」と罵られたこと。
そして、校舎の屋上から突き落とされた時の、あの浮遊感と、全身を襲う痛み。
それらは全て、エレノアの心に、深い深い傷痕を残していた。
あの時、誰も助けてくれなかった。誰も私を理解してくれなかった。
だからこそ、私はこの世界で、悪役令嬢として、人間どもに報復するのだ。
エレノアの脳裏に、ロゼの疲弊した顔が浮かんだ。目の下の隈、震える手、そしてそれでも向けられる純粋な眼差し。
(私は、この子を傷つけている……。この子だけは、確実に、私の悪意を受け止めている……)
その事実は、エレノアに奇妙な安堵感を与えた。同時に、ロゼが自分を慕い続けることに、言いようのない苛立ちと、そしてわずかな混乱も生じていた。
エレノアは、ロゼへの行動が、もはや「心の闇」を埋めるための、唯一の手段になっていることに気づき始めていた。それは、復讐というよりも、自己の存在意義を確認するための、歪んだ行為へと変質していたのだ。
ある夜。エレノアは、ロゼに言い渡した無理難題の仕事が終わり、ぐったりと眠り込んでいるロゼの姿を、こっそりと見に行った。
薄暗い部屋の片隅で、丸くなって眠るロゼの小さな身体は、あまりにもか弱く見えた。その頬には、乾いた涙の跡のようなものが、微かに光っていた。
(こんなにも、私に苦しめられているのに、なぜ、あなたは私を嫌わないの……?)
エレノアは、ロゼに与えた数々の陰湿な行いを思い返した。
熱い紅茶をこぼしたこと。
過酷な肉体労働を強いたこと。
そして精神的に追い詰めるような言葉の暴力。
そのどれもが、彼女の心と体に、確実に傷を残していたはずだ。しかし、ロゼは、一言も不平を言わず、ひたすらエレノアの命令に従い続けた。
エレノアは、ロゼの純粋なまでの従順さに、吐き気にも似た感情を覚えた。それは、かつていじめられていた頃の自分に、周囲が求めていた「従順さ」そのものだったからだ。
ロゼは、エレノアが最も憎むべき「いじめられる側の人間」でありながら、エレノアが最も理解できない「純粋な善意の塊」でもあった。その矛盾が、エレノアを深く苦しめた。
彼女は、自分が作り出したこの歪んだ関係に、次第に囚われていく感覚を覚えていた。ロゼに悪行をおすることで、一時的な満足感は得られる。
しかし、それは決して、心を満たすものではなかった。むしろ、罪悪感と自己嫌悪が、深く重くのしかかってくるばかりだ。
エレノアは、自分自身が、かつて自分をいじめた人間たちと同じような存在になりつつあることに、恐怖を感じ始めていた。
復讐を果たすはずが、いつの間にか、その憎悪の対象そのものに変貌しようとしているのではないか、と。
だが、それでも、エレノアは止まれない。
この『善行の呪い』から逃れるには、ロゼへの「悪行」を続けるしかない。そう思い込んでいた。
この呪われた世界で、唯一自分の悪意が成就する場所。それが、ロゼという存在だった。
エレノアは、ロゼへの悪意ある行動を、さらに深化させていくことを決意した。
それは、ロゼを徹底的に打ち砕くためであり、そして何よりも、この「善行の呪い」から逃れるための、エレノア自身の最後の抵抗だった。
(つづく)




